秋霖降り遺る

 玄関の戸が乱暴に叩き開けられる音がしたかと思うと勢いそのままの足音が少しの躊躇もなく框を越え廊下へと上がり込んできたので、とうとう俺は殴られるか殺されるかとにかくひどい目に遭うんだろうなと覚悟を決めて、手元の食べかけの梨に刺していたフォークを握り直した。


「誰か来たね」


 新聞のクロスワードパズルを解く手を止めて、叔父が呟いた。うんざりしたような顔をしているのは侵入者に対して怯えているというよりただただ手間を後悔しているようにしか見えず、相変わらず危機管理の概念や警戒心というものが欠落しているのが分かる。少なくとも在宅中の家に侵入者が発生したときの住人の反応ではない。どうしてこの人これまで生きてこれたんだろうと、初めてこの家に来たときから抱いている疑問をまたしても俺は再確認した。


 九月も半ばを過ぎた土曜の午後。来客の予定はないはずだ。朝刊が届くには遅すぎるし、夕刊が届くには早すぎる。


 どう切り出すべきかを迷って、俺は口も開けずに黙り込んだ。窓を濯ぐような雨音が沈黙に滲む。朝から降り続く雨は、勢いを増すようなこともなくかといって上がる気配もなく、ささやかに窓を叩くばかりだ。

 雨粒の跳ねる音を聞きながら、ようやく俺は平凡な一言を吐く覚悟を決めた。


「どうしますか。警察呼びますか」

「ん……まあね、知らない相手だったら呼ばなきゃ駄目だろうけども」


 玄関から入ってきたからなあと呑気なことを言って、叔父は指先で鉛筆をくるくると回した。

 ──玄関から入ってきたから何だというんだ。

 確かにこの家の防犯意識というのが雑なのは夏のときに散々思い知らされた。朝夕に雨戸を開け閉めする以外の窓は基本的に網戸だし、雪国特有の二重玄関も同様だ。朝に新聞を取ってから日が沈むまで開けっ放しになっている。

 そもそも日中は玄関に鍵をかけないのが常だというのが未だに俺には理解できていない。確かに郵便屋もクリーニング屋も呼び鈴すら押さずに玄関先まで上がり込んでは大声で家人を呼ばわる有様なので、この辺りでは無施錠であるということが当たり前に受け入れられているというのは分かってはいるのだが、どうしても納得しきれずにいる。

『これまで大丈夫だったから』『やる気のやつは鍵ぐらいじゃどうにもならないから』というのが叔父の言い分だったが、その詭弁の結果として今日この状況があるのだと思うと無性に腹が立った。


「あいさつもせずに玄関から来るやつは知り合いでも駄目でしょうよ」


 怒鳴ってやりたいところだったが、それより声を上げて侵入者に気付かれる方が危険だと気づいてどうにか跳ね上がりそうな声を抑える。叔父は少しだけ眉を寄せて、玄関の方を眺めている。一応は気にしているらしいその仕草に一瞬安堵してから、随分と期待の閾値が低くなっている自分に気付いた。反応があるだけマシ、という理解になり始めている。


 幾つかの扉が開いたらしい物音と、続いてがらがらと風呂場の引き戸を開けたらしい音。

 そうして少しだけ間を置いてから、水音が聞こえ始めた。


「叔父さん、」

「風呂だね」


 呆然としながら反射的に零した呟きに、叔父が頷いた。

 こういうときに確認が取れることの利点は、少なくとも自分の認知がおかしくなっているというわけではないというのが分かることだろう。欠点としては起きている事象が勘違いとして誤魔化すことができなくなることだ。

 どうやら侵入者は家探しをするでもなく風呂に入っているようだった。浴槽の水は抜いてあるので、恐らくはシャワーを使っているのだろう。

 何で?


