春も秋もありません

 東北の秋は短い。

 白々とした陽が地べたを灼く夏と何もかもが氷雪と影に閉ざされる冬、隣り合う両者が苛烈であるからこそ、どうにも存在自体が薄くなりがちだ。平穏だからこその引っ掛かりのなさ、特徴のなさとでも言うべきだろう。

 俺の住んでいた土地もそこそこの寒冷地ではあるが、ここよりは四季というものが存在していたはずだ。学校行事で秋になると連れて行かれる城は紅葉の観覧を売りにしていた記憶があるし、小学校のときは玄関に植えられた銀杏の大木が色づいた葉も銀杏もざらざらと降り散らせていた。他の温暖な土地と比べれば確かに短かったかもしれないが、少なくとも記憶にないというほどの扱いを受けてはいなかったと思う。


「こっちだとあんまりないね。春と秋」


 叔父はいつものように湯気が立っているのに香りがないコーヒーが注がれたカップを手にして、のそりと席に着く。俺の前にもカップが置かれるが、ただ真っ黒な液面がゆらゆらと揺れているばかりで芳香の気配のようなものさえ感じられない。

 夏の頃に比べると格段に弱弱しくなった午後の日射しはテーブルの上に淡く広がる。穏やかな秋の土曜らしく、窓ガラス越しに微かに鳥の声らしきものも響く。

 渡されたコーヒーにとりあえずは礼を言って、俺は正面に座った叔父に視線を向ける。


「ないんですか季節」

「ない。君は夏と冬ばかり来てたから、その辺しか記憶がなくても仕方ないけどね。ずっと住んでる身としてもあんまり実感がない。春はまだ雪が融けるから分かるけど、秋はな……」


 長袖に覆われた腕を組んで、叔父はちろりと視線を窓へと向ける。


婆ちゃん母さんが生きてた頃は何かしら咲いてたからもう分かり易かったかもしれないな。ただまあ、私は花そんなに興味がないから誤差だろうけど……墓参り用のやつしか植えないし、それだって夏の分だけだし」


 夏の頃、庭に咲いた水仙を毟っていた叔父の姿を思い出す。つられて辛うじて正面から見ずに済んだもののことまでが脳裏に這い出てきそうになり、慌ててコーヒーに口をつける。

 苦いばかりで香りがない。それでも油断すると舌を焼くほどに熱い。総合すると黒くて苦い煮え湯だ。


「──秋やらないんですか。色々あるじゃないですか、綺麗な花」

「寒くなるからね。外に長くいると喉をやられる。だからやらない」


 季節感というより温感の話だねとコーヒーを啜って、叔父は満足そうに目を細める。

 同じものを飲んでいるとは思えない表情だった。


「季節感、というか秋だって行事もあんまりないからね。夏はねぷたが出るし冬は雪が降るけど、秋ったら肌寒いぐらいしかないし。サンマと梨がよく出るのはうれしいけど」

「この時期だと田んぼアートとかありますよね。お知らせ見ましたよ」

「田舎館の方ね。昔厚宮に連れてかれたけど、高いとこからたんぼ見てああすごいね色たくさんあるねって終わっちゃったからな」


 そのときの厚宮さんちんぴらの表情が想像できて、俺は他人事ながらなんとなく胃が痛むような気がして眉を顰める。叔父はさして気にした様子もなく、何度か顎を擦ってから続けた。


「田んぼはねえ。一応あるんだよ貸してるやつがさ……ああ、秋ったら米ができる時期だもんな。貰う頃にはだいぶ寒くなってるから、秋だって気がしてなかった」


 土地を貸している。

 社会科の授業でしか聞いたことのないようなフレーズに驚くが、そういえばこの人は爺さんから土地を継いだとか地代収入があるとか言っていたような記憶がある。確かにこれだけ無茶苦茶な生活をしておいて生活が破綻していない──人間的な生活かどうかはともかく借金やなんやの話は聞いたことがない──のだから、収入があるというのは本当なのだろう。それはそれでこの片付けができず人との付き合いも雑な総合して社会不適合者の叔父がそんなものを所有しているというのが何となく納得がいかず、俺は恐る恐る問いを投げた。


「もらうってやっぱあれですか、使用料……」

「それはちゃんと契約してるからね、ちゃんと払い込んでもらってる。私が今考えてんのは米の方だよ」

「米」


 より時代錯誤な単語が出てきて、俺は馬鹿のように聞こえたままを繰り返した。

 叔父は怪訝そうな目を一瞬だけ向けてから、何事もなかったように続ける。


「新米をね、毎年もらってる。紙袋でごんごんって置いてもらってるからね。買い出しが楽になって嬉しい」


 僅か頬を緩めてから袋の重さを想像でもしたのだろう、眉間に皺が寄る。小さく溜息をついてから、


「生きてるとね、どうしても食べないといけないから。そこばっかりはどうしようもない……」


 生き物って餓えると死ぬんだよと当たり前のことを言って、叔父はゆっくりとまばたきをした。


「そうだな、この辺らしい話をするとさ、君餓渇ケガズって分かるかい」

「なんか前そんな話してませんでしたか。あの……竹やりとかの話で」

「そうだっけ。あのときはこう、泥棒がスピード処刑されることしか話さなかった気がするけど。要するに飢饉だよね、この辺りのさ」


 飢饉なら俺にも分かる。高校の頃歴史で習ったからだ。年号と一緒に覚えたそれは大概悲惨な被害の話──木の根や土どころか人を食べたという代物──と抱き合わせにして刷り込まれて、東北という土地がいかに人間が住むのに困難な場所なのかということを学生たちに知らしめていたような記憶がある。


