眠れません。



 紫浜しのはま 玲奈れなは、未鏡みかがみ 十夜とうやの腕に抱かれながら小さな笑みをこぼす。


「……ふふっ」


 そして彼女は、眠ってしまった十夜を起こさないよう優しく彼の頭を撫でてから、その頭をゆっくりと自分の胸に押しつける。


「私の胸が、好きなのでしょう? ならこうやって、押しつけてあげます。……それで貴方が少しでもいい夢を見られるのなら、これくらい構いません……」


 玲奈の大きな胸に顔を埋めながら、規則正しい寝息を立てる十夜。そんな十夜を見つめていると、玲奈の心臓はドキドキと跳ねる。そして自分でもはしたないと思うような欲望が、胸の内で暴れ回る。


 もっと近くで、彼の体温を感じたい。また、キスしたい。……いや、キスだけじゃない。その先まで、自分の全てを受け入れて欲しい。そんな欲望を、玲奈はどうしても抑えられない。


「……私はそんなことばかり考えてしまう、はしたない女なんです。……でも、今は我慢します。だって貴方の寝顔が、こんなに可愛いから……」


 玲奈は小さな声で、そう囁く。そして軽く息を吐いてから、この一週間を振り返る。


「私は、何もできませんでした……」


 それが玲奈の、素直な感想だった。部員を見つけてくれたのは十夜で、張り紙やビラを用意したのも彼だった。


 玲奈はそんな十夜の手伝いを、少ししただけ。そしてそれなのに、とても疲れているであろう十夜の家に無理やり押しかけて、自分勝手な弱音を撒き散らした。


「……私は、最低です。でも貴方は、そんな私を好きだと言ってくれる。本当に、バカな人……」


 玲奈は痛む胸を誤魔化すように、十夜の頭を優しく撫でる。すると十夜は、そんな彼女に甘えるように玲奈の背中を抱きしめる。


「……可愛い」


 ずっとこうしていたいと、玲奈は思う。このまま時間が止まればいいのに。この夜がずっと続けばいいのに。玲奈はそう願いながら、十夜を抱きしめ続ける。



 そしてしばらくそうやって抱きしめていると、玲奈は気がつく。



 胸の底に沈澱していた、あの冷たい想いがいつの間にか薄まっていることに。


「本当に変えてしまったのですね、貴方は」


 この夜で自分を変えてみろ、と玲奈は言った。けど玲奈は心の底で、そんなことできるわけないと思っていた。……そしてそれと同じくらい、この冷たい心を変えて欲しいと願っていた。


 だから自分の心境の変化に気がついた玲奈は、呆れたように曖昧な笑みを浮かべる。


「キスって、凄いものなんですね。あんなに気持ちよくて、ふわふわして……胸が痛くなるのは初めてでした。……だからきっと、私の心は貴方に溺れてしまったのでしょうね」


 玲奈は先ほどのキスを、思い出す。初めの唐突なキス。続く、優しいキス。そしてそこから徐々に激しくなって、最後の方は自分でも何をしているのか分からないくらい、めちゃくちゃなキスをした。


「……我慢、できなくなりそうです……」


 玲奈は一向に起きる気配のない十夜を自分の胸から離し、その艶やかな唇を見つめる。


「…………ごめんなさい」


 そしてそう呟いてから、優しく触れるだけのキスをする。すると玲奈の心臓は、またドキドキと早鐘を刻む。ついさっきまではもっと激しいキスを何度もしたのに、今の触れただけのキスはその時と同じくらい、心臓が跳ねた。


「…………」


 そして玲奈はまた、十夜の顔を自分の胸に押しつける。そして逃さないというように、背中に手を回し脚を絡める。


「……きっとできる女なら、早めに起きて朝ごはんだけ作って帰ったりするのでしょうね。でも、ごめんなさい。私は1秒でも長く、貴方と居たい。この温かさを、少しでも長く感じていたいんです……」


