第4話


 ─AD 1100年

  ミグレイナ大陸・曙光都市エルジオン

  シータ区画─



「アルドさん、ズイブン変わったかたをお連れデスネ」


 シータ区内にある天才少女セバスちゃんの家を訪ねたアルドは、メンテナンスが終了したらしいリィカに開口一番、そう言われた。


 作業道具を片付けていたセバスちゃんがデスクから顔を上げ、ああ戻ったのね、と笑う。


 そしてリィカ同様、アルドの背後に佇むアンドロイドを目にして、あらと感嘆の声を上げた。


「本当に、珍しいモデルを連れてるじゃない。わたしもデータでしか知らない古い型よ、まだ動いてる機体がいるなんてねえ」

「そ、そうなのか? そういえば、街でもおばあさんとかに珍しいねって声かけられてたな。リィカとはぜんぜん違うな、とは思ってたけど」

「リィカはほぼ最新型だから。そのモデルなら、発表されたのは数十年前とかじゃないかしら? 不具合で回収沙汰にもなった型番もあって、覚えてる人も多いはずよ」

「回収? 不具合?」

「ええと、詳しくは覚えてないんだけど。デバック前の調整中ユニットを組み込んでしまったからどう作用するか不明で、万全を期すためにいったん回収する、とかなんとか。知りたいなら、当時のデータを探すけど?」


 端末に手を伸ばそうとするのを制して、それより相談したいことがあるんだよ、とアルドはアンドロイドの手を引いて二人の前に連れ出した。


 はじめまして、と行儀よく頭を下げるアンドロイドに、リィカは素直に応じたが、セバスちゃんは驚いて仰け反っていた。


「古いのに、ずいぶん滑らかなモーションね。メンテナンスの腕を感じるわ」

「セバスちゃんの腕も負けてはイマセン。見てクダサイ、この滑らかな髪の動きヲ」

「リィカ、屋内でツインテールを振り回すのは危ないぞ」

「というか、こんな古い型のアンドロイド、どこで見つけたの? メンテナンスにだって限界はあるわ、テクニカルサポートの有効期限はとっくに切れてるだろうし。対処できない不具合があったら、どんなに愛着があったって廃棄するしかないんだから」


 よほど手をかけてお金をかけて、大切に使っていたのね。だからこそ、その辺に落ちてるはずがないんだけど。


 セバスちゃんはそう語って、まぶしそうにアンドロイドの横顔を見た。

 肝心のアンドロイドは、リィカが振り回すツインテールがぶつかってあわあわしている。


 手をかけて大切にされていたと聞いて、アルドの脳裏には、大切な世話係を失って激昂する、あの青年の姿が浮かんでいた。


 手入れの行き届いた金髪に、育ちのよさそうな精悍な顔立ちをしていた。

 きっと、彼はアンジュを、それは大事にしていたのだろうと伺えた。


 だからこそ、そのアンジュとそっくりなアンドロイドを見て、あんなに取り乱していたんだ。

 きっと自分だって、フィーネが誘拐されたときに、そっくりな偽物が目の前に現れたら、冷静でなんていられない。


 その偽物に、お兄ちゃん、なんて呼ばれたら


「で、どこで拾ってきたの? 元いた場所に返してきなさいよ、いまごろ持ち主が血眼で探してるわ。EGPD沙汰はごめんなんだけど」

「そんな捨て猫みたいに……。それが、持ち主に廃棄されたシリアルナンバーの機体らしくて、そのEGPDに追われてるんだよ」


 は? と少女が愛らしい顔を怪訝に歪める。


 即座にアンドロイドの近くにいたリィカに背中の長い番号を読み上げさせ、自ら端末を立ち上げて操作し始める。

 しばらく端末とにらめっこをしていた少女は顔を上げ、険しい顔つきでアルドを見た。


「本当に、先週廃棄登録されているナンバーだわ。リサイクル工場で解体も済んでいるって。どういうこと? 目の前にいて、動いているんだけど。オカルト案件なの?」

「それで、困ってるんだ。本人に確認したいのに、記憶喪失だって言うし。八方塞がりで」

「本人が? 記憶喪失って? そう言ったの?」


 これまでで一番の食いつきで問われ、アルドはその勢いに仰け反った。


 な、なにかおかしいのかと絞り出した声に、少女はおかしいってレベルじゃないわ、と低い声で応えた。


「記録デバイスに故障があって、データが損傷したという話? そもそも、アンドロイド本人が、自分に記憶がないなんて話すの、聞いたことないんだけど」

「どういうことだよ。現に、こいつは自分のことを、まったく覚えていないんだぞ」

「あのね、アンドロイドを始めとするいわゆる人工知能を搭載された機体って、仮に記憶データがクラッシュしたとしても、こうして動いている以上、人間の脳みそに相当するAIが機能しているの。つまり、アンドロイドとしての自我はあるわけよ」

「うん? つまり?」

「アンドロイドとしての自我があるってことは、自分にその自覚があるってこと。その状態で、自分は記憶喪失ですって人間みたいに話すの、おかしいと思わないかしら。たぶん、アンドロイドはそういうとき、記憶データに問題があります、とかって言うんじゃない?」


