怪異式ブートストラップ

 食器の擦れる音に混じって、水が跳ねては排水口に流れる音が聞こえる。秋の午後、薄い光が射す台所に立つ背中に向かって俺は問いを投げる。


「料理得意だったりするんですか、やっぱり」

「得意というほどじゃないと思うけどね。食べたいものと食べられるものが作れるってだけだよ」


 オーブンからは低い唸りが響く。祖母がまだ台所に立っていたころから現役だということだが、一切機能に支障はないらしい。

 オーブンの排気音に重なるように叔父が続けた。


「毎年この時期になると、向いの叔父さんから卵が届くんだよ。何の義理だか私は知らないけど、くれるってもんを角を立てずに断るのも面倒だし……」


 言葉の最後はため息に呑まれた。

 物を貰っておいてそんな文句を言うのも普通なら失礼だろう。だが今回ばかりは叔父の言い分も分かる。

 昨日大学から帰ってきて冷蔵庫を開けたら卵ポケットどころかその他生鮮食品が入るべき空間スペースの三割を卵が占めていたときの衝撃は中々のものだった。

 てっきり叔父が悪徳卵売りに捕まったかそれとも自棄でも起こしたのだろうかと一瞬思ったが、すぐに供給源が孝二さん──叔父の父の弟なので俺から見れば大叔父だ──だと説明されて安心したものの、血縁に対してこんな正気を疑うような真似をするやつがいるという信じたくもない事実が残ってしまった。一人暮らしの、大学生男子が下宿しているといっても消費人数が二人しかいない住居に予告なしに送っていい量ではない。


「生卵なら結構持つって話だけどね。だからって冷蔵庫のスペースを取られてたらそれはそれで困るから」

「それでプリンですか」

「楽だよプリン。具なしの茶碗蒸しみたいなもんだし、卵大量に使えるし」


 水音が途絶える。食器や道具の始末が済んだのだろう。

 音を立てて椅子を引いて、叔父はいつもの席に座った。


「料理が得意っていうか、レシピ通りにやればその通りのものができるだろ。じゃあどうして難しいことがあるもんか……料理全般そんなもんだよ」


 そう言って叔父は椅子に凭れる。

 叔父の物言いには理屈がある。普遍的かつ一般的な手順が記載されたものがレシピだ。読んでその通りに実行すれば問題なく仕上がる。生活に関わる作業の中では理屈が通るほうだろう。

 だからこそ不思議だ。料理が人並みぐらいにはできているのにどうして整理整頓だけはあそこまで壊滅的なのだろうかと夏の惨状──本に埋もれた二階の部屋──を思い出す。今でも油断すると食卓の端に本と新聞が積まれ始めるのだからどうしようもない。適性の差だと言えばそれまでなのかもしれないが、ここまで極端な真似をすることもないだろうに。


「しかし孝二さん、なんで卵くれたんですか」

「卵、一応この辺の名産らしいんだよね」

「らしいんですか」

「興味がないからなあ。なんちゃら卵って、そこそこブランドらしいけどね」

「卵の方なんですか。比内地鶏とかは肉が売りですけど」

「肉もある。スーパーでちょっと高めの……名前がね、出せない」


 長年住んでいるはずの地元の名産に対しても認識が胡乱だ。だがこの人ならば仕方がないと思える辺りは慣れか諦めのどちらだろう。

 これ以上思い出せない名前にこだわるのも面倒で、俺は雑に話題を切り替えようとする。


「鶏と卵ったらあれですよね、屁理屈に使うやつですよね」

「思考実験って言ったほうが角が立たないんじゃないか。言いたいことは分かるけど」


 鶏が先か卵が先か。因果の順序についての葛藤を通して個々の信仰を問うような性根の悪い問いだ。

 卵を産む鶏が先に存在したのか、その鶏が生まれる卵が先にあったのか。恐らく真面目に学問をやっている連中には一応の答えが出ているのだろうが、俺や叔父のような不真面目な一般市民にはきちんと答えのない問いとして成立している。

