願いごとひとつさえ

 じりりりとけたたましく鳴る前時代的なベルの音に、俺はうたた寝からたたき起こされて洋間のソファからずり落ちる。無理矢理起こされたせいで出鱈目な速さで脈打つ心臓をなだめながら、俺はよろよろとドアの近くに設置された黒電話の傍まで這い寄る。近寄るほどに増していく音量に脳が痺れたようになりながらも、そのまま耳をつんざくベル音に辟易へきえきしながら受話器を取った。


『カズヨシだけど。どっちだ』

「はい。俺です」


 予想だにしなかった声に心底驚く。どうしたんですか父さんと電話の主を呼べば、連絡事項があるとおよそ通常の親子間ではあまり使わないであろう種類の単語が返ってきて、俺は心臓を波打たせたまま言葉の続きを待った。


『お前冬は帰ってこなくていいぞ。冬季休業だろう』

「どうしてですか。いよいよ要りませんか、俺」

『何? いやにじとじとしたことを言うようになったなお前……そっちの冬だろう。叔父さんの面倒をちゃんと見ろって話だ』

「片付けならそれなりに――仏間は綺麗ですよ。俺はちゃんと寝る部屋もあります」

『それは良いことだから続けろ。俺の家では無いけれども、俺が生まれて育った家をゴミ溜めにされるのは好きじゃない』

「言われた通りにはしてますよ。病院にも連れて行きましたし、ええと、それなりに上手くやっています」


 嘘ではないが、真実からも微妙に離れた内容だ。そう自覚しながらも、俺は動揺が声に滲むのではないかと焦燥にも似た不安を抱きながら、電話口へと報告する。父は少しだけ怪しむような考えるような曖昧な間を取ってから、


『じゃあそのままやり通せ。入った大学にちゃんと通って単位を取って、冬の生活のための課題をこなせ。それだけの話だ』


 それきり別れの挨拶ひとつなく電話は切れて、俺はさすがに受話器を掴んだまま途方に暮れる。叱られても呆れられてもいないのだから、少なくとも一夏を越してこの秋に至るまでの俺の生活の過程において、父の判断に引っ掛かるような大きな失点は無かったのだろうと自身に言い聞かせる。だが基準も状況も明確にされずに発行された評価は、縋り付くには曖昧すぎる。明らかにされないだけで運よく見逃された過ちの有無に不安を抱けば、じりじりとした焦燥が胸底から湧き上がる。いつかこのまま自覚もできない失敗を重ね続けてしまえば、基準の明らかにならない分水嶺を踏み越えてしまうのではないか。父に見切られることと見捨てられること、何より自身の無力を見破られること、それら最悪の事態をこそ、俺は必死に避けようとしているだけだ。

 優れたものになりたいのでも悪童を気取りたい訳でも無い。ただ普通に世間に――父に要求されることに応えたいだけなのだ。


「どうして君は電話に出ると未練がましい顔をするんだ」

「突然出てきて暴言をぶつけるのを止めませんか。せめて名残惜しいとか言ったらどうです」

「君は日本語が上手いな。じゃあそれでいいよ」


 俺の内心とは裏腹に、いつかのようにひどく呑気な面構えのまま洋間の出入り口にぼんやりと突っ立って、叔父はいつにも増して適当な言葉を投げつけてきた。流石にいつもよりは相手をする気力が無く、そのまま俺が黒電話の前で立ち尽くしていると、


「珈琲ね、豆をサ店のやつが分けてくれたんだよ。いる?」


 俺の反応にも様子にも、何一つ気に掛けたような素振りも見せずにそう言ってもうもうと湯気の立つビーカーを突き出して、叔父は真っ黒な目を数度瞬かせた。


※   ※   ※


 一応は喫茶店の店主が寄越したのだから、きっと良い豆なのだろう。だが淹れたのが叔父だったのが豆にとっての不幸だ。渡されたカップからはもうもうと湯気は上がっているので淹れたてということに嘘はないのだろうが、香りというものが全くせず、覗いたカップの中にはただ黒々とした液面が揺れるばかりだ。それでも作ってもらった以上は礼儀というものがあるのだから礼の一言くらいは述べるべきだろう。いつもの椅子に掛けながらありがとうございますと答えて、俺は一口を啜りこんだ。夏から何となく座り続けた結果指定席のようになってしまった自席からは、少し首を曲げれば居間の向こうの廊下が見える。黒々とした床は二階の大窓から伸びる秋の日差しに仄かに照らされ、古い木の色に微かな艶が滲む。

