呼ぶ声は変わらず
片付けを済ませてしまえば何もすることが無い、夕食後の空き時間。秋の夜に滲む物憂げな気配にやられて懐かしい思い出にでも浸ろうかとも考えたが、いかんせん未だ二十年にも満たない人生では振り返ってもそれほど昔のことではない。それでも少しだけ
高校生の頃は、秋になると各委員会が何らかの発作でも起こしたような勢いで読書週間やら運動週間やら奉仕週間やらの色んな企画が立っていたような記憶がある。そういった企画や計画が立案されるのは、恐らく秋という安定した気候の合間だからこその諸々なのだろうと納得できる面も今ならある。それと同時に、だからといってあれほどまでに一季節に集中させる必要は無かったのではないだろうかと考える。俺のようにどれもこれも適当にしか手を出さない人間はともかく、真面目だったり完璧主義の連中なんかは努力目標という名の課題の多さにきりきりしていたのが――本人たちの好きでやっていることに口を出すべきでもないのだけども――見ていてそれなりに痛々しかったのだ。
その種々の企画の中でも、読書週間にはちょっとした思い出がある。図書委員会に所属していた友人がいたのだが、委員会活動にて生徒による推薦文の作成をノルマとして課され、四苦八苦していた記憶だ。あれは年に本を数冊しか読まない上にそもそも読書が苦手なことが分かっていたのに、暇そうだからという理由で図書委員を志望したあいつが全面的に悪かったのだろう。だが、中途半端に真面目なせいかサボろうともせずに途方に暮れている様子があまりに哀れだったので、読む本の量だけは人並み程度であろう俺が推薦本に向いた本を見繕うのを手伝ったのだった。結果的に課題は無事に仕上がったのだが、その内容が友人の普段の行状的にひどく似合わないものだったらしく、本人が周りの本好きにその手の話題を振られる度に難儀したという苦情を寄せられて困惑した覚えがある。あれこそが恩を仇で返された実例なのかもしれないが、そんな経験があったところで別に自分の人生の糧になった覚えも何も無い。
そんなことを思い出しながら、秋どころか人生の大半を読書に費やしているせいで生活さえ危うくしがちなろくでなしの叔父を見る。叔父は夕食の片付けを終えた途端にガスレンジで雑に緑茶を沸騰させ、煮立った緑茶を小鍋から湯呑に注いだかと思うといつもの席にのそりと陣取ったのだ。そのままどこからともなく取り出した単行本を片手に黙々と読書に勤しんでいるのだけども、その何一つ憂いも悩みも無く悠然とした様子を眺めていると、何となく世の中の不条理を見るような気分になった。
居間のテレビは特に扇情的でも驚異的でもない静かなニュースを流しているばかりで、俺はそれを横目にグラスコップに汲んできた水に口を付ける。この季節でもそれなりに水道水は冷え切っていて、秋口からこの調子では冬になったらどうなってしまうのだろうと考えた。
カーテンの向こうからは微かに虫の声がしゃらしゃらと聞こえ、台所の小窓は夜闇にべったりと塗り潰されている。
「橋の下で拾われたことはあるかい」
「は――いや、あの……何ですか、俺は確か産院で産まれたはずです、けど」
唐突に投げ掛けられた訳の分からない問いを必死で飲み込んで、俺は叔父の方を向く。乱暴な問いの主は湯気のもうもうと立つ湯呑を片手に、視線を本から上げようともせずにぼそぼそと口を開く。
「本気で捨てるかどうかは知らないけどさ、あるだろ魔除けみたいなやつ。一回捨ててから拾い直して、これで体が強くなるみたいな」
「知らないですけど、あのそれは橋で捨てるんですか」
「私の読んだ例だと道だったね。橋の下に棄てたら危ないだろ、川は怖いぞ」
「じゃあさっきの質問何だったんですか。前提から成立しないでしょう」
「常套句でよくあるだろ。駄々を捏ねる子を
