九月閑話
隠し切れない面影を
「君は頑なにミエルって呼ぶけどね。もうあれミエルじゃないからね」
「分かってますよ。イトナガでしょう。俺の小さい頃に散々そっちで聞いたせいで今更変えられないんですよ」
「年寄りはそういう人多いけどね」
「そうですよ。タクシーでミエルの近くって言った覚えがありますもん」
何の話かと言えば、この家の近所に位置するこの町唯一の生活スーパーの話だ。俺はどうしても小さい頃に見た店舗名のまま記憶が書き換えられずにいて、最早撤退し看板も掛け替わった店のことを頑なに旧店舗の名で呼んでしまうという、昔の女を忘れられない未練がましい男のようになってしまっているのだ。
現在の店舗の正式名称は『いとしょう』。漢字で書くと伊藤商で、この地域を中心として展開している企業の系列店なのだそうだ。俺がしばらくこちらに来れなかった期間に潰れた店舗をそのままに居抜きで商売を始めたようで、この結構な田舎では唯一と言っていいスーパーマーケットだ。そのため冗談抜きで周辺の住民には生命線足りうる存在であり、例え前店舗が撤退した後に乗り込んできた新参者であろうと役に立ってくれるのであれば利用しない訳にはいかないのだ。
「別に充分に品が揃ってきちんと売ってくれるってんならどの企業だってあんまり関係が無いだろう」
「風情の話ですよ。人情とか、思い入れとかそういう類です」
「思い入れで不買運動したってなあ……事実として生活できないもの。多分この辺りの人口が半減すると思うよ」
選択の余地がないからねと、片肺の無い叔父は皮肉気に口の端を吊り上げる。その表情を見て、そういえばこのひとは歩いて数分のあのスーパーマーケットが無ければたちまち生活がままならなくなる類の人間なのだと思い出して、何となくそれ以上物を言えずに俺は黙り込む。
叔父は特に何かを考えた様子もなく、数度生白い掌で頬をぺたぺたと撫でてから、
「美学はともかく晩ご飯の品がいるだろ。財布渡すから買い物行ってきてくれ」
「何食べたいですか」
「アイス」
「食事の話をしているんですよ。アイスも買ってきますけど」
「魚。よさそうな刺身があったらそれでもいいよ」
「一応秋なんだからサンマとかどうですか」
「君の好きにしてくれて構わないよ。アイスはバニラの最低でも六個以上入ってるやつがいい。ほら小さいカップのやつ」
食事には注文を付けないのに嗜好品かつ氷菓にはいやに細かい指定をしてくるあたり、興味の有無があからさま過ぎる指示だ。叔父は椅子に掛けたままごそごそと食器棚の下に据え付けられた引き出しを漁って、真っ黒な長財布を投げて寄越した。
「ポイントカードは手前に入ってる。馬鹿な使い方しなきゃそれでいいよ」
とりあえず二日分くらいの何がしかとアイスを買っておいでとおざなりかつ頑なな指示を言いつけて、叔父はひらひらと手を振ってみせた。
※ ※ ※
黒木の門を出て左に曲がり、仁科さんの家の隣にある、広々とした砂利の敷かれた駐車場が印象的な高槻姓の表札を掲げた家の前から敷かれた横断歩道を渡れば、目的の店は目の前だった。
広大な駐車場には時間帯のせいか車は少なく、崩れたひらがなで『いとしょう』と書かれた看板は午後の日射しに照らされている。店舗の入り口前には花の苗や土の袋が山積みにされ、ざらざらとした音質で少し前の流行曲が流れている。
部分的には懐かしい風景だ。何せ店舗も土地も居抜きなのだから、ほとんどの記憶はそのまま適用できる。入口に置かれたガチャガチャがやりたくて駄々を捏ねたら帰ってから蔵に閉じ込められたこと。併設されているクリーニング店に喪服を出しに行ったこと。駐車場で転んで泣いていたら見知らぬ老人がひどい味の喉飴をくれたこと。幼少期の思い出は同一の配置を以て容易く再生される。唯一かつ致命的な齟齬といえば、あの盛大に店名が掲げられた看板だけなのだ。
記憶の残滓と現実を乱暴に折衝させた結果、俺は未だに無くなってしまった店名で現存する店を認識している。未練がましいというべきか物覚えが悪いのか分からなくなって、俺は看板から目を背けて店内へと向かった。
過剰なまでの冷房が入った店内は相変わらず頭痛がするほどに冷え込んでいて、俺は片腕をさすりながらとりあえず目についた野菜を買い物カゴに放り込んでいく。じゃがいもと人参、それからたまねぎ。調理をするようになってから、この三つがあるならばどんなものでもそれなりに格好がつくということが分かったのは明確な進歩だろう。極論カレーかシチューか肉じゃが、この三種類のどれかが作れる状態にあるというのは大変便利だ。実家ならば同じものばかり食べさせるなと手酷く怒られるところだが、叔父も俺も同じ料理が続くことに何の抵抗もない人種であるので、一週間の献立に何回肉じゃがが登場しようが三日間芋料理が続こうが誰も不満を言わないのだ。まともな人間としては問題があるのかもしれないが、生活する分には配慮することが減るだけ気楽なものだ。
