これくらい、できますよね?



 そして翌日の放課後。俺はまた紫浜先輩の居る文芸部の部室を目指して、歩を進めていた。


「…………」


 昨日あれから、黒音と何度かチェスをして暗くなる前に家に帰った。あいつはボードゲーム部だけどゲーム全般がかなり弱いから、チェスは俺の全勝だった。


 ……まあ、後輩の女の子相手に本気で勝ちにいくのはどうかと思うけど、あいつは手を抜くと怒るから仕方ない。そしてそのあと、家に帰ってちとせに何度か電話をしたが、繋がることは一度もなかった。


 だからきっと、あいつはすっぽかしたことを怒っているのだろう。……そう思っていたのだけど、今朝会ったあいつはいつもよりずっと楽しそうに


『ごめんね、十夜。昨日疲れてたから、電話出られなかったの』


 そう言って、笑った。だから俺は何の憂いもなく、文芸部の部室にやってきた。


「こんにちは、先輩」


「……こんにちは」


 紫浜先輩は読んでいた本を机の上に置いて、こちらを見てちゃんと挨拶を返してくれる。それは今までなかったことで、俺は少し驚いてしまう。


「なにをそんなに、驚いた顔をしているのですか?」


「いや、先輩が挨拶を返してくれたのって、初めてじゃないですか。だからちょっと、嬉しくて」


「そうですか。貴方はその程度のことでそんなに喜ぶほど、私のことが好きなのですね。……本当に、不愉快です」


 先輩は呆れたように、息を吐く。しかし言葉に、いつもの冷たさがない。だからやはり、ちとせの作戦は上手くいっているのだろう。


「……いえ、そんなことはどうでもいいんです。それより、恋愛相談でしたっけ? やるなら早くして頂けませんか?」


「……そうですね」


 俺はそう答えを返して、目の前の椅子に腰掛ける。……できれば本題に入る前に『先輩。今なんの本、読んでたんですか?』とか言って、少しでも彼女との距離を縮めたいと思っていた。……けど流石に、そう上手くはいかないようだ。


「あーでも、先輩も何か、相談したいことがあるんですよね? なら先に、そっちを聞いてもいいですよ?」


「いえ、それには及びません。私の悩みは、本当に些細なものですから」


「……そうですか? まあ先輩がそう言うなら、俺が先に話させてもらいますね?」


「…………」


 俺のその言葉に、紫浜先輩は黙って頷きを返す。だから俺は、ちとせと一緒に考えた設定を思い出しながら口を開く。


「友人だと思ってた女の子に告白されたって話は、昨日しましたよね?」


「はい」


「それでまず聞きたいんですけど、俺はこれからその子にどういう態度で接すればいいと思いますか?」


「…………」


 俺の問いを聞いて、紫浜先輩は考え込むように目を閉じる。でもすぐに何か思い浮かんだのか、目を開いて手早く言葉を口にする。


「貴方はその人のことを、どう思っているのですか?」


「俺が、ですか?」


「そうです。結局いくら考えても、他人の気持ちなんて分かりません。だから大切なのは、貴方がその人のことをどう思っているか、でしょ? それをしっかりと自覚できれば、自ずと対応も分かってくると思いますよ」


「それはまあ、そうかもしれませんね……」


 思いのほかちゃんとした意見が返ってきて、俺は少し言葉に詰まる。


「……ではまず自分の想いを確認する為に、一度話してみてはどうですか? 貴方とその人の関係を」


「それは別に、構わないですけど……。でも、面白い話じゃないですよ?」


「構いません。元より貴方との時間は、退屈ですから」


「……そうですか。じゃあ少し長くなるかもしれませんが、聞いてもらえますか?」


「…………」


 紫浜先輩は、黙って頷きを返す。だから俺は、あいつとの関係を素直に話すことにする。……だって別にここで嘘をつく意味もないし、それにあいつとのことを話すということは、俺の過去を話すということでもある。