兄さんはよく蔵に入れられてたよと叔父が笑って、そうでしょうねと俺は頷く。実子の俺が言うのもどうかと思うが、叔父の兄――父の性根の悪さは中々のものだ。無能ならいっそ嫌なやつで話が済むのに、十分な能力と釣り合った自尊心があるから尚更手に負えない。成績優秀で文武両道なのにとんでもない天邪鬼だということは祖父母からも母からも聞かされ続けていたし、繰り返すが俺は実子なのだ。子供相手に鬼ごっこで負けまいと樹の上に登ったまま降りてこないような人だと言えば、大抵の人は何と返すべきか戸惑ってくれる。世間では実子の前で親を詰るのは良くないことだとされているが、親に明らかな非があるのだからどうしようもない。大人げどころか常識が無い。頭上の父を見上げて泣く俺を見て大笑いしていたその姿を、未だに鮮明に覚えている。
「俺の父さんもあれはほら、悪知恵が利いて性根が曲がってっていう鬼っ子じゃないですか。何か無いんですか前兆みたいなやつ。生まれた時から歯が生えてたとか」
「親知らずは全部生えてるはずだよ。旧人類だね」
生まれたときは病弱だったんじゃないかなあとにわかに信じがたいことを言って、叔父はすっと目を細める。そのまま椅子を引いた時のような音を立てて笑いながら、
「鬼っ子は火で炙るんだよ。兄さんは自分から囲炉裏に手を突っ込んだけど、化けの皮は剥がれなかったね。指は癒着しかけたけど」
ある種自分で証明を立てたんだねと言って、叔父は朗らかな笑みを浮かべる。投げ掛けられた物騒な言葉を処理するのに時間がかかって、俺は何度か目を瞑ってから、
「火炙りは、それは……それは警察案件じゃないですか」
「いやあれだよ、取り替え子的なやつへの対抗策なんだってさ。鬼なら炙れば山に帰るからね」
「鬼なら帰るでしょうね。じゃあ子どもならどうなるんです」
「そりゃ焼けるさ。人って耐火性能低いからね」
「ひどいことになりませんか」
「うん。火傷でね、背中ひっつれちゃってね。ご両親悪気の欠片もないから可哀想だったよ」
「過去形ですね」
「成人したらちゃんと鉈でかち割ったからね。仕方ないよ、人の子を疑って炙ったから鬼になったんだ」
「誰の話をしてるんですか。炙られた人が他にもいるんですか」
「
「人を火で炙るのはリスクが高いってことじゃないですか。判別法として採用し難いやつでしょう」
「そもそも火で炙るのだって向こうとの根比べだからね結局は。見分けられないから化けの皮を脱ぎ捨ててもらおうって了見な訳でさ……うまく化けるそうだよ鬼っ子。何せ生みの親が見分けられないんだから、これは判別はできない前提で考えた方がいいんじゃないだろうか」
「それじゃあ、もし入れ替わってたらどうすればいいんです」
「鬼でも人でも自分の子だろ。それだけのことだよ」
よく分からない会話の落ちがよく分からないうちについたようで、叔父はまた視線を本に戻す。俺はしばらく自分がどうするべきか分からなくなってからいつもの習慣のようにテレビに目を向けて、各地の天気が整然と並ぶ画面をぼんやりと眺める。いやにひらひらとした服のアナウンサーが『明日はお月見ですね』と楽し気に口にしたのを聞いて、そういえば月見には何かするのだろうかと叔父に問おうとした。
かららんと聞き慣れないベルの音が響き渡り、俺はぎくりとして椅子から立ち上がる。見れば出窓の傍に置かれた木棚、その上に据え付けられた電話機がびかびかと液晶を光らせて、着信を騒々しく告げていた。
「出るんじゃないよ」
ぼそりと気のない様子で呟かれた叔父の一言に、俺は身を固くする。またろくでもない何かしらなのだろうかと嫌な悪寒がざわりと背筋を伝って、ぶつぶつと二の腕に鳥肌が立つのが分かった。
電話は軽やかに着信音を響かせ、液晶は鮮やかな蛍色に光る。延々と鳴り続けるその様子に、俺は怯えながらも口を開く。
「あの……心当たりとかあるんですか。鳴り止まないじゃないですか」
「留守電設定してるんだけどね。ディスプレイ見てみなよ」
「大丈夫なんですか」
「もう夜だからね。頭の方は町まで出ないと大きい病院が無いから……少なくとも私と厚宮は見たことがあるから安心しなよ。爺さんも見たけど正気のまんまだったから大丈夫だろ」
お茶の熱さに目を潤ませながら、叔父はそっけなく言う。俺はいつでも距離を取れるように覚悟を決めて、軽やかに鳴り続ける電話に近づく。
一定の間隔でぺかぺかと光る数字キーから視線を移して、本体の上部の薄緑色の液晶ディスプレイを恐る恐る眺める。
