うしろの多面体
午後六時の小教室、窓の外は既に黒々とした秋の夜に満ちている。室内は白々とした電灯で満遍なく照らされ、壇上で淡々と活動を報告するサークル長は時折こちらを見回しながらも手元の原稿から目を離さず、白板には開会前に書記の手によって意外と端正な字で書きつけられた議題がずらりと並んでいる。
夏季休業が開けて以来久々に顔を出した天文研究会サークルの例会は、案の定何をやっているのかが四月以降殆ど出席しなかった俺にはとんと分からない。かといって開き直って居眠りを決め込むほどの度胸も無い俺には無く、結果ただ滞りなく流れていく報告と呼びかけを机に座ってぼんやりと聞いているばかりだった。
そもそも所属サークルに天文研究会を選んだ理由自体が成り行きとしか言いようがないのだ。必修の授業で隣り合ってから何となく付き合いの始まった
例会前に会場の教室に入室したときの一瞬戸惑ったような空気感を思い出して、俺はいたたまれないような気分になる。すぐに後ろから現れた工藤のおかげで少なくともサークル部員の一人だろうなと認識してもらえたのは幸いだった。工藤は月一の例会にもまめに顔を出しているらしく、既に色んな連中と顔馴染みになっているようで、それの連れだと了解されることで俺も多少の居心地の悪さはあれど、当然のような顔をしてこの久方ぶりのサークル活動に参加することができたのだ。
開会の挨拶の後、前方からレジュメが配られる。内容はあまり頭に入って来ないが、どうやら七・八月中の天文観測についての報告らしい。教卓について順調に司会を続ける会長はじっと手元の資料に目を向けていて、時折冗談のような口調で投げ掛けられる質疑に発表者は淀みなく答えている。
発表と報告に緩やかな司会進行、研究系の学生サークルとしては至って日常的な情景だ。レジュメを読み上げる発表者も時計を気にした様子の司会も、何一つ変わったところはない。
その背後でふらふらと動き回る若い女性の姿にだけ説明がどうにも付けられずに、俺は九月の夜風が吹きこむ教室の中で、冷や汗で背中を濡らしている。
発表者どころか会長にも目もくれず、黒板の前を往復している。その女の行動は明らかに異様だろう。容貌は特筆すべきところが無い。背は高い方だろう、手を伸ばせば白板の一番上にも楽に手が届きそうだ。服装もいたって普通の若い女性が着るような作りで、女が動き回るたびに濃い緑色の袖がふわりと広がり、ひらひらした生地が軽やかに波打つ。肩口で切り揃えられた髪は茶色に染められていて、彼女が動くたびにゆらりと揺れる。
見覚えが無いのは仕方がない。何せ俺は四月に入会して以来の幽霊部員だ。入部してからというもの食事会にも行事にもロクに参加せず、部室を食堂代わりにする以外は殆ど顔を出していなかったため、先輩同級を問わずどいつもこいつも顔も名前もよく覚えていないのだ。
だから彼女が誰か分からないのは仕方がない。そこは考えるだけ無駄だろう。
問題なのは、どうして彼女を皆放っておいているのかということだ。例会の――何がしかの会合の進行中にその背後を自由にうろつき回る。普通に考えて尋常な行いではないだろう。
俺の右隣に座っている工藤を見れば、のうのうと目を閉じ居眠りをしている始末で、二三度足を蹴飛ばしても起きる気配がない。仕方が無いので左側の席に――恐らく先輩だろう女性の方に視線を向ける。例会の始まる直前に悠々と入室してきた彼女は適当に会長やあたりの顔見知りらしい人々に声をかけてから、どういう訳か真っ直ぐに俺の隣へと歩いてきてのそりと座った。どなたですかと問おうとした途端に例会が始まってしまったので、名前も学年も聞けずじまいのままだ。
隣にいるのも謎の女だが、少なくとも入室の際に他の連中が彼女を認識していたのを俺は目撃している。それに最低限この女性は研究報告をきちんと座って聞いているのだから、あの黒板の前を不自然に歩き回っている女性と同じに扱うのはいくら何でも失礼だろう。
女は一向に落ち着く様子を見せず、小走りに駆け出したかと思えば司会の真横でびたりと立ち止まり、ぐるりと周囲を