 専門的な知識を持つ相手に断言されて、アルドは押し黙るしかなかった。

 唇を噛みながら、リィカとじゃれているアンドロイドを振り返る。


 考えないようにしていたことだが。


 やはりEGPD隊員たちの言うように、合成人間がアンドロイドの振りをしている、反共生派の工作員と、いう可能性が


「……中身は、合成人間だってこと、なのかな」

「は? なに言ってるの? 合成人間だって人工知能で動いているんだから、結論は同じなんだけれど。というか、どうやって合成人間がアンドロイドを装うわけ?」

「え、え? アンドロイドじゃないなら、合成人間なんじゃ」

「待って、なに? 話が見えないわ。この子はアンドロイドじゃないってこと?」

「ハイ、そうデス。このかたは、アンドロイドでも合成人間でもありマセン」


 聞き慣れた機械音声は、そうはっきりと言い切った。


 アルドがセバスちゃんと同時に振り返った先で、リィカはアンドロイドの腕を撫で回しながら、しきりに首を傾げていた。


 さっきまでのじゃれ合いと同じように。


「彼、と仮に男性体とみなすトシテ、彼には生体反応がありマスノデ」

「せいたい、反応?」

「我々は精密機械デス。精密機械は熱に弱イ。常にボディ内に備わっている冷却装置がフル稼働している状態デス。デスガ彼は、ボディ全体に熱源反応がありマス。マルデ、生き物のヨウニ」

