……バカですね、貴方。



「なら今から、私の胸に顔を埋めてください。……ただのおふざけなのですから、それくらい簡単でしょう?」



 紫浜先輩はそう言って、大きな胸を俺の方に突き出す。


「…………」


 少し頭を動かせば触れるくらい近くに、先輩の胸がある。それに女の子特有の甘い香りが漂ってきて、俺は少しドキリとしてしまう。


「どうしたのですか? やはり貴方の愛は口だけで、私に触れることはできないのですか? ……それとも、その友人の胸じゃないと嫌だとか、そんなことを言うつもりですか?」


「いや、そういうわけじゃ……」


「なら、いいじゃないですか。だってこれくらい貴方にとって、ただのおふざけなのでしょう?」


 先輩はそう言って、見せつけるように大きな胸を持ち上げる。そんなことをすると、制服越しでも分かる先輩の巨乳が大きく形を変えて、俺は思わず視線をそらす。



 そして気づけば、先輩の瞳にいつもの冷たさが戻っている。



「…………」


 だから俺は、ふと思う。もしかしたら先輩は、俺が他の女とイチャイチャしてると思って、嫉妬しているのかもしれない、と。




 ……いや、きっとそれは俺の願望なのだろう。



 正直言って、先輩がいいって言ってくれるのなら、この大きな胸に顔を埋めたいと思う。……しかし、今までの先輩の態度から考えて、きっと先輩は俺のことを嫌っているはずだ。



 ならそんな先輩が、何の裏もなく自分の胸を触らせてくれるだろうか?



 ……根が暗い俺は、どうしてもそんなことを邪推してしまう。例えば俺が先輩の胸に触れた瞬間、大声を出す。そうすればきっと誰かがやってきて、下手をすれば俺は退学になるだろう。



 けど逆にここで逃げたりしたら、『貴方の愛は口だけです』と、顔を合わせる度に言われるのだろう。



 そうなれば僅かばかりあった俺の勝ち目が、完全になくなってしまう。


「…………」


 どっちに転んでも、詰みだ。きっと先輩は、さぞかしチェスが強いのだろう。


「……どうやら、無理なようですね。やっぱり貴方は、口だけなんです。もう数え切れないほど私に告白してきたのに、貴方はただの一度も……私に触れようとしなかった。……だから結局、貴方は私のことが好きなんじゃなくて、冷血吸血鬼の──」



「……分かりました。触れます。先輩の胸に、触れますよ」



 先輩のその言葉は、もしかしたらただの挑発なのかもしれない。……けど、例えそうであったとしても、俺はこの人にその言葉を言わせたくなかった。



 だからバカみたいな宣言をして、立ち上がる。



「……ふふっ。そうですか。ならお好きにどうぞ。……あ、そうだ。このブレザー、脱ぎましょうか? そうすればより近くで、私の胸の柔らかさを感じられるはずですよ」


 そう言って先輩は、ブレザーのボタンに手を伸ばす。


「…………」


 俺はそんな誘うような先輩の行動を黙ったまま見つめて、最後にもう少しだけ思考する。



 本当にここで、先輩の胸に触れていいのだろうか?



 きっとここで選択を間違えれば、俺と先輩の関係は完全に破綻する。……いやもしかしたら先輩は、それを望んでいるのかもしれない。

 

 何度振ってもめげずに告白してくる俺を、先輩は嫌っている。それはもう、分かっていることだ。……なら俺はここらで、身を引くべきなのかもしれない。





 ──そんなことを考えた瞬間、ふと、とある言葉が思い浮かんだ。




「……ふっ」



 だから俺は不敵な笑みを浮かべて、覚悟を決める。



「……脱ぎましたよ? 流石にこれ以上は脱いであげませんけど、これでもすごく柔らかいと思いますよ? ……貴方の友人より、私の方がずっと気持ちいいはずです。だからほら、できるものなら私の胸に触れてみてください」


 紫浜先輩は誘うように、試すように、そしてどこか……縋るように、両手を広げる。


「…………」


 だから俺はそんな先輩を正面から見つめて、





 そして、






 そして俺は、先輩の頭を無理やり俺の胸に押しつけた。



「ふやっ⁈」



 紫浜先輩はそんな俺の行動が意外だったのか、らしくもなく変な声を上げる。


「先輩今、可愛い声でてましたよ?」


「で、出てません! というか貴方、なんで急に私のこと……抱きしめるんですか……! 意味が分かりません! ……最低です!」


「いや言ったでしょ? 胸に顔を埋めるくらい、ただのおふざけだって。だから、ほら。こうやって先輩の顔を、俺の胸に埋めさせてあげてるんです」


 俺はそう言って、先輩の顔を優しく俺の胸に押しつける。


「……貴方が私の胸に、顔を埋めるのでしょ? というか、頭に触らないでください。……くすぐったいです」


「あ、すみません」


 そう謝りはするが、手は離さない。


「……紫浜先輩。俺はね、先輩に嫌われてると思ってるんです。だからそんな先輩の胸に触れたら、大声で叫ばれて人生お終いとか考えてました」


「……なんですか? それ。貴方、バカじゃないですか……?」


 先輩は呆れたように、息を吐く。けれど俺は気にせず、話し続ける。


「でも、思い出したんです。先輩がさっき言ってくれた、言葉を。……いくら考えても、他人の気持ちなんて分からない。だから大切なのは、自分が相手をどう思っているのか。それが分かれば、自ずと対応も分かってくるって。先輩は確かに、そう言った。だから俺は、先輩を抱きしめました」


