手のひら返しの午後
振り返んないほうがいいぞと目の前の
収容可能人数と来場客数がまったく釣り合っていないせいで、昼になると冗談のように混み合う学生食堂。それも人入りのピークを過ぎればがらんとして、四限目の終わるころになればほぼ誰もいない。そもそも食事の提供自体は午後の二時で終わりなのだから当然といえば当然だろう。だが、食堂の営業時間以降も飲食スペースとしては夕方の六時までは解放されている。本日の時間割の最後にあたる授業が同じである俺と工藤は、いつものように黙々と必修授業を終え、そのまま帰宅するのもなんとなく躊躇われての寄り道と相成ったのだ。閑散とした食堂で、俺は構内のコンビニで調達した昼食とも夕食とも間食ともつかない鮭おにぎりをペットボトルのお茶をお供にもそもそと食べていたのだ。そんな何をしていると明確に言語化しにくい状況で、俺の正面の席でかき氷とポテトフライという温度差の激しいものを齧りながら馬鹿話をしていた友人の工藤が、不意に俺に視線を向けてそんなことを言ったのだった。
「……何でそんなこと言うの、お前」
「赤信号に突っ込んでいこうとする人がいたら止めるでしょ、知り合いならね。そんでどうするの来週。お前中々顔出さないからサークルの先輩たちあんまり覚えてないぞ、お前のこと」
「来週は参加できる予定だけど――え、この話を続けるの?止めただけでそれ以降は何ともないの?」
何がどうなってるのか解説してくれと聞くと、ざくざくとかき氷の白いところをシロップに突き込みながら、俺の顔をむやみにじっと見てから工藤は口を開いた。
「掴まれてるよね、左肩。シワ寄っちゃってるものシャツに」
「それは俺も分かる。ガッてやられてるもの今」
最初こそ軽く置かれていた手はどういう訳かじわじわと力を込めてきていて、いうなれば逃げようとする相手を躊躇いながら引き留めようとする程度の強さだろう。無理矢理にこちらを向かせようとはしないが無視もできないような力加減だ。背後にも確実に何かがいる気配がある。ほんの少し息のし辛いような、日差しに影の混ざるような違和感だ。ここまでされて振り返らないのは中々難しいのだろう。だが目の前の人間の制止もあって、俺はそれが何者かを確認することすらできないまま、とりあえず自由になる右手でおにぎりを齧っている。コンビニの鮭おにぎりは通常の焼き鮭や家庭での瓶詰めのそれを使用したものとはまた違う味わいがあるなと場にそぐわないことを考えて、口に出さずに思うに留める。脂と塩が強いせいで、分かり易く旨味とカロリーに塩分の存在を主張してくれるのだ。乱暴な分風味や何やで悩まずに済む。単純に殴りつけられるような野蛮な味の方が、好悪の対応が決めやすい。俺は選択肢の量が少ない方が好ましい種類の人間だ。
そうして気を紛らわせている間も容赦なく肩に置かれた手のひらは存在感と主張を増して、揺さぶりこそしないが指先の力加減に緩急をつけて、俺の振り向くのを待っているような真似をしている。ぐっと力が強まる度に鎖骨に妙な圧力がかかって、鈍い痛みが僅かに生まれる。
「これ俺の知り合いなんじゃないの。力強いもの」
「
「いや――え、何本あるのこの人」
「数えたくない。それ以前にどう勘定すべきか分かんないんだ」
「お前何が見えてるの」
「さあ。幻覚でもいいけどね、肩掴まれてるの俺じゃないし」
そっけない物言いに一瞬腹を立てそうになって、周囲の喧騒と状況を鑑みてから俺は深呼吸する。工藤に対して叫んでも暴れても怒鳴っても、恐らく何も解決しない。俺の肩をがっしりと掴んでいる何者かと目の前でかき氷のカップを逆さまにしてそこに溜まったシロップを啜っている工藤には関連性が無い。この状況に気付いたのが工藤だというだけで、この同学科同学年の常で必修授業が被りがちなこの友人と行動を共にしたせいでこんな具合に肩を捕まえられているという訳では決してないだろう。血も繋がらず縁もまだ薄い、友人と知人の合間のような関係なのに、黙って逃げずに教えてくれただけまだマシだろう。そう考えて、俺はペットボトルの緑茶に口を付ける。わざとらしいほどに香る緑茶の風味に少しだけ辟易しながら、一口を飲み下す。