「運転入れてないから、水しか出ないんだけどね」


 長い息を吐いて、叔父がのそりと立ち上がった。そのまま風呂場へと向かおうとしたので慌てて俺も立ち上がる。途端に椅子が床を擦って悲鳴じみた音がした。


「え、叔父さん、その──大丈夫なんですか」

「さあ」

「さあじゃないですよ。危ないでしょう、多分」

「でも風呂入ってるからなあ。いきなりこっちに来なかったから、じゃあセーフだろ」


 風呂に入っているから何だというんだ。何がセーフだというんだ。基準はどこにあるんだ。

 接続詞が全く役割を果たしていない物言いに呆然としている俺を置いて、叔父はさっさと居間を抜けて脱衣所へと向かってしまった。

 一応、それなりに、恐らく──危ないのではないだろうか。

 分からない。正常な判断をするための材料というものがどれなのかすら見当がつかない。しいていうなら風呂に入る必要性を考えるなら、俺が侵入者の立場なら汚れ仕事を済ませて住人を皆殺しにしてから風呂に入りたいとは思う。そうだとしても住人が健在の状況で堂々と風呂に入るのも意味がどうやっても分からない。つまり何もかもが理解できない。理屈を組み立てるための前提が何一つ立てられない。

 ともかく叔父を一人で向かわせるわけにはいかないだろうということだけは理解して、慌ててその背中を追う。

 握っていたフォークを持っていこうか迷って、こんな華奢なデザートフォークで何ができるのかと正気に返り、机の上へと放り投げた。


***


 風呂場の戸は盛大に開け放されている。


 絶え間ない水音。タイルの床を水が這って排水口へと流れている。

 男はシャワーの前に黙って立ち、勢いよく噴き出す水を浴びている。

 軽薄な茶髪と胡乱な柄──黒地に何やら浮世絵じみたタッチの彼岸花や蝶が描かれている──のシャツが貼り付く痩せた背中に、俺も叔父も覚えがあった。


「何やってんだ厚宮」


 叔父の問いかけに、侵入者──厚宮さんは振り返る。水の伝うびたびたの顔のまま俺を見て、ひどく気まずそうな表情を浮かべてから、


「あー……触られたから、借りてる」

「何に」

「これ」


 叔父の問いに答えるように、貼り付いたシャツを剥がして腹を見せる。

 生白い肌の上に、綱でも巻かれたような赤い痕があった。


 叔父はしばらくその腹の模様を眺めてから、水を滴らせながらこちらを見る厚宮さんに向かって頷いた。


「分かった。戻るよ」


 どうしてですかと聞きたかったが、止めた。

 叔父の口ぶりが有無を言わせない調子だったのと、厚宮さんの様子に衝撃を受けていたせいもある。厚宮さんは格好が与太ついて田舎のヤンキーはいるものの、基本的には常識に則って生きている人間で、しかも俺より年上だ。毎度顔を見せるときには手土産を持ってくるし、友人のよしみではあるだろうが雑な叔父の要求にもできる範囲で応えてくれるし、俺がこの家に転がり込む前は叔父の生存確認にも来てくれていたような人だ。人の家に挨拶もなく上がり込んでからシャワーを使う──しかもいつものふざけた柄シャツを着たままだ──ような奇行に走る人ではない。


 最初からおかしい人間ならともかく、まともに見えていた相手が突然に予想外のことを始めるとどうしようもなく不安になるのだということを俺は初めて知った。


 背後から聞こえるシャワーの音に背を撃たれているような気分になりながら、俺は居間へと戻る。

 急かすように俺の背を押す叔父の手がやけに冷たい気がしたのは、ただの錯覚だと思うことにした。


***


 柄の一つもない、面白みのない白黒のボーダーシャツを着ている厚宮さんが黙って椅子に座っている──そんな絵面が騙し絵のようにしか見えず、俺は困惑していた。


 脱衣所から出てきた厚宮さんはひどくくたびれているように見えたが、それでもこちらを見るなりひらひらと手を振ってみせた。


 服を着たままシャワーを浴びていたので、風呂場から出ても着るものがないというのは少し考えれば分かることだった。珍しく気が回ったらしい叔父がバスタオルと着替えを用意していたようで、当たり前ながらこの家に今ある衣服といったら俺か叔父の物しかない。


