第三章※劫刻〈クォータークォーツ〉

第17話 奪われて、臓腑攪拌五里霧中

 十日、夕方、プランAが失敗した。わたしが考えていた作戦その一ことプランA〈なに喰わぬ顔で実家に帰ってマツユキと一緒にクソ姉貴を倒す〉。その為の切り札は〈マツユキ〉。だってあの女はマツユキのことが好きだから。

 だから、五年前と同じようにマツユキを利用する。

 そうしてあの忌々しいクソ姉貴に吠え面をかかせてやる、つもりだった。

 わたしたちはあっさりクソ姉に負けた。マツユキを使うまでもなく、初めにわたしがやられてしまった。念のために体内の水分を維持していたのが裏目に出るなんて想像もしていなかった。とはいえ、あの女が自分の体液を霧状にするくらいは予測できてもよかったはずなのに、わたしはマツユキに信頼を置き過ぎて完全に失念していた。

 いっそのこと本当に盲目なら、こんな現実が全部嘘なら良かったのに。

 こんなにも死にたくなったのは久しぶりだ。

 一番嫌いな女に一番好きな男を取られて、何よりかつての自分が目論んでいたことの意趣返しをされたようで悔しかった。それを、あなたの口から聞いたおかげで死にたくなった。

『俺は貴方のものになります。だから、久遠の命は見逃してくれませんか?』

 は? なに? どういうこと? わたしはそんなこと望んでない。あなたが一緒に生きてくれないなら命なんていらない。わたしに生き甲斐を与えた笑顔で、そんなことを言わないで。

 でも待雪はわたしの困惑を読み取ったみたいにあの女に立ち向かった。あの笑顔と同じようにアイツに取り入るフリをして、わたしの頬に触れて拳を握ってくれた。

わたしも戦わなきゃ。立ち上がらなきゃ。そう思ったのに、身体はいうことを聞いてくれない。欲深いわたしはわたしのために戦ってくれるマツユキから目を離せなくて、そのせいでマツユキが倒れてしまった。

 あの女を許さない。弱いわたし自身も許せない。そうしてやっぱり死にたくなったのに、それであの女が喜ぶとしてもわたしにはどうしようもないからやっぱり死にたくなったのに、マツユキはできもしないクセに、絞り出すようにこういった。


「――久遠は……俺が……守る」


 いい気味だ。ようやくクソ姉のアホ面を拝めた。あまりにも嬉しくて笑ってしまう。その言葉なら、いくらあの女でも否定はできない。それを否定してしまえばアイツは今度こそ全て失うことになる。

 マツユキは残した嘘で、わたしを守ってくれた。

 そうはいってもわたしたちがピンチであることには変わりがなかった。今さら作戦その2ことプランB〈どっちが勝っても本家的に損失はないのだから公平を期すためにもわざわざ援助を受けに来てあげたのよ感謝してよね作戦〉もこの状況では使えない。

 わたしは簡単には死なないし、傷ついても差し支えない程度の能力は持っている。でも傷ついて痛くないわけじゃない。久しぶりに拷問ぐらいは覚悟しなければならない、死にたい。

 九頭龍迦楼羅の能力は〈九頭龍血脈・未鎚クオンタムウォーター・オーバーオール〉。

 自らの体液は無論、自らの体液が混ざった液体を自在に操作する能力。

 流れる方向、体積、質量、密度、温度、粘度、エトセトラ。自由度が高すぎるからたぶん、その気になれば固体も操作できるんじゃないかと思う。国の所有する最終防衛ラインとして、はたまた九頭龍分家の頭領としてふさわしい能力。相手がわたしとマツユキでなければ初手の不意打ちで殺されていただろう。

 閑話休題。

どこからか透明の大蛇が現れた。這ってきた方向からして滝壺の水から生み出したの だろう。大蛇はマツユキを丸飲みにしたあと生きているかのように舌なめずりをして、わたしにも迫る。指先一つ動かさず、この女はわたしとマツユキを屋敷に運ぶつもりだ。少なくともわたしは間違いなく土蔵行き。ようやくお腹の気持ち悪さが消えてきたのに、もはや抗おうという気さえ起きない。

 諦観いっぱいにマツユキが待つ大蛇ののど奥を見つめたとき、大蛇が弾け飛んだ。一瞬、マツユキが目覚めたのかもしれないと期待した。でも違った。だって見つめた先にはマツユキを抱える金髪の女がいた。

