月と銀盆

 火曜日なので授業は四限で終わった。頑張れば十六時台の電車にも間に合うのだが、課題のために図書館に寄る必要があったのだ。そのまま諸々の作業や所用をこなしてから帰宅した結果、北猪池尾駅に着いたのは十八時を少し過ぎた頃だった。


 駅の正面口を抜ければ、数台分しか余裕のない駐車場に年季の入った軽トラが秋の薄闇にひっそりとしているのが見えた。ここにタクシー以外の車が止まっているのは珍しいなと眺めていると、


「お帰り甥っ子君。遅かったじゃんか」


 煙草を片手にへらへらと笑う、いつもよりは真っ当な白のワイシャツに何やらスカジャンじみた上着を羽織った男。軽トラの荷台に寄り掛かったまま軽薄な声をかけてきたちんぴらじみた人間に見覚えがあって、俺はとりあえず会釈を返した。


「どうしたんですか厚宮あつみやさん。お仕事は」

「公務員だもの。定時で終わりよ、一回家帰って車乗ってきたの」

「街に行くんですか。電車もう少し後ですよ」

なんも何も。高槻に言われてさ、君迎えに来たのよ、甥っ子君」


 とりあえず自転車荷台に載せてよと柔らかに命令されて、動機も理由も目的も何一つ見当がつかないまま、俺は言われるがままに駐輪場から自転車を運んで荷台に担ぎ上げる。厚宮さんは慣れた手つきで横倒したそれを固定して、すたすたと運転席の方へと歩いて行く。

 どうしたものかと眺めていると助手席のドアが開いて、


「言っておいて何だけどね、これ人さらいの手口だね?」

「知ってる人でもついてっちゃいけないとは習いますね。顔見知りの方がさらう意義もあるでしょうし」

「確認で電話する?」

「いいですよ」


 乗り込みながらシートベルトを締める。怪訝そうな視線を向ける厚宮さんに、俺は首を振ってから答える。


「そうなったらそれまでですから。ご自由にどうぞ」

「……そういうのはね、俺は好きだけど怒られるやつだからね。子供が自分を粗末にするんじゃないよ」


 それじゃあ大事に送らせてもらうよと、そう言って新しく点けたらしい煙草を吹かして、厚宮さんはにかりと歯を見せて笑った。


※  ※  ※


「叔父は何て言ってたんです」

「月見やるから来い、来るついでに甥っ子拾って来いってさ」

「俺が何時に帰るか知ってたんですか」

「時間割は聞いたけど、五時回っても来ないならもう六時のしかないだろって話になったからね。だから仕事上がってから一旦家帰って、自転車積む用の軽トラ親父から借りてさ、んで待ってた」

「ありがとうございます。お待たせして申し訳ありません、けど呑気が過ぎやしませんか」

「まあすれ違ったら俺が高槻んち行けばいいだけだし。人の飯が食えるならそんくらいはなあ」


 乗り込んだ車内は仄かに土埃の香りがして、それを掻き消すように煙草の匂いが立ち込めている。

 見慣れた通学路を軽トラを転がしながら、厚宮さんは窓を全開にして、遠慮なく煙草をふかしている。


「厚宮さん、やっぱり煙草吸うんですか」

「吸うね。やっぱりって?」

「前墓参りでライター持ってたじゃないですか。線香に火点けてた」

「よく覚えてんなあ。甥っ子君は煙草嫌い?」

「父も吸うので平気です。……叔父のとこに来てるとき、吸わないじゃないですか」

「一応あいつ片肺無いしね。禁煙したやつの前で吸うのも非道じゃん」

「叔父さん喫煙者だったんですか」

「昔な。手術して医者に禁煙しろって言われて、それからずっと禁煙」


 へえと間抜けな声が出た。厚宮さんは咥え煙草のまま、呟くように続ける。


「甘ったるい煙のやつだったんだよなあ……吸ってたやつが高槻ぐらいだったから、何のやつだか分かんねえまんまだな」

「何がです」

「銘柄。あいつが吸ってたやつ、匂いしか覚えてねえなと思っただけだよ」


 今更聞くのも間抜けな話だろとひとりごちるように話を結んだあたりで、黒木の板塀と門に囲われた一軒家――高槻の家であり、目下の俺の居候先が見えてきた。


 無闇に幅が狭いせいで車が通るのに難儀する門柱の間を厚宮さんは難なく抜けて、そのまま物置の前の砂利場に止める。礼を言って降りれば、遠くから呼び声がして、俺は辺りを見回す。