 結果として叔父の服を着る厚宮さん柄シャツ人間という状況になってしまったのは、仕方がないことだろう。


 ここまで普通の格好をした厚宮さんを俺は初めて見た。

 いつも着ている温暖な地域でのびのび育った蛾のような派手な柄のシャツが似合っているかどうかはともかく、見慣れてしまったものが急に取り替えられると落ち着かない。雑に染めた茶髪も濡れたせいか普段とは違う髪型になっているせいだろう、基本的な構成要素は変わっていないはずなのにどうにも認識がうまくいかない。服については似合わないというより、サイズが合っていないのもある。袖の長さが明らかに足りていない。普通の長袖のはずが、五分袖と七分袖の中間とでもいうべき中途半端なことになっている。意外と背丈があるのかとどうでもいいことに驚きながら、無難なはずの縞柄ボーダーがここまでしっくりこないのも珍しいなとどうでもいいことを思った。


 厚宮さんの手元には皿が出されており、塩おにぎりが三つ置かれている。

 作ったのも用意したのも俺ではない。叔父が冷凍保存されていた米をレンジでひたすらに加熱してから塩を振って出したという代物だ。


 相当な熱気が立ち上っているらしく、齧るどころか暖でも取るように手をかざしている。熱いのだろう。ラップ越しとはいえ平然と握っていた叔父がおかしい。


 どうして厚宮さんに塩おにぎりを食べさせようとしているのかは全く分からなかったが、叔父が当然のように一連の動作を行っていたので口を挟むのが躊躇われたのだ。客に対しての茶菓子のつもりだとしたら中々に信じがたい選択ではあるが、何らかの意味があるのかもしれないと思ってしまった──もしかしたら本当に思い付きなのかもしれないが、そうだとしたら聞くだけ無駄だ。

 しばらくは手を出せないと観念したのだろう。厚宮さんは目元に纏わりつく前髪を鬱陶しそうに払ってから、口を開いた。


「農協に野菜買いに来てたんだよ。にんにく切らしたから、あと唐辛子」


 病院近くの十字路、そこをしばらく行った道沿いにある店舗があるのは知っている。農作物の地産地消と地域振興のあたりを理念として、米や果物だのを農家から直売しているというのが売りだ。地元のスーパーイトナガの近くではあるが、扱っている品が違うので競合もしないのだろう。夏の頃に散歩がてら立ち寄ったことがある。生産者の顔や名前が堂々と貼られた野菜の群れと、総菜コーナーで売られていた稲荷寿司が異様に赤かったことを覚えている。


「あそこの店は曰くとか何もないだろう。少なくとも私は覚えがないけど」

何もいや店んせいでない店のせいじゃない……買物は普通に終わったんだよ。助手席に荷物積んで、よし帰るかって道路に出たんだよ」


 交差点だよと厚宮さんが吐き捨てるように言えば、叔父が頷いた。


「信号待ちしてて、そいつが来て、覗かれた。腹やられたって分かったから、近場で風呂借りれそうなとこ考えて、浮かんだのが高槻んとこだった」


 驚かせて悪かったと頭を下げられるが、俺はどうにも戸惑ってしまった。

 謝罪はともかく、というか他人の家に押し入って風呂を使うという状況が異様過ぎて俺にはまだ飲み込めていない。おまけにどういう目に遭ったかの説明も端的が過ぎて何も分からない。腹をやられたのは先程見たアザだとしても、何が覗いたのかもどうして風呂を借りる必要があったのかも、皆目見当がつかない。

