……いいですよ?



 どうすれば1人で生きられますか? と、先輩は言った。


「…………」


 きっと多分、その手の悩みは誰しも一度は考えたことがあるだろう。



 ……無論、俺も同じようなことを考えたことがある。



 人と人との繋がりにうんざりして。人の悪意に嫌気がさして。人の善意に辟易して。どうにか1人になれないものかと、必死になって頭を悩ました。……いや、別に完全に1人になる必要なんてない。ただ、自分の心を誰にも差し出さなくていい。そんな世界で、生きていたかった。


 ……けどそういう時、周りはいつも同じことを言う。『人は1人じゃ生きられないんだよ』『貴方が生きていられるのは、誰かに支えてもらっているからだ』『そして貴方だって、誰かの支えになれてるんだよ』そんな何も分かっていない連中の戯言を、何度も何度も聞かされた。


 昔の俺は、そんな連中が何より嫌いだった。



 けど、今の俺は……



「先輩。悪いですけど、俺も1人で生きる方法なんて知りません。……でもきっと、人は1人じゃ生きられないものなんですよ。……それに仮に生きられたとしても、俺は先輩を……絶対に1人にはしません」


 そう言って、まるで死んでしまったように身体から力を抜いた先輩を、強く強く抱きしめる。


「…………それじゃ、ダメなんです。姉さんを殺してしまった私がのうのうと笑って生きるなんて、そんなの許されない……」


「他の誰が許さなくても、俺が先輩を許します。……それに1人になるってことは、そのお姉さんのことも忘れるってことなんですよ? ちゃんと、分かってますか? ……人っていうのは、誰かのことを想っているうちは決して1人にはなれないものなんです」


「それは……」


 先輩はそこで、言葉に詰まる。だから代わりに、俺が言葉を続ける。


「それに先輩、言ったじゃないですか。俺とデートしてくれるって。案内して欲しい場所があるんだって、さっき言ってくれたじゃないですか。それなのに先輩は、1人になりたいなんて言うんですか?」


「…………そうです。例え貴方が許してくれたとしても、私が私を許せない。だからそのデートを最後に、貴方との関係を終わりにします。……だって、私にはもう……」


 先輩はそこで、何かを堪えるようにぎゅっと強く俺の背中を抱きしめる。……そんな先輩を見ていると、俺は強く思う。この強そうに見えて本当はとても弱い先輩を、絶対に1人にはしないと。



 ……例えそれが過去の自分への裏切りなのだとしても、俺は絶対にこの手を離さない。



「俺は先輩を、1人にしません。例え先輩がどれだけ俺から逃げたとしても、必ず見つけ出します。そしてまた、好きだって告白します。何度も何度も、先輩が俺を好きだって言ってくれるまで、俺は絶対に諦めません」


「貴方は本当に……ずるい人です。そんなことを言われると、私は……」


 先輩はそこでまた黙り込み、俺の胸に顔を埋める。……過去の話を始めてから、先輩は決して俺と目を合わせようとしない。それはきっと、先輩なりの拒絶の証なのだろう。こうやって抱き合って誰より側にいるのに、先輩の心はまだ過去に囚われている。


「……私に優しくしてくれる人は、もう貴方しかいません。私を抱きしめてくれるのも、貴方だけです。そして私を好きだって言ってくれるのも、貴方だけなんです。だから本当は私も、貴方を誰にも……渡したくない。ずっとずっと、私だけの貴方でいて欲しい。そんな風に、思ってしまう……」


「心配しなくても、俺はずっと先輩の側にいますよ。先輩が少しでも寂しいって思ったらすぐに駆けつけて、こうやっていつまでも抱きしめます。……それなのに、ダメなんですか? 俺は先輩が好きで、先輩も俺を……想ってくれている。それなのに先輩は、まだ1人になりたいなんて言うんですか?」


「……はい。だって私はもう、同じ失敗を繰り返すわけにはいかないんです。……でも、貴方と居ると心が揺らぐ。私は1人で生きなきゃいけないのに、貴方と居るとそれを忘れそうになる。きっとこれ以上貴方の側に居ると、私は……1人に耐えられなくなる」


 先輩は泣くような声でそう言って、俺の胸に額を押しつける。その姿はどこまで弱々しくて、でもだからこそ強い覚悟を感じる。


 きっと先輩にはまだ、俺には教えていない人を拒絶しなければならない理由があるのだろう。……けどそれなのに先輩は、決して俺から手を離そうとしない。



 きっとそれが、先輩の悩みの本質なのだろう。



 紫浜先輩は、誰かにこうやって抱きしめてもらえないと生きられないくらい弱い。それなのに先輩は、必死になって1人になろうとする。……そうしなければならない理由が、先輩にはある。


 ならそんな頑なな先輩を振り向かせるには、一体どうすればいいのだろう?