 夏以来久々に開け放たれた縁側。そこにぼんやりと腰掛けていた叔父が、ひどくおざなりに手を振ってみせた。


※  ※  ※


 秋の日はつるべ落としとは本で読んだ慣用句だったが、成程その通りだ。駅に着いた頃には薄赤く染まっていた空は既に黒く塗り潰されて、冷やりとした夜闇が肌身に染み渡る。夏のそれとは異なるうら淋しいような感覚に、何となく俺は上着を羽織り直す。


 そこそこの数の団子。どんと置かれた酒瓶。居間から持ち出したであろう炊飯器が縁側の左隅に置かれていて、どこから電源を取っているのかと見れば、延びたコードが客間の隅に繋がっているのが分かった。そうかコンセントがあそこにあったなと納得してから、わざわざ食卓から持ち運んできたことに妙な感心と驚きを覚えた。


「月見団子と白飯ってどうよ、取り合わせ的にさあ」

「腹が膨れるからいいだろう。そもそも食後に団子にすればこう、納まりがいいだろう。駅前の中華屋、胡麻団子食後に寄越すし」

「山海飯店? あそこ基本的に色々適当だろうに……いくつあんのこれ」

「三十いかないけど二十よりはある」


 夏の頃には西瓜を盛り付けていた銀色の長盆には、大皿が二枚ぎりぎりのサイズで置かている。その皿の上には卵焼きに唐揚げにウインナーといった分かり易いおかずがそれなりの量で盛られているのだ。だがそれに加えて、何か黄色い塊のようなものがどさりと盛られているのが恐ろしい。塊以外の食物が日常的に馴染みのあるもので揃えられている分だけ異様に見えて、俺は茶碗に飯をよそいながら恐る恐る問いを投げた。


「叔父さん。この……この黄色いの何ですか」

「菊。食べたことない?」

「盛り付けに問題があるんじゃねえの。水絞ったままの塊だろこれ、立派な食いもんが盛り付けひとつでここまで得体がしれなくなるっていうのはすげえな」


 もっともな言葉に頷きながら、俺は米をついだ茶碗を厚宮さんに渡す。縁側の端でぶらつかせていた足を大儀そうに持ち上げて胡坐をかいてから、厚宮さんは礼を言って茶碗を受け取った。

 団子の山と積まれた皿を挟んで、厚宮さんの隣りに座っている叔父にもいつもの茶碗を渡す。そうして俺は自分の茶碗を持って、叔父の横に座る。豆電球だけが灯った背後の客間と、その向こうの仏間は蛍光灯が煌煌と灯っていて、手元が分かる程度の薄明かりが縁側にも届いている。


「お月見だからね。あんまり明るいのはいけないだろう」


 妙に風流なことを言って、叔父は遠慮なく自分のコップに日本酒を注ぐ。厚宮さんがそれを羨ましそうに眺めて、早速唐揚げをかじっている。


「叔父さんこれ作ったんですか。量が結構ありますけど」

「午前中に買い物行ったんだよ。上新粉と菊買うついでにね、お惣菜でずらっと出てたからこれでいいやと思って」

「団子は作ったんですね」

「お湯入れて機械使えばすぐだよ。茹でるのは面白いからね」


 人形茹でたら人も呪えるねと返答に窮するような言葉が飛んできて、俺は曖昧に喉が詰まったような声で相槌を打つ。叔父は特に俺の返答に気分を悪くする様子もなく、取り皿に盛った菊にびたびたと醤油をかけ、二口ほどもそもそと食べてから酒をすいすいと呑んでいる。