「ええと、合成人間は、半分は有機体って聞いてるぞ。もし合成人間なら、生体反応も熱源反応も、あっておかしくないんじゃ」

「否デス。合成人間は半有機体でアリ、もう半分は特殊金属で製作されてイマス。デスガ、彼は、金属反応すらありマセンノデ」


 金属反応がないの、と目をむいたのはセバスちゃんだった。

 それは、そうだろう。見た目はまったくアンドロイドにしか見えないのだ。

 ぜんぜん違うと言われても、にわかには信じがたい。


 そして、なによりアンドロイド自身が瞠目し、己の身体を信じられないものを見るように、凝視していた。

 彼の傍らに立つリィカだけが、冷静だった。


 表情の出ない鉄仮面の中で、両目を光らせ、まっすぐにアンドロイドを見つめながら。


「冗談でしょ、リィカ。どこからどう見てもアンドロイドにしか見えないのに、着ぐるみだって言いたいの?」

「着ぐるみである可能性は極メテ低いデス。中に人ナド入っていまセン。金属に見せかけた、コレハ彼本人の肌であると分析シマス」

「ま、待ってくれ、じゃあこいつは、そもそもアンドロイドじゃないのか?」

「まったく異なるものであると断言シマス」

「じゃ、じゃあ、ぼくは、……ぼくは、いったい、なんなの?」


 全員の視線が、アンドロイドに集中した、そのときだった。


 聞き覚えのある警戒音が外から鳴り響き、セバスちゃんがなにごと、と悲鳴を上げた。


 アルドの記憶には新しいこの音は、青年がアンドロイドに向かって発砲し、道路を傷つけたときに発動したものと同じ警報だった。


 なにかがあったんだと、アルドは即座に家を飛び出した。ほかの三人も後に続く。

 住居群の立ち並ぶシータ区の空を、その真っ黒い物体は浮遊していた。


 のっぺりとした黒い塗料でペイントされた、巨大なドローンだった。


 いつものよりずっと大きいわ、と口元を押さえるセバスちゃんを庇うようにリィカが前に出る。

 アルドも剣の柄に手を伸ばしながら、迎撃の構えを取ろうとして


 通りを一人で駆ける、EGPDの隊服に身を包んだ金髪の青年が、ドローンに向かって発砲しつつ、市外へと追い返そうとしているのを見た。


 青年は手元の機械に向かってなにかを叫び、増援を呼びかけているようだった。

 すべてを聞き取ることは距離的に難しかったが、工業都市廃墟に向かい、大元を叩くという旨の単語は拾うことができた。


 青年は逃げようとするドローンを追って、わき目も振らずに区画の外れまで向かっていく。


 通りに出ていた人々が避難のために慌ただしく住居群に向かうなか。

 アルドの背後から飛び出したアンドロイドは、小さくなっていく背中にまた、坊ちゃんと叫んだが、もう届いてはいないようだった。


 その声は、呼び戻そうと必死に、かすれていたのに。


「だめだ、坊ちゃん、あのときは二人でも敵わなかったのに。一人でなんて無茶だ!」

「え、ま、待て、あのときって?」


 咄嗟に問いかけたアルドの声に、切羽詰った顔をしていたアンドロイドはあれ、なんだろう、わからないと困惑して首を傾げた。


 まだ記憶が戻ったわけではないようだが、なにかがきっかけになって少しずつ、戻りつつあるのかもしれなかった。


 それが、あの青年である可能性も、おそらく高い。


 とにかく一人では危険なら、オレたちも追うしかないなと、今にも飛び出しそうなアンドロイドを落ち着かせるように言い聞かせる。


「人手は多いほうがいいんだろう。応援は呼んでたみたいだけど、これから駆けつけるなら、オレたちのほうがきっと早い。リィカ、付き合ってくれるか?」

「ハイ、このソーシャルヘルパーにお任せクダサイ。セバスちゃん、メンテナンスをありがとうゴザイマシタ」

「ええ、気をつけてね。合成人間が相手なら、特殊機動部隊に通報しておくわ。EGPDだけなら手に余るでしょう」

「助かるよ、じゃあ行こう!」


 青年の姿は、もう見えなくなっていた。ドローンの影もどこにもない。


 あの見習いEGPD隊員はたった一人で、怪しい機体を市内から追い出してしまったのだろう。


 もし噂通り、エアポートを襲った過激派残党の手による挑発だとしたら、あんまりに危険すぎる。


 だから三人は、彼が示唆していた工業都市廃墟を目指して一路、駆け出した。



 □□□



 工業都市廃墟の入り口を潜ると、奥からかすかに銃撃音が響いていた。


 さらに奥を目指して三人は疾走し、炉心上部を過ぎたフロア通路の先で、ドローンと同じく漆黒にペイントされた大型迎撃機・アガートラムに向かって発砲する、金髪の後ろ姿に追いついた。


 駆動部への狙撃を繰り返し、無力化を狙った戦略的な攻撃をする冷静なその背中は、


 突然背後の物陰から身を翻した、真っ黒い合成人間に斬りかかられ、膝をつく瞬間だった。


 坊ちゃん、と悲鳴のような叫び声を上げて、アンドロイドは誰よりも早く飛び出した。

 とどめを刺そうと得物を振り上げた合成人間の前に出て青年を庇い、丸めた背中に、容赦なく凶器が振り下ろされる


 のを、大剣を抜いたアルドが、かろうじて受け止めるのが、間に合った。


 そのアルドの背中に向かって、勢いよく振りかざされたアガートラムの巨大な拳を弾き返すのは、リィカが手にしたハンマーだ。

 アルドは彼女とともに、背に庇った二人を守りながら、素早く反撃体勢に移った。


 長い旅路のなかで練り上げられた剣術は、大柄な体躯に頼っただけの大振りな斬撃の粗を容易に見破り、合成人間を壁際まで追いやるのは時間の問題だった。


 対して、リィカの打撃はアガートラムの弱点を突くことができ、青年による駆動部への攻撃も功を奏して、長い腕を無力化させるのは早かった。

 唯一の攻撃手段であるアームが動かなくなれば後は早い、速攻で頭部の破壊を済ませたリィカはアルドの横に並び、加勢シマス、とハンマーを構え直した。


 明らかな形勢の不利を察し、合成人間は煙を上げる迎撃機を見捨てて敗走を図った。

 フロア入り口へ一目散に駆けていくのを見て、待て、と鋭い声を上げたのは青年だったが、立ち上がろうとしてすぐにがくりと膝をつく。


 防弾ジャケットの背中がざっくりとえぐられ、隊服の下から血がにじんでいた。

 深くはありませんが治療が必要です、と傍らに屈んだリィカが応急処置を施したが、青年はなおも痛みに呻いた。


 深くはないが、傷口が大きい。身体を丸めて痛みに耐えようとする彼に、アンドロイドが坊ちゃん、と呼びかけて正面に身を屈め、手を伸ばそうとした。


 単純に、心配したのだろう。

 だが、青年は荒っぽく彼の手を振り払った。

 触るな偽物め、と眦を吊り上げ、威嚇するかのように肩を怒らせ、そのたびに痛みに顔をしかめる。


 それでも、彼はアンドロイドへの警戒を、決して解こうとはしなかった。


「坊ちゃん、市内までお連れします。放置していい傷ではないでしょう」

「うるさい、やめろ、アンジュの姿を模しただけの偽物が。その呼び方もやめろ、おまえの姿なんて見たくもない。もうアンジュは、いないのに、もう、やめろ、やめてくれよ」


 最初こそ、怒号のような叫び声だったが。


 しだいに勢いは削げ、最後は、かすれていた。


 何度振り払っても伸びてくるアンドロイドの手に、うなだれて首を力なく振って、青年は端正な顔立ちを歪め、泣き出す寸前のような表情を浮かべた。


「もうアンジュは、どこにも、いないんだぞ。いないのに、どうしてそんな姿で現れるんだ。その姿で、何度も。俺の前に。……もうやめろ、やめてくれ」

「坊ちゃん、泣かないで」

「約束、だったのに。カッコいい大人になるって。カッコいい大人になったところを、アンジュに見せるって。正隊員になるまで、見守ってくれるって、言ったのに……! 嘘つきだ、嘘つき……!」

「ちがう、違います坊ちゃん。アンジュさんは、約束を守るために、ぼくに自分の姿を写せって言ったんです!」


 銀色の唇はよどみなく動き、そう、はっきりと言い切った。


 息を呑んだのは青年だけではなく。

 アルドも彼らの背後で、驚愕に仰け反っていた。


 おまえ、思い出したのかと震える声で問うアルドに、アンドロイドは青年を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。