『莨壹07>縺2溘>8』
明らかに有り得ない表記に、俺は息を呑む。そのままずるずると後退ってから、とうとう立っていられなくなり、そのまま床に座り込む。
叔父はぐるりと体をねじって、椅子の背もたれに肘を乗せた体勢のまま悠々と俺を見下ろしながら、意外そうに口を開く。
「お盆の頃から思ってはいたけどね、君ちょっと足腰弱ってはいないかい。いけないよ若い人間がそう手軽に腰を抜かしちゃあ」
「けしか――けしかけておいてよくそんなことが言えますねあんた」
「そこまで驚くとは思わなかったんだよ。数字と文字だろ。内容がちっとも読めないけど」
機種非対応みたいなものなんだろうかと呑気なことを言って、叔父は短い笑い声を上げる。座り込んだまま見上げるその顔には僅かな恐れも怯えも無く、本心からの喜色が透けて見えて、俺は再びざわりと鳥肌が立ったのが分かった。
その間もじりりりんと癇に障るベルの値は止まず、俺は電話機と叔父を交互に見る。その様子を愉快そうに眺めながら、叔父は呟くように言う。
「そもそもあの電話、あんな音じゃ鳴らないだろ。洋間の黒電話じゃあるまいし」
叔父の言葉に愕然とする。どうして気付かなかったのだろう。この鳴り響く着信音が今まで聞いたことのない種類の――映画で見るような古い黒電話のベル音だということを今更認識して、俺は現状起きていることが常軌を逸していることを確信する。
表示されるはずの無い番号。留守電に切り替わらない着信。本来鳴るはずのない音を立てて、こちらに呼びかけるものとは一体何なのだ。
床に座り込んだまま立てずにいる俺を
「いいんですか放っておいて」
「出るなって母さん――婆ちゃんに言いつけられたからね。私は出ないよ。いつもの通りならあと数分で止むだろうし」
「居留守……でしょう、こういう状況は、多分。留守電とか設定してないんですか」
「してるんだけどね。まあ、着信音の種類からして独自規格を押し通してるからさあ」
人に合わせるのがお嫌いなんだろうねと適当なことを
「あれだな君は、意外と親切というか気を使うというか、お手本みたいな人間をしたがるな」
「そんな大それた真似はしてませんよ。小心なんですよ」
「好きにさせておけばいいだろ……向こうの都合で掛けてきてるんだから、こっちの都合で受けないのも別に疚しかないだろうに」
禍福が釣り合うのはお話のなかばかりだよと言って、叔父は口の端から八重歯を覗かせる。俺は上手な返答を見つけられず、椅子の足を眺めたまま黙り込む。
秋の小夜。うすら寒い夜闇の静けさを掻き回すように、電話機は執拗に鳴り続ける。虫でも掠めたのか天井の蛍光灯が僅かに翳ったかと思えば、すぐに元の明るさを取り戻した。
「……恩なんですか、仇なんですか」
「うん?」
「恨みとか心残りとか、そういうやつですよ。掛かってくるってことは何かしらあるんでしょう。違いますか」
俺の理不尽な問いに叔父は少し眉を寄せる。骨張った指でとんとんと肩口を二三度叩いてから、
「あっちにはあるかもしれない。けど私にはない。だから断らないけど関わらない」
諦めるまで放っておくのさと言って、叔父はうっすらと笑顔めいた表情を作る。相当にたちの悪いことを言っているような気がしてまじまじとその顔を眺めるが、不自然なほどに悪意も謝意も見当たらない、のっぺりとした表情はいつもと変わらないままだ。俺は何となく毒気を抜かれたようになって、ぼんやりとその無闇に黒々とした目を見返す。叔父はいつものようにどこか茫洋として焦点の合わないような視線を向けたまま、
「とりあえずだね、風呂掃除でもしてきなさい。洗い終わったらお湯張って、そうしたら君が一番風呂にすればいい」
上がる頃には静かになっているよと、叔父は生気の薄い双眸を細めてみせる。俺はこれ以上色んなことを考えるのが面倒になって、とりあえずは出された指示を全うしようとのろのろと立ち上がる。
背を向けて壁際の給湯器のスイッチを入れれば、鳴り渡るベルの音にぶぅんと機械の低く唸る音が混ざった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます