呼ばへども応えず

 底冷えのする夜闇と清かな虫の音。ほの明るい月光が閉じた障子に射して、窓辺に置かれている筈の揺り椅子が見慣れない形の影を投げかけている。


 夏にはあれほど苦しめられた連日の熱帯夜も、九月にもなればすっかり失せて、ともすれば予想外の冷え込みに真夜中に目が覚めることがあるくらいだ。おかげで地元にいた頃では信じられないことだが、この季節に薄手とはいえ最早毛布を掛けている。こちらでは常のことなのだろうが、実家ではさすがに十一月に入らなければ毛布の出番はなかったように思う。そうして寒さが厳しいからと言って、別段夏の暑さにさほどの手加減がある訳でもない。日中ならば猛暑に焼かれ、夜にもなれば熱帯夜のくせに山から吹きつける冷風やませで、油断をするとすぐに体調を崩す。寒暖差に容赦がない。そのくせ平穏な春秋は寿命が短い。結果厳しい夏と冬が季節の大半を占めるのだから、つくづくこの土地は人間が住むのに向いていないのだろう。

 本日は授業も予定も何もない土曜日であったので、本来なら夜更かしをしても問題は無いのだ。だが明日はおはぎを作ってから墓参りに行くと夕食の際に叔父がいつもの適当な調子で言ったので、居候の大学生の身としては手伝わない訳にもいかないだろう。食べないのも遊べないのもそれほど辛いとは思わないが、眠れないのが俺は一番嫌だ。睡眠時間を削るくらいなら寿命や娯楽を削った方がマシだ。だから早起きは嫌いだ。結果、十分な睡眠時間と無理のない朝の目覚めを両立するために、それなりに早めに床に就くことになったのだ。

 夜気に冷え切った布団の中では自分の体温が妙に浮き上がっているように思えて、また布団が被り切らない首筋がひやひやとする。電灯を消した部屋の闇にも目が馴れてしまって、うっすらと目を開ければざらざらとした襖や小箪笥の上に置かれている電話機や動く気配のない皿時計などがぼんやり浮き上がって見える。障子に射す月光は部屋が暗い分だけ冴え冴えとして、月明りというのは闇から見ればこれほどまでに明るいものなのだなと思った。


 眠らなければならない。さもないと明日が辛くなる。そう焦るほどに益体もない雑念ばかりがぐるぐると頭を巡って、無理矢理に閉じた目はちかちかと瞼の裏の闇を追うばかりだ。

 別に眠れずに寝坊したところで、きっと問題にはならないのだ。叔父のことだから俺が寝こけていようが特に不平も言わずに片付けるべき問題を処理するだろう――あの人は本当に片付けと人間らしい振る舞い以外はそれなり程度にはこなすのだ――けれど、俺は大学への通学のために住居を提供してもらっているという叔父と父の厚意と配慮に甘える立場だ。そうしてその厚意を受ける対価として、父から言い付かった役目が『その見返りに叔父の手助けをする』である以上、俺はできるだけ彼の役に立たなければならないのだ。それができなければ俺がここにいる理由が無くなってしまう。役立たずに居場所は無いのだと俺は教わっている。


 その論理に抵抗はない。だからこそ、そうしてそれがその通りだと納得しているからこそ、俺は、


 悩むだけ甲斐の無い思考の堂々巡りに疲れて、俺は深々と溜息をついてから寝返りを打つ。障子の方を向いたせいだろう、瞼の闇にうっすらと光が射す。その眩しさがちらちらと視界にまとわりついて、とうとう俺は眠るのを諦めて目を開ける。


 すっかり開いた障子。向こうの広縁は窓から覗く歪に丸い月に青々と照らされ、木床は射し込む月光に浸されて光る。

 その月光を一身に背負うように座り込んで、妹がこちらを見ていた。


「……どうした。眠れないのか」


 妹は僅かに俯く。さらさらと肩口で揃えられた髪が揺れて、月光を滲ませて艶々と光る。


「怖いのか。まるで子供じゃないか」


 びくりと妹が身を竦める。白い手がするりと頬に寄せられて、柔らかそうな指が唇に触れているのが見えた。


「怖くても眠らないといけない。夜だからね、朝が来てしまう」


 目線を逸らす妹を見る程に、胸がちりちりと痛む。憐れむような愛おしいような恐ろしいような悦ばしいような、ぐるぐると回る感情が湧き上がる。それらがどうにか顔に出ないように注意しながら、俺はできる限りに優しい声を出す。