 あの真っ黒い合成人間を見て、記憶が戻ってきました。

 ぼくは、あれを知っていた。

 あれに立ち向かう坊ちゃんを、あの日も、近くで見ていたんですと続けて。


 青年はアンジュの名を聞いたときから、表情を強張らせ、力なく首を振っていた。


「な、なにを言ってるんだ、おまえは。アンジュが、姿を、写せ? お、おまえは、いったい」

「坊ちゃん、すみません、ぼくも忘れていました。だから、あなたがぼくを忘れたことを、ぼくは責められない。でも、どうか思い出してください」

「お、思い出せもなにも。俺はおまえなんか、アンジュ以外の、執事型のアンドロイドなんか一人も……!」

「いいえ、ぼくはアンドロイドじゃない。違うんです。

 ぼくは、あなたが昔、こっそりこの工業都市廃虚に忍び込んだときに見つけて、アンジュさんを困らせるために家に連れて帰った、


 ……一匹の、たぬきです」


 そう言って、アンドロイドは青年の目の前で立ち上がり、くるりと身軽に一回転をしてみせて。


 着地したときには、頭部と尾に青い炎を灯す、一匹の小柄なたぬきの姿に変化していた。


 アルドは大きく口を開けて、声も出せなかった。

 見覚えのある姿だった。

 忘れもしない、自分の時代、東国の高原で何度となく見かけた、妖魔の一種。


 だが、青年は一度だって目にしたことはなかっただろう。


 眼前で変化して見せたその動物を見つめて、彼は目を白黒させた。

 た、ぬき? とかすれた声で、繰り返して。


「覚えていないのも、無理はないと思います。そもそもぼくを拾ったあなたは、猫と間違えていたし。

 たぬきなんて身近にいなければ、毛むくじゃらの小動物を馴染みのあるものと勘違いしても、おかしくない。

 だから、ぼくを家に連れ帰ってアンジュさんに見せて、この猫を飼う、と宣言したりした」

「ね、猫を拾って帰った、記憶はある。灰色の毛がきれいな、妙に尾が大きい変な猫だった。弱っていたのか、すぐに捕まえられて、俺は有頂天で。でもその猫は、アンジュに取り上げられて、めちゃくちゃ長い説教をされて」

