猶予期間、或いは幕間
朝から延々と降り続く雨は止む気配もなく、陰気に降る雨粒はガラス窓に群れては未練がましく伝っている。
こんな陰気な日曜日に二人揃って洋間でややこしい上に陰鬱な映画──内容の詳細はともかくとして初っ端から不穏な目をした男がうわごとのような問いをヒロインに向けて繰り返すのだからどうにもならない──を眺めているのだ。そんな真似をして気分が落ち込まないわけがない。
「そういや……あれだ、調子はどうなの」
「何がですか。生きてますよ」
「そうじゃなくってさ、あれだよ。大学のレポートとか」
君勉強とか困ってないのとこちらを向きすらせずに叔父が続ける。
言葉の調子と現在の状況から、自分が叔父に学生生活を心配する親族のようなことを問われているのだとは咄嗟に理解ができず、反応するのに時間がかかった。そもそも生活能力のなさから甥を住まわせる羽目になった人がそんな人間らしいことを言うのを予想できる人間の方が少ないだろう。俺の理解が遅れたとしてもこちらに非はないと思いたい。
「今のところは特に困ってませんよ。単位も落としてませんし」
「そうか」
聞いてきたくせにひどく淡泊な返答を寄越して、叔父はこちらをぼんやりと見ている。動機の読み取れない視線を一方的に向けられているのも何となく嫌で、俺は黙ってその目を見返していた。
「一応親族ならこういうことを心配するもんじゃないかと思ったんだよ。私、君の叔父だろ」
「はあ」
「ただここから先をどうしていいのか分からない。あれだ、困ってないならえらいと思う」
よく頑張ってるねとひどく凡庸な褒め言葉じみたものを口にして、叔父は自身の言葉に納得したように一度頷いてから、またテレビへと向き直った。
その横顔をしばらく呆然と眺めてから、俺はどうにか口を開いた。
「俺は頑張っているっていうか、学生らしくしているだけです」
「そうか」
「そうです。あー……むしろ叔父さんはどうだったんですか、学生のとき」
鬱々とした空気の中で訳の分からない映画を観続けるのが嫌で、俺は会話を続けようと乱雑な質問を返す。
叔父はさして気分を害した様子もなく、どことなく蜘蛛めいた印象のある長い指を組んだまま口を開いた。
「どうって別に……君の先輩ではあるけどね、参考になるようなことは喋れないな。年月が経ち過ぎて」
「先輩でしたっけ」
「進学先、地元の国立ぐらいしか選択肢がなかったからね。私立行かせてもらえるわけなかったし、成績的にはそんなに無理でもなかったし」
少し間を置いて叔父は続ける。
「どういう学生だったかっていうなら、普通の学生だったよ。普通に授業出て、それなりに課題やって、なんとなくサークル活動なんかもして……話すことが本当にないな、面白くもないから」
そう言って微かに眉根を寄せる。珍しく困っているような表情に見えて、俺は何となく動揺する。
薄気味悪い怪談や与太を話しているときには見たこともないような類の顔だった。
「俺もそんな感じですよ。学生ってそんなもんじゃないですか」
「君まだ一年生だもんな。未成年ならほとんど高校生みたいなもんだろ」
大雑把なことを言って、叔父はべたりと右掌を頬に当てる。歯痛を堪えるような仕草のまま、雨音に紛れそうな声で続けた。
「高校のときもな、君にできるような面白い話があるかったら所詮学生だからたかが知れてるし、そもそもだいぶ覚えてないしな……」
「そういや高校も一応進学校なんですっけ」
「『この辺としては進学校』ね。都会に比べたらたかが知れてる」
「なんでそんな身もふたもないこと言うんですか」
事実だものとどこか愉快そうに嘯いて、叔父は目を細める。
「田舎の名門、何か売りがあるかったらあれだ……見分け方で出身の著名人が根暗の見栄張りかアングラ野郎かの二択を出せるってくらいだからな」
どちらにも喧嘩を売るようなことを言った口元が微かに緩んでいる。俺は父も昔そんなことを言っていたのを思い出したが、何となく口には出さずにおいた。
「考えたら十六年も学校ってもんには世話になるからね。モラトリアムとか言うんだだっけ? そういう人間になる準備期間みたいなの」
「ああ……現社で習うやつですね。あれ、社会科でしたっけ」
「その辺の見分け、よく分かんなくなるよな。中高で習ったことってほとんど地続きだから余計にさ」