 叔父は数度、やけにゆっくりと瞬きをしてから、大儀そうに視線だけを俺に寄越した。


鶏卵とりたまっていうか……どっちが先でも私の生活には関係がないけど、たまに考えた方がいいかなって気がしてそのまま忘れたりはするね」

「何がですか。ていうか何ですかその雑な物言い」

「ん、昔話。どっちが先か分かんない話があったなって」


 生白い頬を掌で数度撫でてから、叔父は続けた。


「私が高校生のときにね、生徒会室にお化けが出るって噂ができてさ。誰もいないはずの会室に、誰も知らない生徒がいるみたいな話。そいつが誰だか思い出せないと、夢枕に立たれるとか熱を出すとか留年するとかって言われてた」


 ストレートな怪談話だった。

 人が怖がりだということを知っておいてどうしてそんな話を始めたのかと顔を見れば、ひらひらと煙でも祓うように骨張った手が振られた。


「噂だって言ったろ。もっと正確に言うとね、嘘だったんだよ。嘘だって素性が割れてたら怖くないだろ、よくできてたって作り物だ」

「どうして断言できるんですか」

「だって私と厚宮のことだもの」


 ここにいない公務員フレンドリーなアロハシャツのちんぴらの名前と共によく分からない事実が提示されて、俺は叔父の顔を眺める。

 叔父は俺の目を見てから、すぐにその背後を透かすような目つきになって続けた。


「発端、先輩方だったんだよ。たまに授業中なのに生徒会室に人がいるって目撃証言? があって、顧問からやんわり注意されてたんだよね。そんで私や厚宮がたまに授業サボって会室にいるからだろってことで、生徒会の責任にされたくなかったのと悪乗りで、そういう噂を作ったんだ」

「叔父さん生徒会役員だったんですか?」

「そこ? 会計やってたんだよ。厚宮が生徒会入るって言うから、一年のときに連れてかれてそのまま」


 目を僅かに細めて、叔父は続けた。


「高校、生徒の自主性とかそういうのを尊重するみたいなのが売りでね。バンカラ拗らせてるったらそれまでだけど、そのせいで生徒のサボりとか結構雑に見逃されてたんだよね」

「……生徒会室がたまり場、って認識で合ってますか」

「ああ、それは随分正確だ。たまり場だった、な。私たちの」


 私たちと語ったとき、穏やかな色が目元に薄く滲んだ。


「そういう場所だから、私たち以外にも入り込んでるやつはいて……たまに噂を本気にしたやつが覗いて悲鳴上げてたっけ」


 叔父は咳き込むような笑い声を上げた。


「放っておいても話がどんどん詳しくなっていくから、結構面白かったな。留年が決まったことを悲観して死んだ生徒がどうこうみたいな因縁まで出てきてさ……うちの学校、自殺者はそこそこいたけどね。留年ぐらいで死ぬようなやつはいないと思うけどな」


 作られた怪談に尾ひれがついていく。それ自体はありふれたことだろう。怪談についてはよくあることだ。語られ伝わっていく過程で、ただ痛ましい死体だったはずの女子学生が、人を襲って足を毟るようになったりするのだ。

 叔父たちが元になった怪異がどのように変化したかには、恐ろしい反面興味もあった。


「その噂、どうなったんですか」

「ん……それなりのものにはなったよ」


 。その一言の不吉さに、俺は叔父を正面から見つめる。

 叔父はオーブンの方を気にするようなそぶりをしてから、俺の方へと向き直った。


「最初、基本的には該当者サボった生徒がいるタイミングで目撃情報が出てたんだよね。当たり前だけど。しばらく経ってから、サボってたやつがいない間にもそれを見たってやつらが結構出てきて、そこからは早かったな」

「早かったっていうのは」

「明らかに私たちじゃなくなった、って言うべきかな。目が合うと三本の腕をばらばら振ってくるとか、逆さになって窓に張りついてしきりに何かを言っているとか、首がないとか」