「厚宮さんは呑めませんね。お帰りでしょう今日は」

「そうね火曜日だし、車で来ちゃってるからなあ……帰ったら呑むぞ畜生」

「泊まっていけばいいだろう。いつもは勝手に洋間で寝る癖に、妙に殊勝なことを言うな」

「着替えがねえんだよ、あと週の中日に酒盛りすると体が持たねえんだよ歳だから」

「節度を持って呑めばいいだけだろ、節制の程度の問題だ」


 菊酒は寿命が延びるぞと言って、叔父は最早空になったコップに手酌で酒を注ぎ足している。ふちきわまで注がれたそれを注意深く啜ってから、また菊を一口食べた。

 それは菊を肴に酒を呑んでいるだけで菊の酒では無いんじゃないだろうかとも思ったが、本人が満足しているなら別に口を出す必要も無いなと踏み止まる。


「意外なこと言うねお前。長生きする気が有ったのかよ」

「まさか、持ってる分だけ使えるんなら今更それ以上も欲しくない……どうせ月見で帳消しだろ。月を見てると桂男が招くんだから」

「桂男って誰ですか。月がどうこうなら兎じゃないんですか」

「甥っ子君意外と可愛いこと言うね。俺は蛙だって聞いたことならある」

「蛙はあれだろ、羽衣天女とかぐや姫の合わせ味噌みたいな話だ」


 出所は同じだよと言って、叔父は水でも呑むように酒を呷る。厚宮さんは怪訝そうな顔をして、卵焼きを一切れ口に運んだ。


「蛙はあれだ、嫦娥って女だよ。裏切って不死を独り占めして、月に逃げた。報いがあって、ひきになった。不老不死で、月の支配者で、蟇だ」

「辛いやつじゃないですか」

辛いなあまいねの……」


 唐揚げを齧りながら聞く話ではない。だが白米と揚げ物はうまい。食欲に逆らえずに、もそもそと食べ続ける俺と厚宮さんを見もせずに、叔父はぼんやり月を見上げたまま話を続ける。


「で、桂男の方だな。月には桂の樹が生えている。まあ、罪人なんだよ桂男は。何がしかを過って、月に流されて樹を伐っている」

「極寒地で樹を数えるお仕事みたいな話か、それ」

「伐ってもすぐに切り口が塞がるそうだから、賽の河原の石積いしつみみたいなものだろうね。お地蔵さまが来てくれないけど」

「救いの見込みが無いじゃないですか」

「そうだよ。難儀な話だ」


 叔父はふっと息を吐いて、唐揚げを無造作に飯の上に載せてそのままもそもそと食べ始める。そのまま見る見るうちに半分ほどを食べ切ったかと思うと、茶碗を置いて飲み込むように酒を流し込んでみせた。


「ええ――そうだね、つまり苦役だよ。おまけに無期だ。だからかどうかは知らないけど、桂男は人を招く」

「月を見てるとってさっき言ったやつか」

「そう。ぼんやり月を眺めていると、月の隈がじわじわと男の姿を象りはじめる。それでも飽きずに眺めていると、その影がゆるゆると手招きをしてみせる。すると痴れ者の寿命が縮まるって話だよ」


 死因の遠因が月見って面白いねとよく分からないことを言って、叔父はうっすらと笑みのようなものを浮かべる。俺と厚宮さんは揃って言葉に詰まってから、めいめい手元の飯や総菜に気を取られているような仕草をしてみせた。


 空になった飯茶碗に菊を盛って、乱暴に醤油をかけてちまちまとつつく。よく煮えているせいで香りや風情のようなものはひどく薄くなってしまっているが、それでも普段の青菜とは違う食感と風味があるような気がする。

 取った分を食べ切って、さてどうしたものかと茶碗を傍らに置く。秋の夜闇に潜む縁側は境界としては曖昧に滲んでいるばかりで、仏間から届く微かな電灯の明かりと月光の青さに、夜はより得体のしれない影を深めている。