「……ふっ」


 そこでふと、気がつく。こんな風に悩むは、自分らしくないなって。


「先輩。少し、離れてもらってもいいですか?」


 だから俺はそう言って、先輩から手を離す。


「……もしかして、嫌になりましたか? 1人になりたいなんて言いながら、貴方の胸に縋る私を……嫌いになったんですか?」


「そんなわけないでしょ? ……ただ、先輩の大きな胸がずっと当たってて、それでちょっと……変な気分になりそうだったんです。だから少し、落ち着こうかなって」


「…………そう、ですか。人が悩みを話している最中に、貴方はそんなことばかり考えていたのですね。……でも、いいですよ? 私は決して、貴方の気持ちに応えません。けどその代わり、この身体が欲しいと言うのなら、私は……」


 先輩は顔を赤くして、こちらを見る。それは照れているようで、何かを諦めたような顔だ。……けど先輩は、確かにこちらを向いてくれた。諦めて、それでも全てを諦めきれない先輩は、縋るようにこちらを見る。




 だから俺は、その一瞬で先輩の唇にキスをした。



「────」



 先輩は心底から驚いたと言うように、目を見開く。けれど俺は気にせず、そのまま強く先輩を抱きしめる。


「好きです、紫浜先輩。俺は貴方が、大好きです。……だから今は、俺のことだけ見てくれませんか? 俺は頼りない奴で、先輩を1人にする方法なんて分かりません。けどその代わり、俺は貴方の孤独を埋められます」


 だから今は余計なことは考えず、俺のことだけ見てください。そんな自分勝手でわがままな想いを、俺は真っ直ぐに先輩に伝える。


「……バカじゃ、ないですか? ……初めて、だったのに……。それなのにあんな風に、いきなり……。最低です」


 先輩はジロリと、こちらを睨む。


「……いや、いきなりだったのは謝ります。でも俺は──」


「いいです。もう何も言わなくて、いいです。貴方の気持ちは、分かりました。……そして、このことを貴方に相談しても無駄だってことも、分かりました」


 先輩は冷たい声で、そう告げる。


「…………」


 だから俺は、思う。もしかして選択を、間違えたのだろうか? と。何度も何度も同じ問答をしても、先輩の答えは変わらない。なら俺は、そんな答えを出す先輩の心を変えようと思った。今の先輩なら、そんな俺を受け入れてくれると信じて……。



 けど、結果は最悪。先輩を、怒らせてしまった。



 だから俺は先輩から先輩から視線をそらし、ゆっくりと手を離す。


「…………どうして、手を離すんですか?」


「いやだって、嫌だったんですよね? いきなりキスしたの。だから俺──」


「違います。そうじゃないです。……言ったでしょ? 貴方になら、別にいいって。……私はただ、いきなりだったのが……嫌だっただけです。だから今度はもっと優しく、宝物を扱うみたいに……キスしてください」


「先輩……」


「……でも、今夜だけですよ? 今夜一晩だけ、私は過去を忘れます。……だって貴方が、優しいから。私の為に、頑張ってくれたから。そして何より、貴方のキスが……私を真っ白にしたから……」


 先輩はゆっくりと俺に迫る。だから俺もゆっくりと先輩に近づいて、また2人でキスをする。


「貴方が私を、弱くした。貴方と居ると、私はどんどん弱くなる。……でも今夜だけは、その弱さを受け入れます。そして今夜だけ、貴方にチャンスをあげます」


「チャンス、ですか」


「そうです。1人で生きたいと言う私に、貴方はそれは無理だと言った。でも私は、そんな意見は認めません。……でも今夜だけ、貴方の考えを受け入れようと思います」


 先輩は照れたように、赤く頬を染める。そしてそんな可愛い頬のまま、言葉を続ける。


「貴方は私を、愛してください。弱くて過去に囚われたままで、どうしようもない失敗を恐れる私を、貴方の愛で……変えてください。それができれば、この夜がずっと続くはずです」


 そこでまた、キスをする。今度は深く、息をするのも忘れるほど深く先輩と繋がる。そしてその後も、何度も何度もキスをした。まるでお互いの熱を確かめ合うかのように、俺たちはただ必死になってキスを繰り返す。



 先輩が過去より、俺を見てくれるように。先輩の抱える問題が、少しでも軽くなるように。そしてこのチャンスを、絶対にものにする為に。



 俺は何度も何度も、先輩にキスをした。



 そして自分がどこに居るのかも分からなくなった頃、先輩はぽつりと呟いた。



 ──ありがとう。



 それは俺の求める言葉ではなかったけど、それでも俺の想いが先輩の何かを変えられたんだと思った。だから俺はそんな先輩の声に安堵して、いつの間にか眠りについていた。



 ……けど、変化することが必ずしもいいこととは限らない。いや寧ろ、変化がもたらすものは、いつだってどうしようもない恐怖だ。それに俺は、まだ知らない。先輩の抱える問題の根の深さを、何一つとして理解していない。



 でも今はただ静かに、眠りについた。先輩の温かな身体を、抱きしめたまま……。


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