卒業してまだ数年しか経っていない俺でも記憶が曖昧なのだから、叔父がきちんと覚えていないのも無理はない。基礎と応用のように両者に密接な関係があるからこそ見分けがつかなくなる。
「その辺が混ざってるの、学校の面子もあんまり変わんないせいもありそうだけどね」
「変わんないんですか」
「学区内で選択肢がないからね、基本的に小学校から高校までは殆ど持ち上がりみたいになるね。中学の卒業式でしみじみ別れて、四月の朝に駅でほぼ全員と顔合わせるんだよ。甲斐がない」
「高校まで同じなのはなかなかですね」
「厚宮がそうだよ。幼稚園以外は一緒だ……それにあいつ勉強私よりできたからな、物理三点のくせに」
田舎のちんぴらとしか言いようのない厚宮さんの外見を思い出す。これまでの話からすると、厚宮さんも叔父と同じくそこそこの進学校と国立大学を出ていることになる。人は見かけによらないという使い古されたことわざを連想してから、そもそも見ただけで分かるものの方が少ないのではないかということを考え始めてしまう。
「高校の頃だって、やっぱり普通に授業受けて課題出して部活とかやってだからな。未成年だから余計にしんどいぐらいしか差がないんじゃないのか」
「そんなもんですか」
「ん……いや、訂正っていうか追加だな。未成年だからまだ楽なところもあるか、一応」
責任を負うほどの自己がないからなと嘯く声音にはうっすらと懐かしむような気配が滲んでいて、一応この人にも学生時代の思い出に対して人間的な反応を見せたりするのだなと驚きと安堵の混ざりあったような感情を覚えた。
この人が責任ある大人として生活しているかどうかはともかく、少なくとも俺よりは長生きはしている。ならば人生のあれこれを経験している率は俺よりは高いはずだろう。余計なことを尋ねて、わざわざいらない地雷を踏む必要は無い。その程度で機嫌を損ねる人ではないとこれまでの生活で何となく分かってきたつもりだが、居候の身としては家主の機嫌は細心の注意を以て扱うべきだろう。
叔父さんはそんな俺の気遣いなどまったく気づいていない顔のまま、数度ゆっくりとまばたきをしてから口を開いた。
「大学のときにさ、先輩から聞いた話で……二三年くらいの周期で、新歓絡みの派手めな事故とか不祥事とかが起きるんだと」
新歓で事故が起きるのは分からなくもない。新しい環境にはしゃぐ新入生と迂闊な年上の組み合わせなど危険もいいところだ。そんな当たり前のことを言い出した叔父の意図が読めずに、俺はその表情の薄い顔をじっと見つめる。
叔父は俺の考えていることを見抜いているかのように首を振って、
「事故自体はそうだね、そんなに珍しいもんじゃない。そういう……若さ故の過ちで片付くようなものばっかりだ。重要なのはそこじゃなくって、その不祥事や事故の関係者に、毎回同じ名前が出てくるって話だった」
「同じ人が関わってるんですか?」
「二年おき三年おき、なんだけどね。サークルの何人かで立入禁止区域に入って怪我人が出たとか、繁華街の小競り合いで暴力沙汰の被害者及び加害者になったとか、そういうよろしくないことをした連中の中にその名前が出てくるって話、だったな」
どうも怖い話が始まっていたらしい。不意討ちだけに意識も逸らせず、まともに聞いた分だけじりじりと染みるような不気味さがある。
札付きの学生がいてそいつに関連してというならまだしも、話の周期的に普通の学生ならとっくに関わりがなくなっているはずだ。違う事件に同じ人間が関係者として出てくる──そんな小説の大黒幕のような話があってたまるものか。そんなことを企むような奴が現実にいたら、十中八九まともではない。
とりあえず突然に怖い話をされたことに抗議の意だけは示しておこうと、俺はきちんと叔父の方を向いた。
「どうしてそんな怖い話をするんですか。怖いじゃないですか」
「そんなに怖い話でもないだろ。私はあまり怖くなかったからね。似たような話、高校で聞いてたから」
追撃が飛んできた。俺は表情を取り繕うのも嫌になった。
似た話を聞いていたから耐性があるだなんて、そんな馬鹿な理屈が成立してはたまったものではない。
映画の画面では何やら悲劇がじわじわと進行しているらしく不穏な音楽と啜り泣きが聞こえてくるが、虚構の悲劇よりも生身の人間から直に聞かされる怪談の方が恐ろしいのは致し方ないことだろう。