 ふと向けた視線の先、俺の座っている場所からほんの少し離れた縁の下。

 そこからするりと手が伸びて、べたりと床板に張り付く。白々としたそれは柔らかそうな肉付きで、青黒い夜闇を掻き分けるようにして、ずるずると床上を這っている。


「――」


 声も出せずに、とりあえず左手で隣の叔父の袖を引っ張る。叔父は短い唸り声を上げて俺の方を見て、


「寒い? 夜風は冷えるんだよ、秋口でも」


 そんなどうでもいい答えが返ってきて、俺は思い切り首を振る。黙って右手でその恐ろしいものの方を指せば、叔父はひょいと背を倒して廊下の向こうを見た。


「ああ。厚宮、団子取ってくれるか」

「いくつ」

「三つでいいよ。小皿あるだろ、それに積んでくれ」


 叔父も厚宮さんも驚く様子もなく、何やらごそごそとしている気配があったかと思うと、叔父の手に団子の積まれた皿があった。


 そうしてひょいと皿から団子を取ったかと思うと、そのまま俺越しに、犬にでもやるように放り投げた。


 ぼたりと思ったより重たげな音を立てて団子は手のすぐ傍に落ちた。

 手は床板を二三度撫でるように這い回り、幾度目かの往復でその真白い指先に団子が触れたのが見えた。すいと卵を呑む蛇のように手は伸び上がって団子を掴み、そのままするすると縁の下へと引き戻っていく。


「叔父さん」

「お月見だからね。貰いに来るんだよ」

「手が、ずるずるって」

「手だけあれば用が足りるんじゃない? 身軽ってのは便利だよ」


 相変わらずちびちびと酒を呑んでいる叔父の肩でも揺すってやろうかと思ったところで、背後でべたりと柔らかな音がする。恐る恐る振り返れば再び縁の下から伸び上がった腕が床上に横たわっていて、俺は音を立てないように這いつくばって、じわじわと厚宮さんの方へと逃げ出す。

 叔父は俺がすっかり移動してしまってからのさばる腕に気がついたらしく、コップを傍らに置いてから先程と同じように団子を放る。そうしてまたコップを傾けて、飲み干してから深々と息をついた。


「厚宮さん」

「なあに。お代わり?」

「手がですね、縁側」

「あれびっくりするよな。俺んちは窓叩かれたけど」

「――い」


 うすら寒い秋の夜、真っ暗な窓がほたほたと叩かれる。ガラスにべっとりと張り付く生白い肌。そんな情景を想像して気が遠くなりかける。

 厚宮さんは俺の顔をじっと見てから、


「団子貰って気が済めばいなくなる。風物詩だと思やいいだろ」


 そう言って卵焼きも唐揚げもまばらにしか残っていない大皿から、最早幾つ目かも分からない卵焼きを選び取っていく。どうしてこの状況で平然と飲み食いが続けられるのかと思いながら、流石に自席に――這い出す腕の隣に戻る気にもならずに、俺はしょんぼりとうな垂れる。


「甥っ子君、床眺めるもんでもないだろ。月見なさいよ月」

「寿命が縮むじゃないですか」

「木板見つめて天寿全うしたってそれはそれでどうだ。長々と見なきゃいいだけだろ」


 田舎の月は明るいぞと屈託なく言われて、俺は渋々と顔を上げる。

 夜風は既に冷え冷えとして、ちりちりと騒々しいのにどこか密やかな虫の声が響く。


 庭に黒々と降る夜を従えて照る月は、青味を帯びた銀色。街灯どころか諸々の光源も少ない田舎の墨のような夜に、月は圧倒的な眩さと輝きを見せつけるのだ。


 あまりの偉容に、俺は呆けたように月を見る。染みのように翳る痘痕さえも彩りの一つでしかない。清かな虫の音と仄かな寂しさの押し寄せる夜。言葉も無く見上げる月はただ美しいのだ。


 背後でぺたり、と小さな音が聞こえた気がして、俺はもう一度月に意識を向ける。あの腕をまた見るくらいならば、無心に月を眺めて寿命を盗られた方がまだマシだ。

 叔父が団子を放ったのだろう、ぼたんと物の落ちる音がした。

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