足早に野菜売り場を抜けて、味噌汁用の豆腐に塩辛あたりを適当に選ぶ。基本的には筋子があれば不平も言わずに白飯を平らげるのが叔父ではあるが、一応居候の身としては最低限より少し上あたりの文化的な食卓を提供しようという努力の痕跡程度は残しておくべきだろう。おまけに玉子豆腐――こちらの地方特有の茶碗蒸しの如くにしいたけを始めとした各種具材が入ったもの――を二パックほど買い物カゴに入れて、鮮魚売り場でマグロの刺身を掴み、精肉売り場では適当な鶏肉と豚肉を買い足す。それなりに重くなってきた買い物カゴを持ち直して、俺はのろのろと総菜売り場へと向かう。俺が学校へ行っている間の叔父の昼食になるような、ちょっとした一品が欲しいのだ。
叔父は別段料理が不得手という訳でも無いが、基本的かつ絶対的に無精なひとだ。そのため自分一人しか食べる人間がいないとなると、俄然手を抜いて塩おにぎりだけで半月過ごすようなことを平然としでかす。本人は至って不満もないのだろうが、一応下宿の条件として叔父の生活の面倒を見ることが役目である俺の立場としては、そんな栄養素的に問題がある状況をのうのうと見過ごすわけにもいかない。そのため叔父が一人で取るであろう昼食においては、調理する必要のない、温めるだけで食べられて炭水化物以外の栄養素を含む惣菜を用意しておこうという魂胆を持つに至ったのだ。
イカや鶏の唐揚げなどは適量が詰められ、出来合いのハンバーグや揚げ出し豆腐は常識的な範囲での大盛りで収まっている。それなのにシシャモの唐揚げがぎちぎちに詰められて無理矢理にパッケージされたトレイを見て、他の総菜の諸々と比べても際立つ詰め込み方の剛腕具合に、俺は一種感心すら覚える。どうしてこの小魚の揚げ物だけが親の仇のような量を詰め込まれてなお三百円台という破格の値付けをされているのかを考えてしまい、商品を手に取ったまま総菜コーナーに立ち尽くしていたのだ。
「ねえ、高槻先生のとこの人でしょう。一義さんの息子さんだ」
覚えのない声が父の名と俺の立場を正確に言い当てて、俺は惣菜を取り落としそうになりながらも辛うじて堪える。いつの間にかすぐ隣に立っていた見覚えの無い女性は俺の方をじっと見て、ただにこにこと笑っている。
「は――あ、こんにちは、あの」
「はいこんにちは。晩ご飯の買い物? 便利よねえここ。贅沢言わなければ大体の物が揃うもの。朝早くとか夜遅くなっちゃうとコンビニの方が便利だけど、それはそれで棲み分けができてるものねえ」
「はあ、あの、どこかで」
「お話はね、聞いてはいたんだけど実際にお会いするのは初めてね。一応ご近所だから、いっぺんくらいご挨拶はしときたいじゃない」
カドの高槻ですと言って、女性はゆるゆると会釈を寄越す。一方的に語られた内容と名字から察するにこの近辺の人間というのは本当だろうなと無理矢理見当をつけて、俺も慌てて頭を下げた。
「お若い人だから目立つとはね、崇子さんから聞いてはいたんだけども意外と時間が合わないのかしら、私は中々お会いできなくって……でもここでね、指先を見たときに分かったもの。一義さんにそっくりねあなた」
「父に似てますか」
「ええ。薬指なんかそっくり」
「薬指」
予想だにしなかった単語が飛び出してきて、俺は女性――カドの高槻の顔をじっと見る。平凡な、それでいて年齢の掴み辛いその顔には分かり易く悪意や狂気が滲んでいるようなことはなく、人好きのしそうな柔らかな笑みが浮かんでいるばかりだ。彼女は心持ち首を傾げながら、滔々と言葉を続ける。
「先生の高槻はね、みんな指が似てるもんだとは思ってたけどもあなた特別似てるわねえ。お父さんと弟さんに一義さんもよく似てたけど、あなた生き写しよ」
「指がですか」
「ええ。そうやって物を掴むときの具合がそっくり」
血ってすごいのねえと一方的に感心したようなことを言って、カドの高槻はすっと惣菜棚に手を伸ばす。南瓜の煮付けのパックを提げたカゴに入れて、少しだけ後ずさるように距離を置いてから、
「じゃあねえ、私もう行きます。会えてとっても良かったもの。よろしくね一義さんの弟さんにも」
ちゃんと面倒見てあげてねとどうにも頷きづらい一言を投げつけて、話しかけてきたときと同じくらいに唐突に、カドの高槻はそのままレジの方へと歩き去った。
その背を呆然と見送ってから、俺は随分と長いことシシャモの唐揚げのパック詰めを掴んだままにしていることに気付いて慌ててカゴへと放り込む。出会い頭にはんぺんでもぶつけられたような気分のまま、とりあえずアイスだけは買っておくべきだということをどうにか思い出して、売り場へ向けてふらつく足を動かした。
