準備は出来た

 * * *



「嘘でしょ……」


 そこは、見覚えのある、大きなお屋敷だった。

 だけど、人の気配なんてちっともない。

 門は中途半端に開いていて、ご自由にどうぞ、と言いたげだ。


 わたしは駆け足で、その中へと入る。

「薫……! 薫ー!!」

 名前を呼びながら、部屋という部屋のドアを開けて隅から隅まで調べる。

 調べながらも、ここにはいないという予感が、ずっとわたしの中にはあった。

 それが確信になったのは、陽が傾き始めた頃。

 すべての部屋を調べ尽したときだった。


「ここにいらっしゃるはずがないでしょう」

「……」

 当然だと言いたげな、冷たい声。

 でも、ここしか思い当たらなかったのだ。

 仕事でここを離れるというのが嘘なら、必然的に家にいるはずだ、と。

「だいたい、どうして今更杜矢のお嬢さんを探そうと思ったのですか」

「薫が、必要なんです」

「そんなの、最初からそうでしょう」

 吸血鬼は、狩人の血のおかげで理性を保てているのだから、と淡々と続けられて、わたしはうつむいてしまう。

「……狩人の家には、一人で近づかないように言われていたんです。だから近づかなかった。でも、もしも誰かがクロくんに言われて見張っているのなら、一人ではないと思ったから」

「吸血鬼の彼を連れてこようとは思わなかったんですか」

「それをしたら、クロくんもあなたも、彼を殺したでしょう? 狩人の家に近づいた危険な吸血鬼として」

 クロくんはその気になれば、いくらでも理由を作って茜を灰にするだろう。

 それがわかっていたから、連れてこようとは思わなかった。

「あなたは恐らく、わたしが軽々しくクロくんのことを話さないか、調べようとしましたよね」

 だから、クロくんに会いたいと言ったのだ。

「少し違いますね。狗狼さんに連絡がつくか否かを訊ねたのは、あなたが今の狗狼さんの居在地をどの程度把握しているのかを知りたかったのです」

「なぜ……」

「このように、杜矢のお嬢さんの血を求められることは、予想できましたので。それを阻止するため、ですね」

 まあ、そんな必要もなかったようですが、と感情のない声が言う。

「ここは彼が昔生活されていた場所です。今は、もう別のところへ移られていますが」

「でも」

「彼は、ここを家だと、あなたに教えていたのでしょうね。最初から、狗狼さんはあなたを信用していなかったのでしょう。吸血鬼側につくであろう、あなたのことを」

 わたしはギュッとこぶしを握る。

「このままおとなしく、彼にご自身の血を与えるか、彼を見殺しにしてしまいなさい。彼を化物にするか、美しい魔物として生を終えさせてやるかは、人間であるあなた次第なのですから」

「……ダメです。茜は、薫のものなんです。薫が、茜に名前を与えたんです。狩人であるあなたには、その意味がわかるでしょう?」

「だとしても、一度でも手放してしまったのなら、それはもう、その人のものとは言えないのでは?」

「……手放す?」

 思わず顔を上げれば、狩人は首を傾げていた。

「ご存知ないのですか?」

「なにを……?」

「杜矢のお嬢さんは、もう自分はあの吸血鬼にふさわしくない、と手を放してしまったのですよ」

 薫が、茜を、手放した?

「狗狼さんがどのようにあなたにお伝えになられているのかは存じ上げませんが」

「……薫は、脅されているのだと思って……」

 そうですか、と狩人は言う。

「少なくとも、狗狼さんも杜矢のお嬢さんも、お互い同意の上で一緒にいるようですよ」

「でも、わたし、言うことを聞かないと薫を殺すって……!」

 すうっと狩人が目を細めた。

「それは……お可哀想に。おそらく、吸血鬼にあなたの血を吸わせて、あなたごと始末してしまうおつもりだったのでしょう」

「……つまり、薫は戻ってこないの?」

「でしょうな」

 足から力が抜ける。

 思わずその場にへたりこんでしまっても、誰もわたしに手を差し伸べてはくれない。

 薫は、助けてくれない。

 わたしのことはもちろん、あんなに大切にしていた茜のことだって。

 茜を守れるのは、わたしだけ。

 でも、わたしは、このまま見殺しにするか、彼を化物にするかしかできない。

 わたしは。

「おやおや」

 その場で姿勢を正し、額と手を、ほこりの積もった床にピタリと付ける。

「わたしの命がどこまで価値のあるものかは、わかりません。でも」

 どうか。

「なんでもします、だからどうか、茜の命を助けてください……!」

「顔を、上げてください」

 言われた通りに顔を上げれば、狩人がゆっくりと膝を折り、その場にしゃがんで視線を近づけてくれた。

「これを」

 狩人がそっとカバンから取り出したのは、一本のナイフだった。

 革で出来た入れ物に入った、とてもシンプルなもの。

 手に取ってみると、握りやすい太さで、重さもちょうどいい。

「これは……?」

「狗狼のお嬢さんは、三種族の中で唯一吸血鬼のみ、作ることが可能なのはご存知でしょうか」

 三種族というのは、人の形をした三つの種族である、人間、狩人、そして吸血鬼のことだと、クロくんに教えてもらった。

 でも、そのときの記憶を思い出してみたけれど、そんな話を聞いたことは無い。

「あの、すみません、存じ上げません……」

「基本的には、一部の吸血鬼と、さらにそれよりも少ない狩人しか、知りませんから、無理もないです」

「あなたはご存知なんですか?」

「もちろん。狗狼さんの資料に書いてありましたから。まあ、この資料は本当に限られた人しか閲覧が許されていないものですが」

「……つまりわたしがその方法で吸血鬼になれれば、茜に血を与えることが出来る、ということですか?」

 そうです、と狩人がうなずく。

 ついっと、狩人の視線がナイフからわたしへと向く。

「必要なのは、吸血鬼の血です。それなりの量が必要になります。吸血鬼は狩人ほどではないにせよ、人間よりも早い速度で回復する。このナイフは、治癒速度を少しの間遅くすることが出来るものです。狩人用のものですから、吸血鬼にはそれなりに効きますので、傷口の大きさにはご注意を」

 それと、と狩人はもう一度ナイフのほうへと視線を向ける。

「間違っても、人間には刺さないでくださいね。深さにもよりますが、まず、回復する前に失血死する可能性が高いですから」

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