その間も肩口に縋りつく指先にぎりぎりと力は籠り、ざらりと押さえつけられた衣服が皮膚に擦れる。明らかに何かしらの感情が滲むようなやり方で肩口を掴まれているのに、奇妙なことに肩の感触以外は何一つ分からないのだ。真後ろに立っているであろう手の持ち主の息遣いも体温も見えないのに、覆いかぶさるようにどろりとした存在感だけがある。ただ取り縋るように締め上げるように真摯に込められた力に、ずきりと左肩が痛んだ。
増していく力にいよいよ首を向けそうになり、工藤が僅かに眉を顰めて俺と俺の背後をちらちらと見る。その表情と鞄を掴んだ工藤の様子を見て、こいつはいざとなったら逃げる気だということを俺は確信した。何を見ているかは分からないが、聞きたくもないものが見えているだろうことはその仕草を見れば分かる。身の回りの品だけを確保して、とにかく安全のために逃げようと決意する程度には恐ろしいものが見えているのだろう。
痛いのは苦手だ。恐ろしいものはもっと苦手だ。その両方を兼ね備えた現状に目眩がし始めて、気が遠くなりかける度に肩口のじわりと鈍い痛みが意識を引き戻す。
ずきりと一際強く痛みが走り、感覚で爪が衣服越しにもぐいと食い込んだのが分かった。いよいよ工藤が椅子を引いた。俺も叫ぼうか気絶しようか逃げ出そうかと逡巡して、がくがくと座ったまま笑っている膝をどうにかして大人しくさせようと右手を添える。
背後をざわざわと賑やかに、数人の学生たちの一団が通り過ぎていく。閑散とした食堂に響き渡るほどの甲高さでけらけらと笑う女の声に朗らかに応える男の声、そして高らかな足音に喧しいやりとりの声が鳴り渡る。
それら一団は俺の背後をあっさりと通過して、そのまま賑々しい声を引き連れて遠ざかっていく。
「ん」
「あ」
一瞬躊躇するようにずるりと肩口に爪を立てながら掌は離れて、背後から何かが立ち去る気配がした。
状況がいまいち信用できずに、少しだけ長く目を閉じる。五つ数えてから再び目を開け、空になったフライドポテトの容器をからからと振っている工藤を見る。
奴は左肩と俺を交互に見てから、
「よかったな。目移りされたじゃん」
移り気な相手で助かったなと言って、工藤は朗らかに笑う。尋常でない圧迫から解放された肩にはじわじわと血が通い始め、それに連れて鈍い痛みが滲むように背中全体に広がる。肩に打撲のときのような異様な熱が張りついていくのが分かった。
こんな異様な握力で肩を握るような奴から見逃されたのは幸いというべきだろう。先程のままだったら振り返らずにいたとしても、相手が痺れを切らせて何らかの手段に出ないとも限らない。工藤が言及してくれなかった御面相に、真正面から相対したかもしれないことを考えれば尚更だ。あの断片的な情報――歯の数え方に迷うというのはどういうことだか考えたくもない――ですら絶対に目撃したら只では済まないことが予測できる。そんなことは納得している。
「何で不満そうな顔してんだ、お前」
「不満じゃない、けどさ」
選ばれなかったのは幸運だ。健全に過ごせるのも福徳だ。日常を日常のまま過ごせるのは全くの僥倖だ。
そんなことは分かっている。致命的に恐ろしい目に遭わずに済んだのだから、安堵し喜ぶべきだろう。わざわざどう考えても危険なものにぶち当たりに行くのは俺の芸風でも好みでも無い。自分の性根と弱点など分かり切っているだろう。理解も予想もできない理不尽なもののなるべく少ない、安全で健全な生活こそが俺の望むものだ。だからこそ事故現場と化した新築のマンションでの気楽で快適な一人暮らしを放棄し、どうにも捉えどころの難しい上に諸々が埒外になりがちな叔父との同居を選んだのだ。
恐ろしいものにひとりきりで遭遇して正気でいられる自信が無い以上、何らかの対策か抵抗の方策が必要だ。起こる頻度や内容はともかくとして、最悪道連れがいるというのは、精神衛生上それなりの保険として機能する――そんな打算を抱え込むくらいには俺は臆病だ。回避できる厄介ごとならばやり過ごすに越したことはない。