「こちらにおいで。今夜だけだ。兄さんが側にいれば、何かあったらすぐに来てやれるだろう」


 ぱ、と悲しむように明後日に向けられていた顔がこちらを捕らえて、ふわりとはにかむような表情を作る。布団をめくってみせれば妹はするすると畳を這い寄って、すぐに俺の懐に潜り込んだ。


「随分冷えてるじゃないか。ずっとそこに居たのか」


 答えずに妹は猫の子のようにこちらに身をすり寄せて、二三度足先をばたつかせてから静かになる。流れた髪がさらさらと布団に擦れて、いやに軽やかな音を立てた。


「夜はおっかないから、せめて布団の中に居れば安心するだろ。暖かいし、ちゃんと領分が分かれる」


 妹がぐずるようにゆるゆると頭を振り、その度に仄かな、自分のものではない香りが夜に混ざる。


「そう怯えなくたってさ、ちゃんと眠れば朝が来るし……それまで兄さんがいてやるから」


 するりとつながれた手がひやりと冷たい。抱きかかえた肩はあまりにも華奢だ。なだめようと撫でた背中にはところどころ硬い骨の感触がある。また痩せたのか、と不憫に思う。

 ふうと妹はこちらを見上げて、俺は意図せずして間近でそのかおを眺めることになる。膚色はだいろは夜闇にもぼうと浮き上がるほどに白々として、じっとこちらを見る目は昏々と黒い。桜色の唇は月光と毛布の闇にいくらかかげって、血の気が退いてしまっているように見える。

 寒いのだろうかと抱き寄せれば、掴まれていた片手がもう一度力を込めて握られる。その強さに僅か痛みを覚えた瞬間、ぞろりと背筋に戦慄が走り、じわじわと内臓に浮足立つような焦燥感が湧き上がる。


 この家には俺と叔父しか住んでいない。そもそも、俺に妹なんてものはいないのだ。


 縋りつく妹と目が合う。瞬間こちらを見る目がにんまりと三日月のように細まり、


※   ※   ※


 がつりと両肩を掴むてのひらの感触。俺は声も出せずにもんどりうってそれを振りほどき、布団から勢いよく飛び出してそのまま畳の上に倒れ込んだ。


「急にそう動くと寝違えるよ」


 それに畳は擦れると痛いんじゃないかと呟くように言って、その掌の持ち主は先程まで俺の頭が乗せられていた枕の傍らに正座しながら、こちらに怪訝そうな白い顔を向けた。


「お――おじさん、あの」

「うるさいんだもの。延々とうなされてたら私だってびっくりするだろう」


 明かり点けていいかいと聞かれて、がくがくと頷けば一際不思議そうな顔をしたまま叔父は電灯の紐を引く。一瞬の間を置いて室内は明るくなり、俺は少し目が眩んだ。


 部屋の真ん中に敷かれたままの布団。派手にめくれ上がった薄手の毛布。蕎麦殻枕の横には眠たそうな顔の叔父が座り込んでいて、じろじろとこちらを見ている。


「どうしたの。腹痛? 薬なら下にあるけど要るかい」

「いや……あの、妹が、廊下に……」

「は?」


 君ひとりっ子だろうと至極当然のように言われて、俺は素直に頷く。叔父はしばらく俺の顔と盛大に蹴り飛ばされた毛布とを交互に見てから、


「廊下ってどこのだい」

「そこの、揺り椅子があるところです。そこが、開いてて」

「開いてないぞ」


 叔父の言葉に振り返れば、背後の障子はきっちりと閉められている。電灯に照らされるばかりのそれに、怪しいものの残滓は僅かにさえ見当たらない。

 振り返ったまま動けなくなった俺の横をのそのそと歩いて、叔父は無造作に障子に手を掛ける。あまりのことに俺は咄嗟に固く目を瞑った。


「もう少しで仏滅だから見事なもんだな……何もいないじゃないか」

「不吉な枕詞を付けたのは何故なんですか」

「仏滅名月って言うだろ。もうすぐ月見なんだよ」


 ほらほとんど満月だという叔父の声に、俺は恐る恐る目を開ける。

 容赦なく全開にされた障子の向こう、夜闇に黒々と染まった窓ガラスの彼方。濃紺の夜空を従えて、銀色の月が清かな光を滴らせていた。


「田舎だと街灯がほぼ無いからなあ。眩しくって仕方がない。寒いからことに冴える」

「さっきそこに、妹が――いや俺妹いないんですけど、けど妹がいるって、そう、思って……」

「妹がいてどうしたの。何なら私だって叔父だから君の父さんの弟だよ」

「そういうことはあんまり関係がないんですけど、ええとですね」


 まだどきどきとする胸を押さえながら――先程起きたことをできる限り詳細に思い出さないようにしながら――最低限何が起きたかだけをぽつぽつと伝える。叔父は時々両目を瞑ったり毛布を弄ったりといまいち信用のならない動きをしながらも、一通り俺の話を黙って聞いてから、