「高校のときは……カンニングとか喫煙とか集団での深夜徘徊とか、そういう不祥事の話だったな。高校生らしい問題行動、みたいなやつだ。そういうので現行犯から関係者協力者の名前を聞いていくと、同じ名前が出てくる」
「叔父さんも知ってるんですか、その名前」
「生徒の間じゃ有名だったよ。この手の話、大体先輩から口伝されるから。文化だよ。名前はね」
「やめてください。聞きたくない」
強めに声を上げて遮れば、どうしてか意外そうな顔をしながら叔父は口を噤んだ。
口にしようとしていた内容は、明らかによろしくない代物だろう。そのくらいのことは俺でも予想ができる。ムラサキカガミやイルカ島の話を迂闊に聞いたばかりに、夜になるたび恐怖に震えていた小学生時代を思い出すまでもない。
余計なことは知らないに限るというのも、こちらに住むようになって学んだことだ。気付く必要もないものからは目を逸らしていた方が、穏やかに日々を過ごせる。
それでも始まった会話を一方的に終わらせる罪悪感はあるものだ。どうにか軟着陸を目指そうと、できる限り穏便な進行を目指して俺は会話を続けようとした。
「関係あるんですか、その不祥事とその……名前は」
「さあ。知らない」
今までの前提を覆すようなことを言って、叔父は首を鳴らす。
「そもそも偶然かもしれないし、それこそ私みたいに聞いたことあるだけのやつが適当吹いてただけかもしれない。まことしやかに囁かれたって誠だとは限らないだろ」
「じゃあ、」
「でも、もうそういうものだからな」
言い切られた言葉の端に、閃くように雨音が強く響いた。
「もしかしたら関係ないかもしれないけど、もうそういうものってことになっちゃったから。今更どうにもできない。手遅れだよ」
義理としがらみで泥被るみたいな話だねと叔父はうっすら笑う。
その笑みにどのような顔をすべきか、言葉を返すべきかがどうしても分からず、俺はひどくつまらないことを口にした。
「お化けにも義理ってあるんですか」
「どうだろう。幽霊は浮世のしがらみで死んだ無念がどうこうだから、その点で言えば義理のかたまりみたいなもんだろうし」
長く息を吐いて、当然の公式を説明する教師のような口調で言葉が続いた。
「大人になると自分のことも自分で始末をつけるけど、どうしてか他人の分まで引き受けることがあるからさ。そう考えるとお化け連中、その辺の人間よりかは余程大人なのかもしれない」
「そういうしがらみみたいなやつ、理不尽って言いませんか」
「浮世の義理ってやつだと思うけどね。仕方ない、大人だから……」
俺は叔父は果たして世間一般で言う大人として扱っていいのかどうかを問おうとして、諦める。どんな答えが返ってきても納得できそうになかった。
「とりあえず、君はまだ未成年なんだからさ。そういう義理とかしがらみだらけになる前に好きにしといた方が楽しいと思うよ。モラトリアム真っ最中だもの、せっかくの立場は使ったほうが得だよ。青春18きっぷみたいなもんだし」
「叔父さんがそれを言いますか」
「私は……執行猶予みたいなもんじゃない? 現状」
何か罪でもあるのかと聞こうとした途端に、叔父はふらりと立ち上がった。
「叔父さん、あの、」
「悪いけど
そのままこちらの返事も待たずにするすると洋間を出ていってしまった。
あんな勝手な真似ばかりしているのに罰が当たってないのだからどうしようもない。部屋中を本で埋めて勝手に怖い話をして気が向いたからと昼寝を始めるような人間が、執行猶予などと悠長かつ温情溢れる処置を貰えるわけもない。うわごとにしては思い切った単語を持ち出したな──その程度に思っておけばいいだろう。叔父の言動を毎度深読みしたところでロクな目に遭わないのが分かり切っている。
それに、あの手の人間はどうせ本当に大事なことは手遅れになるまで教えてくれないものだ。
俺は一人きりになったソファに深々と沈み込み、すっかり置いていかれた映画にどうにか没頭しようと暗い画面を眺めている。最早BGMの調子で内容を判断するくらいしかできないが、聞こえてくる曲調からしてどうにも愉快な話にはなりそうになかった。
すすり泣きのように微かな雨音が陰鬱な旋律に重なる。息詰まる午後の空気の中、俺は陳腐なほどに重たい溜息をついた。
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