そんなことは重々承知だというのに、それでも思ってしまうのだ。あれほど熱烈に強烈に俺を捕まえておいて、あっさりと乗り換えられた理由。あの集団と俺、目移りするに足る理由がどこにあったのか、俺のどこに不満や不備があったのだろうかと、そんなことばかりが気にかかってしまうのだ。
「気持ちの悪いこと考えてねえか、高槻」
「うん……やらしいなこれ。ついでに見苦しい」
「やたらと細かい表現すんなよ。まあ、運が悪かったんじゃねえの。良かったのかもしれないけど」
つまり今後のご活躍をお祈りしますってやつだろと言って、工藤が笑う。最早冗談の一句に成り果てた拒絶の例文が妙にしっくりきて、俺は深々と頷く。
「ひどい目に遭いたい訳じゃないんだ。こう……分かるか?説明ができないんだ」
「分かる。値踏みされるのは嫌だよな」
くだくだしい逡巡を一言でまとめられて、俺は工藤のことを見直す。ただノリが軽くて選択した授業が被りがちで成り行きで同じサークルに入っただけの平均的な文系大学生だと思っていたのに、存外に的確で適切な要約をしてのけた。普段の言動と頭の切れ具合は必ずしも相関しないのだなと、本人に知られたら恐らくは怒るだろう内容を内心にしまったまま、俺は手元の包装紙の残骸をまとめる。
「勝手に基準つけてちょっかい出しておいて心変わりでお帰りはあちら、とか大変失礼なやつじゃん。味見してから手を出さないのは不実じゃん」
「失礼というかとりあえず肩が痛いな、俺は」
「ちょっと歯が個性的だからって頼まれても無いのに値踏みする権限なんかねえだろうにな。百歩譲ってしてもいいけど相手に知らせるのは悪いやつだよ」
思うだけなら自由だからなと先程俺が思ったことと寸分違わぬ理屈を口に出されて、勘付かれたかと僅かに動揺した指先がペットボトルにみしりと食い込む。幸いにも工藤は気づく様子も無く、椅子に掛けたまま盛大に背伸びをしてみせる。ばきばきと歳に似合わず背骨が盛大な音を立てた。
「ああ腹膨れたら気分いいな。授業終わっておまけに週末だからもう心置きなく心うきうきわくわく」
「わくわくったって何するのお前」
「とりあえず帰り道で映画借りて家帰って見てからゲームする。一人暮らしの特権だなでたらめなスケジュール」
画面を血塗れにしながら飯を食っても誰も文句を言わないからなと、秋の日差しに眩しそうに目を細めながら、工藤はにったりと笑ってみせる。安穏とした午後の学生食堂にも淡い陽光にも不釣り合いなその様が見知った誰かに似ている気もして、俺は不用意な一言を堪えて視線を逸らす。多少親しくなったとはいえ、他人に言うべきこととそうでない境界ぐらいは弁えているつもりだ。親族やろくでなしに対応するように学友に接するのは、恐らくそれなりの悪手だろう。
「まあ……また月曜にだな。一緒だろ二限。寝坊するなよ」
「したら席取っといてくれよ。しないけど」
「面倒だからしないでくれ」
大丈夫だよと軽い口調で返して、工藤はすいと椅子から立ち上がる。俺も荷物を提げて立てば、彼はこちらを見もせずに出口へ向かって歩き出す。
「帰ろう、んで駅まで行こう。お前奥藤線だから暇だろ、駅ビルの本屋眺めて遊ぼう」
振り返って笑う顔にはちらちらと外の葉陰が掠めて、年相応に血色の良い肌に微かな憂いの気配を刷く。それでもひどく健全な表情の工藤を、俺は少し離れてつらつらと眺める。こいつはどうして異様なものを見た直後に平然として人生の楽しみについて言及することができるのだろうと疑問を抱くが、すぐにそんなことを考えるだけどうしようもないと気付く。よしんばやり方があるのだとしても、俺にできるとは到底思えない。恐らくは思考や性質の問題だ。学や心構えで対応できる範囲に限界があることを、俺はこのひと夏で十分に実感している。
工藤は足が長い訳では決して無いが、思い切りが良いので速度がある。ずんずんと遠ざかっていく背中にとりあえず置いていかれまいと、俺はその後を追って歩き出した。
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