「お説教を聞き終わったあなたは、すぐに部屋で眠ってしまいましたからね。

 アンジュさんは、元いた場所に返してきなさいと言おうとして、危険な廃墟にあなたを再度向かわせることをためらった。

 そして、結局自分一人で、ぼくを連れて行った。でもそこで、周囲にぼくの家族や仲間がいないことに気づいたんです」

「そ、そうか。変化たぬきのブンブクは、オレの時代の東方にしかいない。きっと一匹だけ時空の穴に吸い込まれて、この時代の工業都市廃墟に流されてきたんだ!」

「そうデスネ、AD1100年の時代に、妖魔族が生存していたという記録はありマセン。生息地域も異ナル、たった一匹しかいなかったとなれば、その説が濃厚デショウ」


 二人が声を上げたのを受けて、アンドロイドは静かに頷く。


 ぼくが生まれたのは、もっと緑がいっぱいの大地の上だった。

 空に浮いた街なんて、見たことなかったんだ、と続けるのを聞いて、アルドは唇を噛む。


 彼の記憶を確認したとき、エルジオンの街のことを覚えていなかったのは当然だ。

 本当なら、ここにいるべきじゃなかったのだから。


 手を引いて走ったとき、握った掌が温かかったのも。

 とても流暢に話すのも。

 本当にアンドロイドじゃなくて、ブンブクが変身した、仮の姿だったから。


 アンジュの姿を写して、変身していたから。


「お、おまえは、あのとき、幼かった俺の両手に収まるくらい、小さかったぞ? 一匹で、あんな場所に、ずっと?」

「坊ちゃんが拾ってくれなかったら、ぼくはあのころの廃墟内で、力尽きて死んでいたでしょうね。

 小さくて、餌の取り方もよく知らなかったし、そもそもここには餌がなかった。アンジュさんもそれを気にしたんでしょう。

 周りに親も兄弟もいないのを見て、彼はひとりぼっちのぼくを憐れみました。

 今思えば、ご両親となかなか会えない孤独な坊ちゃんと、ぼくを重ねてしまったのかもしれませんね、一緒においでと言ってくれました」

「一緒に、おいで? まさか」

「そうです、それからぼくはずっと、アンジュさんと一緒に、坊ちゃんのおうちにいたんです」


 たぬきの姿から、またくるりと一回転をして、アンドロイドの姿に変化する。


 まっすぐに見つめてくる銀色の瞳から、視線を逸らさないままで、青年はぶんぶんと首を振った。


「う、うそだ、知らないぞ、おまえなんて。見たことも、アンジュがおまえを連れているところだって……!」

「アンジュさんはここに通って餌をくれているうちに、ぼくのことを調べて、変わり身の能力に気づいて、こう言いました。

 なにか、身に付けられるものに変身できるなら、一緒に坊ちゃんのお世話ができますねって」


 そう言って、もう一度、アンドロイドはくるりと一回転をして。


 着地したとき、彼の姿は、たぬきでもなく


 真っ黒い、広いつばが特徴の、大きな帽子に姿を変えていて。


 それを見て、青年は大きく口を開けて、驚愕に仰け反った。


「あ、ああ、アンジュが、いつからか被ってた、似合わないシルクハット! まさか、おまえは本当に、ずっと、俺たちの、そばに?」


 帽子がくるりと一回転をして、またアンドロイドの姿に戻る。


 青年の顔には、もう怒りはない。

 信じられないものを見るような、驚愕だけが彼の精悍な顔の中に残っていた。


 対して、アンドロイドの表情は穏やかだ。

 ずっと失っていた記憶を取り戻した彼は、自分を知らずに過ごしていた青年を前に、あまりに落ち着き払っていた。



「ぼく、二人が仲良く暮らすのを、アンジュさんの頭の上で、ずっと見てました。


 坊ちゃんはアンジュさんに甘え通しで、アンジュさんは坊ちゃんを甘やかしてばっかりで、本当の家族みたいだった。


 アンジュさんはマニュアルにはあるのに、子守り型アンドロイドの自分がずっと上手に笑えないことを、気にしていました。

 だけど自分に不具合があるとわかったら、旦那さまに坊ちゃんから引き離されると思って、誰にも言えなかったそうです。


 だから、微笑みかたはぼくが教えてあげました。

 ずっと二人で練習してて、いつか坊ちゃんに披露するんだって話してた。

 約束の日に見せようって、ぼくたちは楽しみにしてたんです。


 スクールを卒業した坊ちゃんが正式にEGPDに入隊するまで、アンジュさんが見守り続けるっていう、約束のことも知っていました。


 もう稼動年数をずっと過ぎてるアンジュさんが、坊ちゃんの側に居るために、黙ってたくさんメンテナンスを受けていることも知ってた。

 あともう少しで、二人の約束が叶うって、思ってました」


 青年は時折、記憶の中のアンジュのことを思ってか、じわりと涙ぐみながらも。

 乱暴に目尻をぬぐっては、向かい合ったアンドロイドが語るのを、静かに聞いていた。


 薄暗いフロア内に、淡々と語られる単調な声だけが、こだましていた。


「坊ちゃんが、早く正隊員になるために手柄を焦っていたのも、知ってた。

 アンジュさんはずっと心配していました。


 危険な、過激派合成人間の残党を捕まえに行くって言い出したとき、アンジュさんは坊ちゃんの後をこっそりついていったんです。

 だからあの日、彼は坊ちゃんを守れた。


 守って、合成人間たちが出てこれないようにここの入り口を塞いで、坊ちゃんに応援を呼んでくるように言って、遠くに逃がしたんです。

 留めきれないって、わかっていたから。


 危険だから、一人で足止めするしかないって、判断したんです」


「そ、そんな……、そんな、あ、あのときのアンジュは、俺を、一人で、逃がすために?」


「入り口を破壊して出てきた、真っ黒い合成人間を相手に、少しでも時間を稼ぐために、アンジュさんは一人で立ち向かったけど、敵うわけ、なくて」


「ああ、ああそうだ、そうだよ、応援を呼びに走った俺は、間に合わなくて、アンジュは、一人で」


 廃道で、俺は動かないアンジュを見つけたんだと涙声で呟いて、青年はうつむく。


 見間違いでなければ、アンドロイドの目尻にも、うっすらと涙が浮かんでいた。


「ぼくはずっと、危険だから帽子のままでいろって言われてた。


 でも、合成人間にぼろぼろにされて、力なく倒れた彼と、もうこれでお別れなんだってわかったら、黙っていられなくて。

 アンジュさんを壊すのに飽きた真っ黒い背中が帰っていくのを確認してから、変化を解いて、あなたを街まで運べる大きな乗り物に変身しますって、泣きながら言いました。


 もう、だれにぼくの正体が知られたって構わない、アンジュさんが助かるなら、ぼくなんてどうなってもいいと思った。


 でも、ぼろぼろの彼が、