「単純ではあるんだよね、あんまり寒いと生き物は死ぬし、そんなところで作物が育つかっていう話だよ。年寄り連中に話聞くと、どこそこの地区だとどれだけ死んだとかそういう話をわらわら出してくるからね」

「わらわら」


 俺の間抜けな相槌に叔父が頷いた。


「基本的に死人が多いんだよね。そこは今更どうにもならないけど、どうだっけな、婆ちゃん生きてた頃によく聞いたけどもうあんまり覚えてないな……」

「婆ちゃんなんか知ってたんですか」

「あの人一応教員やってたし、親族が……準地元の名士様みたいなもんだったから。郷土史とかそういうやつはいっぱい持ってたよ。暗い話ばっかりするんだ」


 叔父は骨張った掌で自身の頬をべたりと撫でる。それがすっかり忘れた物を思い出そうとしているときの仕草だと俺は知っている。


「それこそ夏のときに話した竹やりの話だよ。ああいうのとか、食い物盗んだやつを吊るしたら祟られて、盗まれた上に一族郎党不幸が重なってみんな死んだり」

「踏んだり蹴ったりじゃないですか。みんな死んでる」

「そうだね。あとは坂歩いてたら草むらから赤子が出てきたとか、雨が降ると川から泣き声がするとか、そういうお化け話はいっぱいあったよ」

「出るんですかお化け。今でも」

「そんなのは知らない。ただまあ、何かあるとあそこは飢饉があったからけがずあったはんでって言う年寄りはいる。そういう話だよ」


 叔父は話を句切るようにカップに口をつけて、そのままぼんやりとテレビの方を見ている。映っているのは刑事ドラマの再放送で、画面内にはちょうど腹に血の染みをつけた人間が倒れていた。作り物とはいえ血の赤さと死に顔の白さに間が悪いのかどうなのか分からなくなって、俺も間を繕うようにコーヒーをちびちびと啜る。


 ここで生活するようになって数ヶ月が経った。不本意ながら訳の分からない怖いものにはよく遭ったけれども、そいつらの因縁というか出自のようなものが分かったことはほとんどない。何となくの説明らしいものが付きそうになることもあったが、それだって全体を把握するには全く不十分で、例えるなら人間の説明で呼吸をしますとだけ示される程度のものだった。

 半端に分かった方が、空白の分だけ余程怖い。だが俺のような怖がりとしてはちゃんと徹頭徹尾丁寧な解説をされてもしっかり怖いので、どう転んでも恐ろしいという憂鬱な顛末を迎えることになる。


 理解すれば対応ができる。対応ができるなら怖くないというのは叔父や厚宮さんこの辺りの住人が常々言っていることだ。

 その理屈に添うならば、ケガズの亡霊もまた他の怪異と同じく彼らにとっては何も恐ろしくないのだろう。──分類だけ大まかに済ませて、具体的な実害を受けないようにのらりくらりと見ないふりをして関わらずに生きていくだけだ。それは確かにこの地で生きていく上では有効な手段なのだろう。


 ケガズの死人というだけで、恨んで祟る理由がはっきりしてしまう。化けて出るのも無念なのもそのせいだろうと当てはまるに足る因縁があり過ぎている。

 それは少しだけ嫌な話だ、と思った。


 実際にどうなのかは誰にも証明ができない。だけどもそう信じている人間が存在し、そうだと語り続ける。そうすることでいつまでも描き直され刻まれ続き残ってしまうものがあるとしたら、それは何を思うのだろう──思うものなど存在していないのかもしれないというのが本音ではあり、できればしてほしくないけれども百歩譲ってしていてもいいから俺の前には現れないで欲しい。だが絶対的にそれらの存在を否定するほどの理屈を立てるのもまた難しいということが分かっている以上はこの辺りが譲歩の限界だ。

 そうやって十分な説明で一方的に貼り付けられて理解されてしまうのは、怪異であれ人であれ亡霊であれ、ひどく乱暴なことなのではないだろうか。


「飢えて死んでまで同じ土地に縛られるの、どういう心持ちなんだろうね」


 とりとめのない思考の中に割り込んできた声に顔を上げる。

 叔父は相変わらず表情の薄い顔をテレビに向けていて、独り言とも問いかけとも曖昧な言葉を投げつけたまま返事を促す様子もない。


 つい最近もどこかで聞いた言葉だ。あの時もまた、俺は聞き返せなかった。

 叔父さんはどうなんですかよそに行きたいんですか──世間話でしかないだろうその一言がどうにも言えず、俺は冷めきったコーヒーに口をつける。さして興味もないテレビに視線を向けて、人死ににまつわるあれこれを娯楽として物語に仕立てた代物に興味を惹かれたふりをする。虚構ならば血も死人も怖くないものな、と俺は当たり前のことに気づいて少しだけ口の端を歪める。

 秋の日が差す窓に風が吹きつけて、がたりと窓枠が鳴る音がやけに大きく聞こえた。

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