触らぬ神に祟りなしというのはよく分かる。妙なものを見たときに、自分の技量と立ち位置を弁えておくのは大事なことだ。マンション住まいのときに泣きじゃくる女に遭遇したときも、学生時代に黄色い女が電車を逆走させろと要求するのを目撃したときも――その他何かしら恐ろしいものを見る度に、それが自分の管轄で無いのならば、俺は目を逸らしてやり過ごしてきた。俺は小市民の一般市民、かつ人並み以上に臆病な普通の学生なのだと身の程をきちんとわきまえている。事態の収拾に積極的に臨めるような意欲も能力も持ち合わせてはいないのだ。
だからあの手の何かを見ないふりをすることは慣れている。他の連中もそうなのかもしれない。
だが、一般の小教室が一杯になるほどのサークル員がいるこの状況。ただの一人も注意を向ける様子も、不審なものにざわめく気配すらないというのは、それ自体が異様なのではないだろうか。
とりあえず知り合いの意見を聞こうと、未だ居眠りを決め込む隣席の知人の方を向き、そのまま工藤の肩を乱暴に揺する。肩口を握る手に思い切り力を籠めれば、ぎっと小さな呻き声が上がった。
「痛……何、
「起きてくれ。そんで白板の方を見てくれ」
「え」
どうしたのその顔とこちらを怪訝そうに見てから、工藤は素直に教室の前方を向く。俺もそれに倣うように、恐る恐る顔を正面に向ける。
大きく見開かれた目、蛍光灯に照らされて薄青くさえ見える肌、何かを言いかけるように僅かに開いた口、血の気の無い頬に張り付いた茶色の髪。
視界一杯に突きつけられたそれがあの女の顔だと認識して、俺は勢いよく椅子からなだれ落ちた。
「えっ……どうしたそこの一年生、具合悪い? 熱中症?」
「九月に熱中症は無いでしょうよ会長。そもそも体調不良で二人一気に倒れるのはおかしいでしょうに」
「お前何かやったの
「まさか。こっちの人とは初対面ですよ……新入生、工藤、大丈夫?」
隣席の先輩らしい女性が、おざなりな心配の言葉と共にぼんやりとした視線をこちらに向けている。教室中の注目をこちらに集めているのが分かり、羞恥と恐怖の中、恐る恐る俺は机の下で周囲を見回す。すぐ隣に同じようにひどく驚いた表情の工藤が倒れ込んでいて、やはり俺を見てがくがくとしきりに頷いてみせた。
とりあえず這い上がり、俺は何とか椅子に座り直す。周囲の人間の困惑と好奇の入り混じった視線に申し訳なくなりながら、何でも無いんですとできるだけ申し訳なく見えるよう主張してみせる。すぐに工藤も席上に伸び上がってきて、
「何でもないんです、あの、俺が居眠りしてたので、高槻が起こしてくれて……びっくりして引っ張っちゃって……はい……」
しどろもどろの工藤の弁解に、一呼吸置いてからくすくすと笑いやからかいの言葉めいたものが聞こえ始める。工藤がへらへらと笑って周囲に頭を下げてみせると、会長が少しだけ渋い顔をして、
「居眠りはね、静かにやってくれないとびっくりするからね。気を付けてね工藤君に高槻君」
そう言ってまた何事も無かったかのように例会の進行に戻り、たちまち周囲も俺たちへの興味を失う。俺はどくどくとうるさく脈打つ心臓を宥めながら、流石に白板の方を向く気にならず、手元のレジュメを熟読しようと試みた。
※ ※ ※
例会の終わった帰り道、時刻は既に七時を回っている。何とは無しに三人で連れ立って、俺たちは帰路へついた。三人の面子の内訳は、俺と、工藤と、隣席に座っていた女性――益井先輩という、つまり先程の席で隣り合った連中がそのまま一緒になっている具合だった。
学校の正門を抜けてから数歩も行かないうちに益井先輩は俺の方を見て、
「さっきは何に驚いたの?」
話したくないなら別に構わないよと本当にどうでもよさそうな口調で聞かれて、俺と工藤は顔を見合わせた。
「そもそも俺と工藤の驚いた理由が一緒かどうかから分からないんですけど」
「同じタイミングだったからたぶん一緒じゃないかなあ……高槻も先輩も、俺がこれ喋ったら気が狂ったって思いません?」
「二人揃って気が狂ったの? じゃあ多数決やったら私の負けだもの」
好きにすればいいんじゃないかなと投げやりな調子の返答があって、俺はもう一度工藤と目を合わせる。工藤は少しだけ困ったように眉根を寄せてから、