 もう破壊されたパーツの換えはないから、

 自分はもう、直らないって、言うから。


 涙の止まらないぼくに、優しい声で、

 その代わりに、自分の姿に変身して


 この身体は、

 そこの端から

 地上に向かって捨ててくれって、言ったんです」


 青年が、うなだれていた顔を上げた。息を止め、目を見開いて。


 捨ててくれ? と、かすれた声で繰り返しながら。


「な……、なん、で」

「ぼくに、自分の代わりに、坊ちゃんとの約束を果たしてほしいからって」


 その場にいた、全員が絶句して、誰もなにも言えなかった。


「シリアルナンバーが重複した機体が存在すれば事件になるし、最悪、所有者の坊ちゃんが怪しまれてしまう。


 変身したら、混乱を避けるためにも、片方は跡形もなく処分するしかない。

 わかってくれ、どうか言う通りにしてくれって、アンジュさんは、とても穏やかに言いました。


 いつもはもっと、厳しくて、凛々しい声で、坊ちゃんを叱っていたのに。

 その声も、どんどん途切れ途切れになっていって、もう彼に時間がないのはわかりました。


 ぼくはやるしかなかった。


 急いでアンジュさんの姿に変身して、動けない彼の視覚センサーに映るように身を屈めました。

 ぼくを見て、アンジュさんは笑ったみたいに目を細めた、嬉しそうに。


 あんなにたくさん練習していた、坊ちゃんに見せるための、微笑を、浮かべて


 ──ああ上手にできたね、って


 それが、彼の、最期の言葉です」



 アンドロイドの静かな声に、青年は力なく首を振りながら、うつむいて嗚咽を上げていた。


 アルドもリィカも、黙って二人を見守っていた。かける言葉なんてなかった。


 大切な人を、まったく同じタイミングで失った、二人のこどもには。


「まもなく雨が、降り出して。

 道路の端から、雨水が流れていくのを、見ていました。


 ぼくは悲しくて。

 それきり動かなくなったアンジュさんのそばで、彼の姿を写したまま、悲しくて悲しくて、横たわる身体にすがって泣きました。


 捨てるなんて、できるはずなかった。

 できるわけない、ずっと一緒にいたんです。

 ずっと二人で坊ちゃんを見守ってた、ぼくは坊ちゃんを大切に思うアンジュさんが、大好きだった。


 その彼と、こんな形でお別れしなきゃいけない、悲しくて、動けなかった。


 そうしたら、そこに、応援を呼んで駆けつけた、坊ちゃんが」


「あ、ああ、おまえだったのか、あの時、アンジュの近くにいた影は。アンジュの身体を利用しようとした、合成人間なんかじゃなくて。アンジュの身体に触るなと、俺が威嚇射撃で追い払った、あの影は」


「ぼくは、悲しくて。

 戻ってきた坊ちゃんに、アンジュさんに大切にされていた、他でもないあなたに撃たれたのが怖くて。


 悲しくて、脇目も振らずに走って逃げました。


 どこをどう走ったかなんて覚えていない、でも必死でした。

 誰にも見つからないように、奥の暗いところに隠れて、うずくまって。


 怖くて、辛くて、悲しくて、


 でもアンジュさんの代わりに、二人の約束を果たさなきゃいけないのにって、

 早く戻らなきゃと逸るのに、怖くて戻りたくなくて、

 もうアンジュさんに会えないのが悲しくて、悲しくて


 そうして、心がばらばらになって


 ぼくは、ぜんぶ忘れてしまったんです」


 泣き出しそうな顔を上げた青年を見つめて、アンドロイドは辛そうに顔を歪めた。

 あなたには、もっと早くお伝えするべきでしたと、苦しそうに重ねながら。


 青年は静かに首を振る。

 おまえが悪いんじゃない、おまえは悪くないと、絞り出す声は真摯だった。


 アンドロイドと同じように深い悲しみに飲まれていただけで、本来は、素直で誠実な性根なのかもしれない。


 背中の傷に、リィカが無言でさらに手厚い処置を施す。

 こちらへの不信感が消え去り、抵抗がなくなったせいで、できることが増えたのだろう。

 防弾ジャケットを脱いだ身体に手馴れた様子で包帯を巻き、完了しました、と彼女が告げるのを待って、深く息を吐いた青年がジャケットに袖を通した。


 アルドもまた大きく息を吐き、両腕を組んで唸った。


「……まさか、800年も前の東方に生きる変化たぬきのブンブクが、この大陸のこの時代にいるなんて、思わないよな。あんたが混乱したのも、わかるよ。大切な人を失ったばかりなら、尚更だ」

「データ上であれば、東方ガルレア大陸にかつて生息した妖魔族の記録も残ってイマス。データ上のみの存在が、800年前と変わらぬ姿で発見されレバ、世間は大騒ぎ必至。悪意ある人間に知られたナラ、危険な実験に利用される可能性もゼロではナイ。アンジュさんは、たぬきさんを匿うしか、なかったのですネ」

「でも、そのアンジュも破壊されて、二人はすれ違ったんだ。代わりに約束を、果たすはずだったのに」


 悲しい、とても大きな悲しみの感情しか覚えていないと辛そうにしていたアンドロイドの様子を、アルドは覚えていた。


 悲しみと、託された約束と追われる恐怖に、記憶を失うほどに追い詰められて、暗い場所で隠れるようにうずくまっていたと聞いたときから、

 まるで泣いている子どものようだと、ずっと感じていた。


 なんとか力になりたいと、思うのも道理だったろう。


 本当の姿は、成体ですらない一匹のたぬきだったなんて。


 抱えきれない痛みにうずくまり、泣き疲れて長く眠りについていた彼は、だけど時間がないからと、焦りに急かされて目を覚まし、今回の騒動に発展した。


「そうか……、だから時間がないって、焦ってたのか。正式入隊を見届けるのが、アンジュとの約束だった。自分の知らないところで正隊員になっていたら、約束は果たせないんだ」


 はっとして手を叩くアルドの声に、全員が振り返った。


 中でも青年は両目を見開き、慌てて立ち上がろうとして、傷の痛みに呻きながら体勢を崩し再度膝をつく。


 肩を支えようとアンドロイドが気遣ってくるのに、小さく頷いて応えながら、青年はアイツを追わないと、と低い声でこぼした。


「そうだ、いまは時間がない。逃げたアイツを追わないと。正隊員になるために、ここまで追ってきたんだ。増援を呼んだとはいえ、俺が、決着をつけないと」

「坊ちゃん、でも傷が」

「傷なんか、なんだ。アイツは、アンジュの仇なんだ。俺がこの手で捕らえる、絶対に。アイツにばらばらにされたアンジュを、両手で抱えて運んだんだ。エルジオン中を回って、直してくれる工場を探したときの、あの重さを忘れない。あんなに、軽かったなんて。俺はもうとっくに、アンジュを抱きかかえられるくらい、大人になってたんだ」


 床についた両手を握り締める腕は、鍛え上げられてたくましい。


 大型迎撃機の駆動部を狙う射撃も、素人目から見ても正確無比だった。

 市民を守るEGPD隊員を目指して、多くの鍛錬を積んだことが、彼自身からありありと伺えた。


 執念に燃える眦を吊り上げ、フロアの入り口を睨みつける形相に、アルドは止めても無駄だと察した。

 率先して青年の肩を支えて立ち上がらせ、行こうと促す。


 心配そうに見つめるアンドロイドの視線を、力強く見つめ返して。

 見せてやるよと、青年が絞り出す。


「ああ、見せてやるよ、おまえに。アンジュとの、約束だからな。アイツを捕まえて、俺は、一人前になってやる!」

「無線通信を傍受、EGPDと特殊機動部隊の援軍、ルート99の中腹で対象と交戦中デス」

「よし、急ごう。リィカ、先行を頼む」



 □□□



 リィカに先導されて廃墟群を駆け抜けると、赤いラインが勇ましい黒メット姿の特殊機動隊員たちが、廃道上で件の真っ黒い合成人間と対峙していた。


 普段、EGPD隊員が使用するものよりさらに重厚そうな銃器を構えて一列に並び、間断なく銃撃を浴びせている。


 合成人間は単身でエルジオンへの侵攻を目論んでいるのか、銃撃を受けながらも怯まず得物を振り回し、市内に繋がる入り口で防衛陣形を組むEGPD隊員たちを威嚇していた。


 そこを退け、いまに仲間を呼ぶ、一人たりとも逃がさんぞと空気を振動させて咆哮するのを聞き、

 アルドに支えられていた青年が、ハッタリだ、と声の限りに叫んだ。


「仲間なんてもういない、ドローンの市内への侵入は、新規に兵士を集めて体勢を整えるまでの牽制で、単なる時間稼ぎだ。エアポート襲撃犯残党のアジトも突き止めてある、もうソイツと、俺たちが廃墟内で倒したアガートラムで最後だった!」


 青年の言葉に、機動部隊員たちがおおと沸き立ち、銃撃の攻勢を強めた。

 仲間の増援がないのを確信し、ここで仕留めることを決断したのだろう。


 防衛陣形の先頭にいたEGPD隊員が、斥候任務よくやった、と声を張る。

 聞き間違いでなければ、ここでアンドロイドを追い回していた年配隊員のものだろう。


 それまで威勢良く吠えていた合成人間も、旗色が悪いと理解したのか。

 悔しそうに唸ったかと思うと素早く方向転回を行い、一転敗走に舵を切った。

 前方に迎撃の陣を張っていた機動部隊も、大きな背中に銃撃を浴びせながら即座に追撃陣形を展開したが、


 包囲網が完成するより、合成人間の足が、アルドたちに到達するほうが速かった。


 素早く大剣を抜いたアルドと同時に、逃がさんと青年は銃を構えたが

 突進してくる合成人間の逃走進路上にアンドロイドが立っていることに気づいたのは、彼が、一番早かった。


 手にしていた武器も放り出して、迫り来る轟音から身を庇おうと背を丸めたアンドロイドに飛びかかり、抱きかかえるようにして進路上から退かせる。


 青年が受身も取れない乱暴なタックルでアンドロイドを守ったのを確認してから、アルドは背後のリィカに合図をして、向かってくる合成人間を迎撃した。

 巨体による突進の勢いを削ぐため、リィカが魔法攻撃で中距離から足止めを行い、体勢を崩すのを見計らってアルドが正面から大きく斬り込む。


 決定打を与えられなくとも、足止めさえ叶えば、後方から機動部隊の包囲網が到着するのは時間の問題だった。

 重い銃撃を背後から受け、二人の迎撃もあってか、合成人間はすぐに膝をついた。

 これ以上足掻いても、逃げられないと観念したのかもしれない。

 抵抗のなくなった合成人間を前に、機動部隊員たちは捕獲作業に移行していく。


 EGPD隊員たちが、歓声を上げて青年へと駆け寄ってきた。

 アルドとリィカも頷き合い、武器を収めてアンドロイドたちの元へ向かう。


 背中の傷が開いたのか、青年は身を屈めて険しい顔をしていたが。

 自分を気遣って心配そうに呼びかけてくるアンドロイドに、彼は大丈夫だと応えた。


「坊ちゃん、武器を放り出してまで、ぼくを。あの合成人間は、アンジュさんの仇だったのに。ご自分の手で、決着をつけたかったんじゃ」

「いいんだ、EGPDは、市民の安全を守るのが役目。合成人間の対応は、機動部隊の仕事だろ」


 アンドロイドの言葉に首を振る青年の顔は、痛みに歪んではいながらも、どこか晴れやかだった。


「自分の役目より、個人的な仇討ちを優先するのは、一人前の大人じゃない。そんなことは、アンジュも望んでない。そうだよな。どうだ、俺は、カッコよかったか……?」


 伸ばされたアンドロイドの手を取り、立ち上がった青年は、ぎこちなくだが相手に向かって、微笑んでいた。


 それを見て、アンドロイドは驚いたように瞠目してから、嬉しそうに微笑んで返して。

 ええ、はい、とても、と言いながら、目尻を指先でぬぐった。


 EGPD隊員たちが合流し、数人が機動部隊を手伝う。駆け寄ってきた年配隊員は、お手柄だったな、と青年の肩を叩いた。


「例のアンドロイドが、斥候の役に立っていたとはな。独断で動いたのは褒められたことではないが、今回はお手柄だった。敵の規模を看破し、市内への侵攻を阻めたのは大きい。機動部隊も、おまえの働きに助けられた。このことは、上部にも報告をしておくぞ」