 なら少しは先輩も、俺に興味を持ってくれるかもしれない。



 そんな打算ありきで、俺はちとせとのことを話し出す。



 彼女の名前は、御彩芽 ちとせ。中学からの付き合いの、同い年の女の子。白い綺麗な髪に、射抜くような紅い瞳。彼女はその特殊な見た目と名家の生まれということもあって、学校で浮いていた。


 そしてとある事情で同じく孤立していた俺と意気投合して、それからはほとんど毎日一緒に遊んでいる。



 俺はそんなことを手短にまとめて、できるだけ面白く先輩に伝える。



「…………」


 ……けれど何故か、話が進むにつれ紫浜先輩の表情が曇っていく。


「……何か気に障ることでも、言いましたか?」


 だから俺は確かめるように、そう尋ねる。


「いえ、別になんでもありません。……ただ随分と楽しそうに、その方の話をするんですね? ……もしかして貴方、私のことよりその人のことの方が好きなんじゃないですか?」


「いや、何を言ってるんですか。……少なくとも俺は、友人としか思ってないですよ」


「でも貴方……その人の胸に顔を埋めて、喜んでいるのでしょう?」


「…………え?」


 俺は驚いて、先輩の顔を覗き込む。……確かに俺はよく、あいつの胸に顔を埋めたりする。いや正確にはあいつが俺の顔を、自分の胸に押しつけるだけなんだが……。



 けどなんで紫浜先輩が、そのことを知っているんだ?




「その顔、やはりそうなのですね。……あんなに何度も私に告白してきたのに、裏では他の女とイチャついていたのですか、貴方は。……最低です。死んでください」


「いや違いますって! あいつとはまあ……多少じゃれあったりしますけど、それはただのおふざけですから! 別に変な意味なんて、ないんですよ! というかあいつの胸は、顔を埋められるほどデカくないです」


「……でも、お高くとまってる私じゃ知らない方法が、あるのでしょう? ……不潔です」


「いや、何を言ってるんですか……」


 先輩の様子が、少しおかしい。知らないはずのことを知っているというのもあるけど、それ以外にもどこか浮ついている感じがする。


 ……いや今はそんなこと、どうでもいい。それより早く誤解を解かないと、せっかく築いてきた先輩との関係が、壊れてしまう。


「…………」


「…………」


 ……そう思うのだけれど、何を言えばいいか分からない。だからこの場には、今までとは比べものにならないくらい気まずい沈黙が広がる。



 ……ダメだ。このまま黙り込んでいても、埒があかない。でもだからと言って、あれはただのおふざけなんです。なんて言っても、先輩は納得してくれないだろう。



 なら、どうすればいい?



 時間が止まるくらいの速度で、思考する。自分で言うのもなんだが、俺は結構、頭がいい。テストで学年1位を、とったことがあるくらいに。



 だからそんな俺なら、打開策を導き出せるはずだ。そう信じて、必死に頭を悩ませる。




 ……けど俺が打開策を導き出す前に、紫浜先輩が口を開いた。




「未鏡 十夜さん。貴方は胸に顔を埋めることくらい、ただのおふざけだと、そう言うのですね?」


「……はい、そうです。あいつとは別に何もなくて、ただふざけ合ってただけです」


「ふふっ、そうですか。分かりました」


 紫浜先輩はそう言ってゆっくりと立ち上がり、まるで獲物を追い詰めた狩人のような目で、俺の目の前まで移動する。



「くふっ」



 そしていつもの冷たい表情とは正反対の笑みを浮かべて、とんでもないことを……言ってのけた。





 




「なら今から、私の胸に顔を埋めてください。……ただのおふざけなのですから、それくらい簡単でしょう?」


 先輩はまるで誘うように両手を広げて、大きな胸を俺の方に突き出す。


「…………」


 だから俺はそんな先輩の行動に驚いてしまって、大きな胸を見つめたまま動くことができなかった。


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