 渡貫千鳥。四月の一日と書いて〈四月朔日〉で、病院だの会社だのと分家の中でも特に組織として優れながら〈対個人〉として優位に立つ能力を持つ家系の長女。実をいうと九頭龍のデータベースを用いずとも彼女のことは知っていた。

 能力名〈四月朔日血脈・雷神殺しクオンタムクアッド・ライトニングロッド〉。

 四肢それぞれが磁力を持ち、それぞれに触れた対象にも磁力を与えることが可能な能力。

 大蛇だった飛沫が飛散する中、耳の後ろで結われた二つの黄金色が空に尾を引いて煌めく。ピンク色の世界でなお色褪せない、夕日を受けて黄金色に見えるクソ姉の髪とは違うベクトルの綺麗な有様が少しだけ羨ましい。

 それはそれとして、お姫様だっこされるマツユキはあまり見たくなかった。

 隕石にも似た雷鳴は、毛先が地面に向くより早くクソ姉に向きを変えた。

 渡貫千鳥は撃ち出され、滑るようにクソ姉へ切迫する。

 斜め下から日本刀で斬り上げる逆袈裟斬りを彷彿させる蹴りが襲う。続けて勢いを殺さず、剣技の突きにも似た後ろ回し蹴り。風を切る音が二回、三回と連続する。霧が揺らぐ。

 全て、クソ姉を貫通していた。

 恐らくリニアモーターカーと同じ原理を利用している、地面と脚の間に磁力の〈反発〉を利用した移動と軸のブレない連続攻撃。マツユキを抱えたままでそれができるのは単に身体運びが上手いというだけではなく、腕とマツユキの間を磁力の〈誘引〉を利用して離れないようにしているのかもしれない。傾げた首に金髪が揺れる。

「ふうん、貴女も私の邪魔をするのね。渡貫千鳥さん」

 声は視界の外から聞こえた。

 渡貫千鳥の前にいたクソ姉が空気に溶けるように、消えた。

 蜃気楼、だったのだろう。濃い霧の中、温度と湿度を操作して自分の像を曲げていたのだ。

 渡貫千鳥は止まらない。首を傾げるなりすぐ消えた。

 いや、消えたのではない。飛んだのだ。

 ゆっくりと味わうようにマツユキの軌道を辿る。声と逆方向、わたしたちが登ってきた方向の杉の木の上にマツユキを抱える渡貫千鳥が立っていた。たしかに上なら霧も薄い。

「ごめんなさい、センパイ……ウチ、やっぱり我慢できません」

「同じ研究所のよしみで一応忠告はしてあげる。今すぐ私の待雪君を返してここから立ち去りなさい。そしてこの戦いから降りなさい。そうすれば命だけは助けてあげる」

 眉根を下げて、わたしを見下すように一瞥する。何を悩んでいるの?

「無様だね、くーろん」

 何も言い返せない。別にいい。この際それでもいい。クソ姉の手にさえ渡らなければ、今は無様で構わない。

「やっぱりアンタなんかにゆっきーは任せておけない。ゼッタイ渡さない。センパイにも」

 そうして渡貫千鳥はわたしたちの前から姿を消した。というのが理想的だったが、ダメだった。彼女は何もいわずにマツユキを抱えて逃げるべきだったのだ。

「残念」

 渡貫千鳥は飛び上がるべく脚を伸ばした。でも、足は木の枝を離れない。木の幹から足首にかけて彼女の足首よりずっと分厚い氷が張っている。

「じゃあ、さようなら」

 ゆっくり味わうように目を凝らす。

 クソ姉はまた滝壺近くの小さな祠の前に立っていた。

 彼女なら抜け出すのは難しくないだろう。でも、間に合わない。

 わたしの力では、クソ姉の攻撃から二人を守ることはできない。

 滝。自由落下に等しい大容量の水。その末端が揺らぎ、向きが変わる。変わる、というより加速したというべきかもしれない。どうやらクソ姉はウォーターカッターを使うらしい。鋼鉄であれ裁断する火力を、マツユキにまで向けようとしている。

 わたしは――。

「逃げなさい、早く!」

 ここにきてようやく、わたしはクソ姉に抗うために能力を発動した。

 やっぱり悔しいけど、あんな奴でもクソ姉よりはマシだ。

 ああほんとう、なんて無様。

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