 秋の午後、日差しも風も穏やかな、静かなひと時だ。そんな瞬間を珈琲――それこそどれほど味がしなかろうが香りが立たないような代物であっても――を片手に過ごすのは、詳細に目を瞑れるのであればひどく贅沢な時間の使い方だろう。


「何だかんだで連絡寄越すあたりは律義じゃないか兄さん。きっと雑なことを言ったのだろうけども」

「雑ですが指示は明確ですよ。何をすべきか分かるのは良いことでしょう」

「それはその通りだ。要求があるなら示すのが礼儀だ」


 相手の推量に頼るのは行儀が悪いよと言って、叔父は戸棚から取り出した菓子鉢を机に置く。中にはせんべいやら小さく包装された干菓子やらの種々の統一性も規則性もない駄菓子がわさりと詰まっていて、とりあえず俺は一番取り出しやすかったせんべいを一つ手に取った。


「どうせあれだろう、冬期休暇だろうが実家になんぞ帰って来ずに私の面倒をみていろとかそういう類の何がしかだろう」

「よく……お分かりじゃないですか」


 寸分違わず言い当てられて、俺は思わず手にしたせんべいを割り砕いてしまう。基本的に常識的な人間の言動というものから微妙にずれている筈の叔父がここまできちんと想定できたということは、父の主張が余程普遍的なものだったのか結構な常識外れなのかのどちらなのかを考えて、頭が痛くなりそうになって諦めた。

 叔父はぐいと白湯でも流し込むような勢いで湯呑を傾けてから、何やらゼリー菓子をもそもそと齧って、


「事例があったのならば、対策を考えるもんだよ。大人っていうのはそれでこそで、兄さんなんかはことにそうだ」


 盛大に散らかしたからこそ君がここに来てくれたじゃないかと俺の居候の理由を久方ぶりに引きずり出して、叔父はうっすら笑んでみせる。何となく俺の臆病を――憧れの一人暮らしの住まいが事故物件と化して涙目で父に縋り付いたことも思い出して、俺は目を伏せて割れ散ったせんべいの欠片をちまちまと拾う。ふと先程の叔父の物言いからすると冬と叔父の組み合わせにも憂慮すべき何かがあったということになるのではないかと思い至って、俺は反射的に叔父の方を向いた。


「事例があったんですか」

「冬には死に損なったからね。随分昔の話だけども」

「何をしたんです」

「事故ったよ。でね、この様。若気の至りだね」


 そのまま湯呑の底が見えるほどに傾けて、叔父は口の端をすいと拭う。どうやら事例の詳細をこれ以上話す気はないようで、そのまま菓子鉢から幾つかの駄菓子を掴みとって手元の皿に積み上げている。このひとは同じものを食べ続けても文句を言わない程度には食事というものに執着がないが、茶菓子や嗜好品については際限なく手を出すのだなと今までの記憶を振り返って確信した。偏食の子供のようだなと思って、実際その通りだとも気付いて笑いそうになるのを堪える。いかに自堕落で生活不能者一歩手前とはいえ、年齢は確実に俺よりは上なのだ。年上に対しての敬意を忘れるのは良くないことだろう。俺より長く生き延びてきたというだけで、その年数には一応それなりには価値があると言える筈だ。

 相手が話さないことを聞いてはいけないと習ってきた以上、俺は叔父が何をしてどうなったかを詳細に聞くことはできない。だがそれでも父の指示を全うする必要があるのだから、最低限――叔父が俺に何をしてほしいのかを把握しておかなければならないだろう。そうでなければわざわざ居候を許してもらう理由すらなくなってしまう。


「とりあえず、俺は何をするべきですか」

「兄さんから言われたろ。私の面倒をみなさい――嫌だねこの表現、私がだいぶいけないものみたいじゃないか」


 別に今まで通りで構わないよと言って、叔父はもそもそと一口大の最中らしきものを食んでから少しだけ目を細めた。


「散らかった分片付けて、たまに食事の支度をして、買い物で重たいものを買ってきたり、何かしら適当かつ面白そうな話をしたりしなさい。それで大体事足りる」

「日常生活じゃないですか」

「それだけできれば生きていられる。それができるのなら、生かしておいてもらえるのが大人だよ」

「じゃあ叔父さん何なんですか」

「大人だけどできないから死にそうになってる。簡単な話だね」


 軽い調子で答えてから、僅か眉を顰めて叔父は唐突に席を立つ。そのまま背後の台所で勢いよく水を流す音がしたかと思うと、水を並々と注いだコップを持って何事もなかったかのように座り、そのまま喉を鳴らして一口を干した。