 制服が皺になるのも気にせず、玲奈は十夜を抱きしめ続ける。その間にも夜は少しずつ深まっていくのに、玲奈は眠気なんて全く感じない。寧ろ胸の中で暴れ回る感情は、時が流れるほど強くなる。


「……幸せ」


 でもそんな時間が、幸せだった。こんな風に、誰かに甘えられることなんてもうないと思っていた玲奈にとって、この一瞬は本当に幸福な時間だった。



 だから玲奈は、思う。



 この夜が、明けなければいいのに。そして、この一瞬が永遠だったらいいのに、と。



「未鏡 十夜さん。……きっと私も、貴方が──」



 そして玲奈はその永遠を確かなものにする為に、ゆっくりと口を開く。




 ……しかし、まるでそれを遮るかのように冷たい音が鳴り響く。



「……!」



 玲奈はびくりと肩を揺らして、音の方に視線を向ける。するとそこには、十夜のスマホが電話の着信を知らせる音を響かせていた。


 今はもう夜の12時前。それなのに気安く電話をかけてくる相手なんて、玲奈は1人しか知らない。……御彩芽みあやめ ちとせ。きっと彼女が、今度のデートの話でもしようと彼に電話をかけてのだろう。……そう思い当たった玲奈は、十夜を守るように背中に回した腕に力を込める。


「……嫌、です」


 玲奈はどうしても、嫌だった。彼がここで目を覚まして、自分とは違う女と話すことが嫌で嫌で仕方なかった。


 だから玲奈は、目を覚さないでと願いながら、必死になって十夜を抱きしめ続ける。



 そして1分、2分と時間が流れて、ようやく着信音が途切れる。




「……はぁ」



 玲奈は大きく息を吐いて、腕から力を抜く。


「よかった……」


 相当強く抱きしめたはずなのに、十夜はまだ眠ったままだった。きっと彼は、それほどまでに疲れているのだろう。……そしてそれは紛れもなく、自分のせいだ。自分が無茶をさせてしまったから、彼は泥のように眠っている。


「…………」


 そう思うと、玲奈は自分が情けなくなる。そして同時に、今日はもう帰るべきなんじゃないかって、そんな風に思ってしまう。だって、自分がどれだけ側に居たいと願っても、自分が側にいると十夜は絶対に無理をしてしまう。



 なら今は、彼の側に居るべきじゃない。



 玲奈はそんな風に考えて、ゆっくりと十夜から手を離す。そしてそのまま立ち上がり、扉の方に足を向ける。



 ……けど、



「…………ごめん」



 十夜が唐突に、そんなことを呟いた。


「……え?」


 だから玲奈は、驚いたように十夜の顔を覗き込む。……けれど十夜はまだ、眠ったままだ。でもその寝顔はさっきまでとは打って変わって、悪夢でも見ているかのように苦しげに歪んでいる。


「…………私は自分のことばかりで、貴方のことを全然知りません。……貴方も何かに苦しんでいるだなんて、そんなこと考えもしなかった……」


 十夜が何故こんなに悲しい顔をしているのか、玲奈には想像もつかない。けど玲奈は、彼のそんな顔なんて見たくはなかった。そしてそれ以上、彼にこんな顔をさせたまま家に帰るのなんて嫌だった。


 だから玲奈は邪魔だったブレザーを脱いで、またベッドに寝転がる。


「ほら、また私の胸に顔を埋めてください。こうしていれば、きっと少しはいい夢が見られるはずです。……それに、私が言ったんですよね? 今夜だけは、貴方の考えを受け入れるって……」


 玲奈は優しく強く、十夜を抱きしめる。そしてそのまま、ゆっくりと目を瞑る。


「…………」


 けれど眠気は、一向にやってこない。玲奈の胸の中では、今も色んな感情が暴れ回っている。だからどれだけ時間が経っても、眠れそうもない。……しかしそれでも玲奈は、とても幸福そうに十夜を抱きしめ続けた。



 

 そして夜が明けて十夜が目を覚ますまで、玲奈は過去の全てを忘れて彼の温かさを感じ続けた。


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