 きちんと怖いものになってしまったのか。

 告げられたビジュアルを想像したがる思考をどうにか抑えつけながら、叔父の方へと視線を向ける。

 叔父は聞き慣れた、アクセントも感情も何もかもが平坦で曖昧な声で続けた。


「普通のお化けになっちゃったんだよね。嫌な話だけど」

「どうしてそんな話をしたんですか。嫌がらせですか」

「いや……鳥か卵か、ってことで思い出したから」


 どうしてこの嫌な話から鶏と卵が出てくるというのか。言い訳にしても雑だ。

 睨む俺の目を正面から見て、叔父は少しだけ間を取った。


「そもそもさ、発端は私と厚宮だったんだよね。じゃあ、人間だろ」


 その一言で叔父の意図が何となく見えて、俺は答える。


「……お化けなんかいなかった、ってことですか」

「そうだね。いなかったのに、いないはずのものができたんだ」


 叔父は数度生白い指で机を叩いてから、小さいのによく通る声で続けた。


「どっちか悩むだろ。お化けがいたから私たちが噂を作ったのか、私たちの噂のせいでお化けができたのか」


 鶏が先か卵が先か──元から存在していた怪異に叔父たち素行不良の生徒が重なってしまったのか。生徒会の先輩たち無責任な若者が見たと嘯いてしまったからこそ怪異がその偽りを種にその形を成したのか。

 叔父がこの話をしたのは嫌がらせでも何でもなく、単純な連想の賜物だろう。恐らくいつものように悪意もなく、ただの場繋ぎの雑談ぐらいのつもりだろうが、だからこそ余計たちが悪い。

 声に微かな喜色を滲ませて、叔父は続けた。


「あれだ、見るものも聞くものもいないところで倒れた樹はどんな音を立てるのか、って話もしておきたくなるね」

「どうしてそこ並べるんですか。ズレませんか」

「ズレるけど方向性は近いんじゃないか。雑談だもの、脈絡も少しぐらいは飛ぶさ」

「雑談ったって──嫌ですよ、なんかこう、話の流れが」


 叔父が口にしたのは古典的な問いだ。ただ現象としてあるものに観測者は影響を及ぼすのかどうかという難儀な問いかけ。観測したという行為こそが現象を発生させたのか、観測者の有無に関わらず、現象はただ存在しているのか。

 つまり、先程の叔父の体験談と重ねると──観測者のいないところで現象怪異は存在できるのかという問いになるのだ。


 翻って恐ろしい結論が出てしまう。卵と鶏、見る者もなく倒れる木が立てる音──俺に見えないところで怪異は現象として存在し続けているのか、それとも俺が見ていたということで現象が発生するのかという、考えるのも嫌になるような二択が示されてしまうのだ。


 どう転んでも最悪だ。逃げ道が丁寧に塞がれてしまう。

 観測者が存在する以上は怪異を見てしまうという結論など、俺にとっては気づかなくても支障のなかった致命傷の存在を教えられたのと変わらない。


 甲高い電子音が鳴って俺は椅子から飛びあがりそうになるのをどうにか堪えた。 叔父はオーブンを開けて何かを確認したようで、また扉を閉めたらしい音が聞こえて、再び低い唸りが聞こえ始めた。


「もうちょっとかかるな……夕飯は茶碗蒸しだよ。まだ山程あるからね、卵」

「プリンも作ったのにそれはむごいんじゃないですか。大体プリンでしょう、茶碗蒸し」

「共通項、六割ぐらいだと思うけどな。プリンに鶏肉入ってないだろ」


 子供のような揚げ足取りああ言えばこう言うに、日常的かつ普遍的な範囲の軽口だと分かっていても苛立ってしまう。

 俺の表情が余りに分かりやすかったからだろう。叔父は僅かに目を細めて、宥めるような声音で続けた。


「私としてはどっちでも同じだと思うけどね。自分の好きに見ればいいんだ──甘い茶碗蒸しでも塩っぱいプリンでも、どっちにしたって目の前にあることだけは変わらないんだから」


 結局は気の持ちようと始末の付け方次第だよとなんとなく癇に障る一言を添えて、叔父は口の端を片方だけ吊り上げてみせた。

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