※ ※ ※
「カドの高槻って何ですか」
「うん? ああ、屋号だよ。私が言うのもおかしいけども、この辺高槻ばっかりだろ」
あだ名みたいなもんだよと言って、叔父は紅茶カップに淹れた麦茶を啜る。九月も半ばを過ぎたというのに麦茶をわざわざ淹れて飲んでいるのはどういった趣味なのだろうと考えて、恐らくパックが余っているからという現実的な理由だろうと思い当たる。このひとは行事やしきたりはそこそこにこなしこそするが、実際の季節感や風情といったことにはざっくりとした認識しかないようで、真夏にグラタンを出そうが秋風に風鈴が鳴り喚こうがさして気にしない類の人間なのだ。
「カドだからね、十字路の角のところに家があるんだよ。確か兄さんが同級生だったんじゃないかな」
「ああ、そういう――済みません、何かあの、驚いてしまって」
「だろうね。これバニラだけども棒だもの」
今度は何に驚いたのと言って、叔父はアイスの袋を開く。そのまま二口ほどかぶりついてから、じっと黒目が俺の方を見た。
「カドの高槻さんにお会いしてですね、その、俺が父さんに似てるって話をされて」
「親子だろう。似ていてそんなに怖いかい」
「指が似てるって言われたのはちょっと初めてで……よく分からなくて、困りました」
叔父は片目を眇めてから短く喉を鳴らして、
「うん。そうだね、初めてなら驚くか」
別にこわいものじゃないけどねと呟いて、器用に棒の中ほどに残ったアイスを齧り取る。そのまま麦茶を流し込んで、口の端で棒を噛みながら続けた。
「本の記号があるだろ、裏表紙に書いてあるやつ……あれを読めれば、本の種類とか区分とか、色んなことが分かるだろ。あの人はそれが人間でできるってだけのことさ」
「うちの一族、薬指が似てるそうです。俺と父さんと叔父さんと爺ちゃん」
「あの人の目で見るとそうなんだろうなあ。俺には全く分からないけど。そんで君爪切りなさい危ないから」
叔父は僅か渋面を作って、俺の指先から目を逸らす。そんなに伸びてますかと人差し指でさしてやれば、やめなさいといつもより明確に嫌悪が滲んだ声が返ってきて、俺は驚いて腕を引っ込めた。
叔父は少しだけばつの悪そうな顔をして、
「尖ってるものは苦手なんだよ。恐怖症までいかないけども、あまり気分のいいもんじゃない」
そもそも気軽に他人を指さすんじゃないよと真っ当なことを言われて、俺は詫びて頭を下げる。それきり話を引き摺るわけでもなく、叔父はいつもの平然とした顔に戻って、カップの柄に指を掛けたままぼんやりとしている。俺は先程の愚行を振り切ろうと、とりあえず思いついた問いを投げ掛ける。
「指とかそんなんで素性が割れるって怖いじゃないですか」
「田舎だとよくあることだよ。爺ちゃんなんか迎えに呼んだタクシーの運転手の顔と名字で出身地と両親当てたよ」
「土地特有の固有種かなんかなんですかその運転手」
「先生様って何でも知ってるんだってさ。だから嫌だね教員って」
口の端を皮肉気に持ち上げて、叔父は噛み飽きたのだろうアイスの棒を空になったカップに投げ込む。機嫌を損ねたという訳ではないのだろうが、どことなく目が翳っているような、そんな珍しい表情をしている気がするのだ。
「叔父さん」
「何」
「妙なことを考えてはいませんか」
「ん? そうだねえ、隠し事って難しいね」
カドの人の話だよと言って、叔父はぺたりと手の平を頬に当てる。そのままするりと撫で下ろしてから、静かな声音で続けた。
「身分証を見せたわけでも、声高に名乗ったわけでもないのにね。一目見られただけでどこの誰かがお見通しっていうのは、随分むごい話だと思ってさ」
「嫌ですか」
「嫌というかね……知らん顔して隠しておいた筈のものが、その実剥き出しだったっていうのはさあ、いたたまれないじゃないか」
完璧な隠蔽っていうのは困難だねと探偵小説のようなことを言って、叔父は目を細める。僅か寄せられた眉根には何かしらの苦渋のようなものが見えるような気もする。俺は何とはなしにその正体を見抜いてやりたくなって、じっとその表情を眺めていたら、いつもの茫洋とした目がじろりとこちらを向いて、ぎくりとして背筋を伸ばした。
「君の――我々の場合は指だったわけだけどさ、あの人にかかれば身元照会に顔が要らないだろ」
「は? ああ、そう……ですね。俺や父さんのことを指先で見分けてますからね」
「つまりあれだよ、身分証も無しに行き倒れて、首も何かの拍子で失くしてしまったとしてもだ。身元確認でカドの人に見てもらえるなら、私たちは素性が割れるってことだろう」
君も私も最悪手さえ見つかれば無縁仏にはなれないねと言って、叔父は少しだけ愉快そうに笑った。
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