 家主の叔父の方を見る。

 さすがに俺の意図を察したのだろう。部屋の照明も飲むような黒い目がじっと俺を見てから、


「会うとよくないものがいて、見たり触ったりよくないことをする。そうすると痕が残って、色々と難儀をする。そんだけだよ」


 今日は雨だからね、と淡々とした口調で添えて、叔父は二度ゆっくりと瞬きをした。


「急いでた理由は分かった。対処が早ければ早い程、痕の治りも良くなるから……運が良かったな、厚宮。かかると手間も銭も余計にいるから面倒だしな」


 火傷と同じようなもんだからなと呟く叔父を見ながら、俺はようやく口を開く。


「聞きたいんですけど、よくないものっていうのは、その」

「できれば聞かない方がいいよ、甥っ子くん」


 厚宮さんの言葉に叔父が頷いた。


「聞くと気にするだろ、君怖がりだから……遭ったってすることは決まってるんだよ。水で濯いで酒と塩を取ればいい」

「濯いで」

「風呂でいい。ついでに米もあれば尚更だ。


 いつかと同じようなことを言って、叔父の口元が少し緩んだ。

 してくることとすべきことが分かれば怖くない──叔父からことあるごとに言われ続けているが、未だに飲み込み切れないことはいくらでもある。

 先程叔父が火傷といったが、火傷も似たようなものだろう。どういうもの疾患かは分かっているし治療法は確立している。現代医療の下であれば、余程の手遅れでもない限りはどうとでもなる。

 。俺にとっての恐怖というのはそういうことだ。

 対処できようが何だろうが、怖いものは怖い。だから俺はこうして妙なことが起きるたびに痛がる怖がるさまを叔父に揶揄われるのだ。

 叔父は俺を見る目を少しだけ細めてから、すぐにいつもの茫洋とした顔に戻り、厚宮さんの方へと向き直った。


「ただお前、車で来ただろう。さすがに卵酒でも出せないぞ」

「だろうね。法に触れるし」


 何より親父に殺されるだろうなと厚宮が笑う。叔父は皿の上で湯気を立てている握り飯に視線を向けてから、


「酒は家に帰ってからにしろ。塩と米だけ食べていけ」

「だな。早めに帰った方が良さそうだ。お前はともかく甥っ子くんにサワったら悪いし」


 確認するように視線を向けられて、俺はとりあえず頷く。

 何だか不穏なことを言われたような気がするが、どうにかなっているのなら今すぐ逃げ出す必要はなさそうだ。もっとも、逃げようにも頼る知り合いもおらず電車の出発時刻は一時間後で外では雨が降っているという状況でどこにどう逃げるという話だろう。選択の余地がそもそもないのだということを確認し直すたびに、未だに新鮮に絶望できるのだから俺はまだここに馴染み切れていないのだろう。

 厚宮さんは意を決したように握り飯を手に取って、口を開ける前に俺の方を見た。


「そうだ、悪いんだけど甥っ子くんの服貸してくんない? 借りといてなんだけど、サイズがあんまりにも合わないからさあ……これで帰ったら俺運転しくじりそうなんだよ」


 捨てるようなやつでいいからと拝むように手を合わせて俺の方を見つめる。

 先程の異様な雰囲気とは違う、普段の雑談のような調子の軽薄な声での呼びかけにどう答えるべきかが分からず、俺は叔父へと視線を向ける。

 叔父は俺を一瞬だけ見てから、厚宮さんの足りない袖と自分の生白い腕を見比べて、


「馬鹿の癖に背だけはすくすくと伸びたな」


 その一言だけを吐いて、叔父はまた手元の新聞へと視線を落とす。解きかけのままだったクロスワードを再開したようだ。紙面を突く鉛筆の先が微かな音を立てている。

 もう面倒は見ないというあからさまな意思表示だ。

 大人げないと言えばそうだが、このひとがまともに大人をやっていたことの方が稀なので今更だろう。

 俺は熱さに眉を顰めながら塩むすびを齧る厚宮さんのまだ乾き切らない髪の貼り付く額を見ながら、この人が満足するような服があったかどうかを考えている。

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