「俺はですねえ、高槻に小突かれて目が覚めたら苔みたいな色のおっさんの顔が至近距離にあったんですよ。心臓が変な動き方をした」
「うろうろしてる女がいるな、と思って眺めてたんですけど……流石に皆が言及しなさ過ぎて、工藤にも確認を取ろうと視線を外してからまた正面を向いたら女性の顔が目の前にありました。怖かったです」
「うろうろ……? 何それ怖いこというじゃんお前」
「例会始まったときからずっと会長の後ろをふらふらしてたんだよ」
「どうして先に言わねえの?」
「そういう趣味の人だってみんな了解済みかもしれないって思ったんだ。俺殆ど顔出してないから、俺が知らないだけだと」
「そういう趣味の人はあんまり見たことないし、学校でそういう趣味の人は色々難しいんじゃねえかな……」
先輩は特段馬鹿にした様子も興味を持つ風でもない顔をして、俺と工藤の会話を黙って聞いていた。同じものの話をしている筈なのに、工藤が何故か俺に対して怯えたような視線を向けるのがどうにも腑に落ちず、俺は益井先輩に話を振る。
「先輩はどうだったんですか。ずっと起きて、発表聞いてたじゃないですか」
「そうだね。ひらひらはしていたね」
「え」
工藤が薄闇の中でも分かるほどに顔色を青くして、俺の方をじっと見る。俺も先輩の表情の薄い顔を見ながら、次の言葉を待つ。
先輩は街灯を見上げて、眩しそうに目を細めながら、
「ちょっと大きめの蛾がね、白板のあたりをひらひらしてた。で、こっちに飛んできた途端、君たちがなだれた。そこから先は見失ったけど」
蛾って何月が旬なんだろうねと意図は掴めるが表現に難がある類の言葉を呟いて、先輩はぐるりとこちらを振り向く。黒々とした目はただこちらを見ているばかりで、俺と工藤は返すべき言葉を見つけられずに黙って歩を進める。
何かを見た、それはこの三人で共通している。俺は緑の女性を、工藤は顔色の悪い男性を、先輩は蛾を。それぞれ見たものが噛み合わないが、それでも微妙に共通項があるようにも思えるのがかえって気味が悪い。同じ椅子に掛けて、同じ会合に出て、同じものを見ていたのだろうに、見え方が異なるというのは、ものすごく居心地が悪い。
別個体である以上、思考や倫理に美学などの感性において齟齬が出るのは当然のことだと理解している。思考回路にブレがあるからこそ、個人でいる意味があるだろう。だが『何を見たか?』という単純な問いにおいて、視覚という原始的かつ多くは共通する規格から生み出される認識でさえ他者と共有できないことがどれほど異様なことなのかと考えて、俺は内臓をこね回されるような悪寒を覚える。
果たしてどれが世間的に正しいのか。俺は正しく世界を認識できているのか。俺が見て信じていたものが果たしてどれほど周囲のそれぞれと乖離していたのか。妄想めいた考えがぐるぐると回るほどに、俺はじりじりと内側から羞恥とも恐怖ともつかない感覚に焼かれていく。
「高槻くん」
未だ聞き慣れない女性の声に、俺はぎくりと足の動かし方を間違えてよろめく。工藤に肩を掴まれながら、俺は声の主の方へ視線を向ける。
「何――何ですか、先輩」
「どうでもいいことをね、真剣に考えちゃいけないよ。百足になるから」
今日はちゃんと帰っておいしいご飯を食べなさいと言い切って、先輩は少しだけ目を細めてみせた。その様子に何故かとても懐かしいような安堵を覚えて、俺はその目をじっと見返す。
「は」
「百足」
「生死に関わらないことなんかね、考えるだけ甲斐がないから……見たいものを見ればいいでしょうに。好きにすればいい」
単位と飯と金だけ気を付けてれば大学生は死なないよと呟くように宣って、先輩はぴたりと足を止める。気付けば既に駅前に到達していて、先輩は有料駐車場の近くのベンチにちんまりと座った。
「迎えが来るからね、ここでさよなら。また次の例会で」
そう言ってひらひらと振られた手に先程の女を思い出して、俺は一礼して慌てて駅舎へ向かう。忙しい工藤の挨拶と追ってくる気配を背後に感じながら、俺は一心不乱に明るい駅構内へと駆け込んだ。
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