 協力者たちを無事に送り届けたら本部まで戻れよと重ねて、青年が元気よく応えるのに頷いてから、彼は隊員たちの元へ駆けていった。


 やりましたね坊ちゃんと、アンドロイドが嬉しそうに声を弾ませるのを、聞きながら。


 青年はしばらく、捕縛された合成人間の回収作業を見つめていた。


 真っ黒い巨体が、機動部隊の手によって運ばれていく。

 重く垂れ込む鈍色の雲の下で、ぎいぎいと揺れる黒い頭が小さくなっていくのを、いつまでも、見送って


「……よかったな。すごく褒められてたし、これで本当に、正式入隊できるかもな」

「お祝いも素敵デスガ、まずは傷の治療が先決デスネ」


 青年の、どこか影の残る背中に、アルドとリィカが気を遣って声をかけたが。

 アンドロイドが呼びかけるまで、彼は振り返ることはなかった。


 年配隊員の言葉に喜色を浮かべていたはずの、その顔はまた、沈痛に歪んでいて。


 泣き出しそうな、こどものそれだった。


「……本当はこんな案件、半人前の自分の手には余るって、自覚はあった。だけど、早く一人前になりたくて、焦ってた。アンジュには時間がないってわかってたから」


 アンドロイドが、坊ちゃんと呼びかける。

 手を伸ばして支えようとする彼の腕に肩を預ける青年は、もう手荒く振り払うようなことはなかった。


 二人の間にあった誤解は晴れても、まだ、深い悲しみだけが癒えていない。


「もう、いつ動かなくなってもおかしくないって、予感はあった。

 ずっとそばにいたんだ、少しずつ不調が増えていくのも、わかってたよ。

 黙ってメンテナンスを受けてるのだって、気づいてた。


 だから元気なうちに、正式入隊しないとって焦った。

 お、おかしいよな、自覚はあったよ。


 正隊員になるところをアンジュに見せたいのか、

 アンジュを安心させるために正隊員になるのか。

 目的と結果があべこべになって、自分でも、よくわからなくなってた。それくらい、焦ってたんだ」

「坊ちゃん、泣かないで」

「でも俺の焦りが、家で緩やかに終わりを迎えるはずだったアンジュの時を、勝手に早めて止める結果になったんじゃないかって、ずっと、後悔してた。

 俺が功を焦って暴走しなければ、少なくともアンジュは一人でこんな、淋しいところで終わらなくて済んだんじゃないのかって。

 なんてことをしたんだって、情けなくて泣きたくて、

 俺が悪いんだって泣けなくて、ずっと、ずっと俺、おれ」

「違う、それは違いますよ、坊ちゃん」


 今度は、アンドロイドが首を振る番だった。


 顔を上げた青年は、見ていた。

 相手が、穏やかに微笑むのを。


「アンジュさんは、自分の終わりの時を、自分で選んだんです。そうじゃなきゃ、あんなに穏やかに微笑まない。坊ちゃんを守って終わること、彼は誇らしかったと思います」

「……気休めはよせ。俺は最後まで、アイツを困らせて追い詰めた、手の掛かる、最悪な主人だったんだ。恨まれてるよ、絶対に」

「そんなはずないです。だって、アンジュさんがぼくを助けてくれたのは、ひとりぼっちのぼくを、大事な坊ちゃんに重ねたからなんです。そうじゃないと、子守り型アンドロイドである彼が、面識のなかったぼくを育ててくれた理由がありませんから。……ねえ、坊ちゃん、彼はぼくをあなたから隠していたから、ぼくがなんて呼ばれていたか、知らないでしょう?」


 そう言って、アンドロイドは嬉しそうに笑った。


 なまえ? と問い返して、青年は目を瞬かせる。

 まるで宝物を見てくれと言い出しそうな、弾んだ声で笑う相手を。


 その、たからものは


「ええ、ええ。聞いてください、坊ちゃん。

 アンジュさんがぼくを、そしてぼくを重ねていたあなたを


 本当は、なんて呼びたかったのか」





 いまにも雨が降り出しそうな 重暗い雲の立ち込める 廃道ルート99。


 その道路上に横たわるぼろぼろのアンドロイドが 自分を見下ろす同じ姿をした相手を見上げて


 嬉しそうに目を細めて

 穏やかに 微笑んで



 ──ああ上手にできたね マイボーイ








 泣きたくて、泣けなかったと言った。


 自分が悪いから、アンジュを思って泣いたりできないと。

 あんなに、ずっと、泣きそうな顔をしていたこどもは


 大切な人の姿をした、自分と同じこどもの胸にすがって、声を上げてわあわあと泣いた。


 もう一人のこどもも、泣いていた。

 胸の中の子どもを抱きしめて、その後頭部をなでながら、

 ずっと堪えていた涙をぽろぽろとこぼして。



 天井のない空に、大切な家族を呼ぶ泣き声が、いつまでも響いていた。




 


 

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