「夢じゃないのか」


 そう身も蓋も無いことを言って、くわあと堪える気の無い大あくびをしてみせた。


「ああ、まあ、きっとそうなんでしょうけど……じゃあ俺うなされて寝ぼけて布団蹴っ飛ばしたんですか」

「怖い夢でうなされるのなんてよくあることだよ。君のお父さんは黄色にうなされて親指が腱鞘炎になったよ」

「黄色に」

「黄色が怖かったんだってさ。そんでどうしてか知らないけど自分の胸板で指捩じって腱鞘炎。器用なことをするよねえ」


 あの時もうるさかったなあと叔父が眉を顰めて、俺は何と返すべきか分からずに曖昧に頷いたように頭を揺らす。叔父は俺の反応を認識すらしていないようで、そのまま唐突に背を向けて隣室へと戻ろうとした。


「ちょっとどこ行くんですか」

「寝床だよ。寝るんだよ。寝てたんだから寝直すんだよ」

「俺を置いて行くんですか。あんなにうなされたのに」

「隣の部屋にいるからいいだろう。ふすま隔ててほぼ同室だろ四捨五入すれば」

「何を四捨五入するんですか。その死んでないならかすり傷みたいな思考はどうなんですか」

「さっきまで寝てたんだろ、いきなり随分喋るなあ……何だ、一人じゃ寝られないのか」


 子供じゃないかと呟くように言われて、何となく聞き覚えのある語句にぞわりと鳥肌が立つ。恐る恐る布団の方に目線を向けるが、蹴り散らかされた寝具には電灯の濃い黄色の光が滲んでいるばかりで、先程の恐怖の欠片すら見当たらない。ならば確かにあれは夢だったのだろうし、俺の現状は完全に駄々をこねている子供のそれだ。叔父の言い分に珍しく非が無い。不服に思う余地すらない。落ち度があるのは俺ばかりだ。

 そんなことを考えて、さすがに居たたまれなくなって叔父から視線を逸らして俯く。余程情けない顔をしていたのだろうか、叔父は俺の顔をまじまじと見てから背後の方へ視線を向けて、がりがりと無駄に量のある髪を掻いてから長い溜息をついた。


「じゃあ布団持って来なさい。窓際と扉側、どちらに敷くか選ばせてやるから私の分も敷き直しなさい。重いんだよ布団って」

「いいんですか」

「だって君このままだと徹夜するだろ。困らないけど、一応明日人手があると便利なんだよ」


 別に部屋に何が居ても私は平気だからねと微妙に不穏なことを言い置いて、叔父は今度こそ隣室へ戻っていく。俺はとりあえず寝具を運ぼうと一式を雑に畳んで、隣室へ運び込むことにする。


 布団を抱えて立ち上がった瞬間、背筋にざわりと視線を感じた気がした。悍ましい、得体も意図も明らかではない何かがじっと月光に紛れてこちらを見ているような妄想が浮かんで、振り返ろうか躊躇する。さっき障子を開け放したまま閉めていない筈だ。あの清かに煌煌と照る月光、あの眩さに神経が過敏になっているだけだろうと、俺の中の理性的な部分が理屈を囁く。なにせさっきのは夢だったのだ。だから、廊下にだって何もいなかったのだ。

 そうだ、と思い立つ。開いた障子を閉めなければならない。寒気が部屋に入り込んでしまう。夜が部屋に入り込んでしまう。領域がぼやけてしまう。

 そこまで考えてとにかく布団を運び込んだ後にしようと隣室に踏み入れば、布団の上にだらしなく胡坐を掻いた叔父がこちらを見上げて、


「布団敷いたらそのまま寝なさい」

「俺の部屋電気消してないです」

「私がやる。障子も閉めて無いだろう」

「そうですけどいいですよ。俺がやりますよ」

「駄目だ」


 のそりと立った叔父が俺のすぐ傍に来て、


「今度見たら夢じゃ済まないぞ」


 そう言って俺の肩を軽く退かすように押して、叔父が部屋を出て行く。叔父の言葉を反芻しようとして、咄嗟に思考を散らす。いつものうわ言の類だ。真面目に考えるだけキリがない。考えたところで夜は未だ明けないし、俺は眠らなければならない。考えたところでどうにもならないものは考えないに限る。そうして夜に考えたことは、大体ろくなことではないのだ。

 俺は今度こそ振り返らずに、ぎくしゃくと布団の用意を始めた。

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