「最中はいけないな、すぐ喉に詰まる……で、あと何かあるかい」

「あと」

「言い出したの君からだろう。無いのならそうだな、こちらばかりが言うばかりというのも筋が悪い話だからね、君から何か要望はあるかい」


 余程の無茶は止めてくれよと叔父が穏やかに述べて、俺は予想もしなかった話の成り行きに少しばかり動揺する。自分の要望というものを考えた経験が、短い人生を振り返ってもあまりにも無い――それこそ無理な転居を決めたときぐらいだ――ので、適切な程度も手本も見付からずにうろたえる。とりあえず今日の夕食のおかずに卵豆腐をつけてもいいだろうかとささやかなものを思いついて、叔父の目をじっと見て、意を決して口を開く。


 ばあんと勢いよく何かを叩きつけたような音がして、そのままどんどんと荒々しく廊下の木床を走り抜ける足音が玄関の方へと向かって行ったかと思うと、がらがらと凄まじい金属音が鳴り渡り、それきり静かになった。


 あまりのことに口を開けて黙り込むと、叔父はひょいと背後を振り返って、廊下の方をしげしげと見る。


「洋間からお帰りだね」


 それだけぽつりと呟いて、何かを納得したかのように一度だけ深々と頷いてみせた。

 泥棒ではないのかと口に出そうとして、そもそも泥棒があんな騒音を立てて玄関から逃げていく訳がないと常識的な知識が脳裏をよぎる。その上もう一つ、視界に入っていた筈の廊下に人影ひとつ見当たらなかったことを、自分の目玉と脳がしっかりと認識してしまっている。ならばあの怪音が幻聴だったのだと自身の聴覚のせいにしようとしても、こういうときだけ叔父も反応しているのが始末に悪い。叔父にまで聞こえていたのならば、俺の耳の問題だけでは片付けられない。観測者の数が増えるほど、存在の確実性は増していくのだ。


「こういう……こういう、おっかないことの頻度だけ、何とかなりませんか」

「それは無茶だね。諦めてくれ」


 なけなしの要望を一蹴して、叔父はほんの少しだけ口の端を吊り上げてみせた。


「おっかないっていつも言うけどね、そう言って君一夏持ったじゃないか。じゃあ今度は冬までだ、そう難しいことじゃないだろう」

「冬の次だってあるんでしょう」

「明言は避けるよ。それこそ向こうの気分次第だもの」

「どうすればいいんですかそんなの」

「放っておけばいいんだよ」


 気のない様子で呟いて、叔父は小さなクッキーを齧る。ざくざくと軽やかな音を立ててから、そのまま熱の無い声音で続けた。


「何かしてくれって言ってこない限りはね、こっちだって関わる理由がない。わざわざ察してやる義理も技量もないんだから、薄目で眺めてるくらいでちょうどいいのさ」


 隣人が家の中で裸族だからって君に文句を言う権限はないだろうと言われて、不本意ながら俺は頷く。他人の趣味嗜好主義に口を出す権限が俺には無いのはその通りだとは思うが、このひとはもう少し例えを選べなかったのだろうかと胸がもやついた。


「……言ってきたらどうするんです。要望とか、そういうの」

「できる範囲で善処するぐらいが平和でいいんじゃないか、きっと。例えば映画チャンネルを一晩中点けておくとか、少し余分に月見団子を作っておくとか。そのくらいならさほど面倒でもないだろ」

「でも行き遭ったら踏まれたりするんでしょう。ロバとか」

「じゃあ遭わなければいいんだよ。遭いたがってるわけでもないんだから」


 そのための町内放送だよと言って、叔父は器用に菓子の空き包みを折り結んでいる。俺は今までの諸々の恐怖体験を思い出しては、何となく背筋が冷えるような気分になって、カップに残っていた珈琲を飲み干す。

 叔父はいつものようにのっぺりとして感情の表れ難い顔のまま、心持ち口先を尖らせるようにして、ゆっくりと続ける。


「危ないものは避ければいいし、見たらいけないのなら見なければいい。それくらいが単純でいいと思うんだ、私は」

「関わったら駄目なものに巻き込まれたらどうすればいいんですか」


 恐る恐る投げ掛けた問いに、叔父は少しだけ考えるような間を取ってから、


「仕方がない。諦めた方が気が楽だよ、そういうときは」

 

 空から鮫が降ってきたようなものだねと言って、叔父は口の端から八重歯を覗かせて笑った。

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