「……意味が、分かりません。どんなことを想えば、私を抱きしめようと思うのですか……」


「簡単ですよ。俺はね、いつも1人でいる貴女のそばに居たいと思った。だから俺は、何度も何度も告白を繰り返した。いつかこうやって、1人でいる貴女を抱きしめたいと思ったから……」


「…………」


 先輩は無理やり逃げるような真似はせず、黙って俺の言葉を聞いてくれる。だから俺はそのまま、言葉を続ける。


「辛い時にこうやって抱きしめてもらえると、すごく安心する。寂しい時に誰かに触れてもらえると、寂しさを忘れられる。……俺は先輩が、寂しそうに見えた。それはただの勘違いかもしれないけど、俺はずっとそんな先輩の寂しさを埋めてあげたかった」


 だから今、先輩を抱きしめた。それはずっと先輩にしてあげたかったことで、だからここで先輩に嫌われるのなら、そもそも俺の想いは叶わなかったのだろう。


「紫浜先輩。これは俺の、わがままです。だから嫌なら嫌って言ってもいいし、気持ち悪いなら叫んでくれて構いません。でも最後に一つだけ、聞いてください」


 先輩の柔らかな感触を、身体中で感じる。けど俺は少しも照れることなく、ただ真っ直ぐに彼女を見つめる。




 そして、何度も何度も繰り返した言葉を、もう一度口にする。






「好きです。紫浜先輩」





 その言葉は、その想いは、決して嘘ではない。だから俺は自分勝手に、また先輩に告白した。



「…………そうですか。でも私は、貴方が……嫌いです……」


 けれど紫浜先輩は、とても小さな声でそう言葉を返した。だから俺はそれ以上なにも言わず、ゆっくりと先輩から手を離す。



「…………」



 ……けど何故か先輩は、俺の胸に顔を埋めたまま動かない。


「どうかしたんですか? 先輩」


 だから俺は確かめるように、そう尋ねる。


「……別に、どうもしません。……でも私、ちょうど本を読み終えたところなんです」


「……いや、意味が分からないんですけど……」


「だから、その……もう少しだけ貴方のおふざけに付き合ってあげると、そう言ってるんです……!」


「……ふっ、そうですか。分かりました。ならもう少しだけ、一緒にふざけましょうか」


 先輩の言葉がおかしくて、俺は軽い笑みを浮かべる。先輩はそんな俺の態度が気に食わないのか、顔を真っ赤にして俺の胸に顔を埋める。


「ねぇ、未鏡 十夜さん。私はね、人を……貴方を信じられないんです」


 そうやってしばらく2人で抱きしめ合っていると、先輩はぽつりとそんな言葉をこぼす。


「貴方は何度も、私に告白してきた。けど私は、そんな言葉なんて信じてませんでした。貴方の言葉は全て嘘で、貴方はただ私の……冷血吸血鬼の秘密が知りたいだけなのだと、そう思っていました。……いえ私は今でも、そう疑っています」


「…………」


「でも少しだけ、本当に少しだけ、貴方の言葉を信じることにします。……だって貴方の心臓、こんなにドキドキとうるさいですから……」


「そうですか。それは、よかったです。……でも先輩の心臓も、すごくドキドキしてますよ?」


「……! う、うるさいです!」


「あははっ。暴れないでくださいよ」


 そんな風に、先輩とじゃれ合う。それはとても、幸福な時間だった。



 どうして先輩が急に、自分の胸に顔を埋めろなんて言ったのか。その理由は、俺には分からない。……けどきっと、今の俺の選択は間違いではないはずだ。


「…………」


 この人がどういった事情を抱えていて、何故いつも1人なのか。俺はある程度、その理由を知っている。



 だから別に、彼女が可哀想だとは思わない。



 けど紫浜先輩は、まるで寂しがり屋の子供のように俺の胸に顔を埋める。そんな先輩を見ていると、俺は思ってしまう。



 先輩はただ、寂しかっただけなんじゃないかって。



「紫浜先輩」


「……なんですか?」


「明日も会いに来て、いいですか?」


「嫌だと言っても、来るのでしょう?」


「ですね」


「……なら、好きにしてください」


 先輩はそう言って、俺の背中に手を回す。だから俺も、優しく先輩のことを抱きしめる。そうして日が暮れるまで、俺たちはただ2人きりでおふざけを続けた。








「…………」



 部室の外から向けられていた視線に、気がつくことなく……。


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