九月
小夜
大学生の特権たる長きに渡る夏季休暇もついに終わり、学生としてまじめに通学を始めた頃はまだ気温も真夏や猛暑を名乗るに相応しい高さだったが、それも九月に近づくにつれて緩やかに下降していった。九月に入るなり二十度を切るのは流石に乱暴ではないだろうかと、冷たい風が吹きつける中、通学路を自転車で疾走しながら思ったのは記憶に新しい。
気温以外にも変化は勿論あった。最たるものはお盆明け直後から適用された後期授業の時間割だが、これにも体が慣れてきた。休暇の頃のようにゆっくりと寝ていられないのが不満と言えば不満だが、ここで単位を取っておけば来年がマシになるのだから仕方がない。必修科目はどうして一限目と三限目に集中するのだろうと疑問に思いはするが、単位は取れるだけ取っておきたい。必修ならば尚更だ。留年などしようものなら父に何を言われるか、考えただけで身が竦む。そもそも大学生という身の上なのだから勉学に励むのは当たり前で、そのためにこの生活能力と人間性が微妙に欠けた叔父の家に居候しているのだということを俺は思い出す。
初めての一人暮らしが諸々あって事故物件住まいになってしまったのが諸々の発端だ。入居して数ヶ月で新居を出た俺に住居を提供してくれた、奇特で都合の良いひと――それが叔父だったのだ。甥の窮状に救いの手を差しのべた、と言えば中々の美談だろう。実際随分と慈悲深い所業だとは思う。少々の家事や雑用をこなせば暖かい布団と快適な風呂と既製品ではない食事が手に入るのだから恵まれた環境だ。おまけに大家は結構な放任主義だ。
だが物事はそううまくはいかない。美味い話には裏があるもので、築浅駅近角部屋三階南向ユニットバス完備で四万円なんて物件が訳ありなのと同じことだ。
叔父が生活に著しく欠けている人間であるということ。これがまず一つの瑕疵だ。もちろん積極的に危害を加えてくるような類ではない。細やかな気遣いや丁寧な思いやりには全く期待ができないが、情が無いという訳でも無い。端的に言えば生きるのが上手くないのだ。飯も最低限は食べるし風呂も入るが、それ以外はてんで駄目なのだ。吞む打つ買うといった分かり易い放蕩はしないが、日がな一日本を読んでは部屋を散らかし床という床を書籍で埋めていく。片付けという技能どころか概念が無い。そんな人間に家一軒の管理を任せておくというのは大変に危険なことだと俺の父は悟った。結果、面倒ごとをまとめて解決しようと画策し、生活能力の無い叔父のもとに宿無しの学生――俺を、家事手伝いを兼ねて住まわせることとなったのだ。
それだけならまだいい。やることが明確になっているのなら雑用も家事も片付けも、それほど苦ではない。俺は言われたことはそれなりにやり通せる人間だ。
もう一つの問題は――これはここに住むようになってから気付いたのだが、何だか妙なことに遭遇する割合がいやに高いのだ。
致命的でも猟奇的でもない、少し鈍かったり気が強ければ気のせいと跳ねつけられるような程度のものばかりに遭遇する。勿論気が狂ったり手の施しようのない重傷を負うようなものは今のところない。その上、派手な因縁もおどろおどろしい因果も見当たらない。だからこそたちが悪い。
窓ガラスに映り込む正体の分からない人影。夜中の二時半に七回鳴ってから切れる電話。明け方に家の前を猛烈な速度で駆け抜けていく三輪車の小柄な影。どうしても顔の造形を認識できない隣人。
ささやかだからこそ居心地の悪くなるようなものばかりだ。そんなものを日常に散りばめながらも平然としている叔父はとんでもない豪傑なのか鈍感なのか、器が大きいのか底が割れているのかと考えて、俺はひと夏を過ごしてしまった。そうして秋風の吹く頃になったというのに、未だに明確な判断ができずにいる。
夕食も済み風呂も上がり後は寝るぐらいしか予定の無い、平穏な夜の十時過ぎ。居間で何だか陰鬱な映画を眺めながらそんなことを真面目に考えていた俺に向かって、
「お月見からさあ、忙しくなるから少しだけ手伝ってね」
がしがしと濡れたままの頭をバスタオルで雑に拭いながら、風呂から上がった叔父が言った。寝巻代わりのTシャツには顔の半分が
「手伝うのは構いませんけど、木曜以外なら夜になります。木曜は隔週で八時過ぎます。今日と同じです」
「終電じゃん。まあいいけどさ本分だ……お盆程大ごとじゃないけどさ、お参りとかするんだ。秋の彼岸の墓参り」
彼岸っていつですかと頭の悪い問いを投げかければ秋分の日だよと文化的な返事があって、不幸にもその日は講義が少ないので四時ごろには家に着けることを確認する。履修計画の結果、朝はそれなりに忙しいが午後はそれほどきつくならない時間割ができていたのだ。もちろん夏前に所属したサークルの例会などもあるが、そちらの頻度はそれほど高くない。月に二回しかない上に出席も任意なので、それほど負担にはならないのだ。
積極的に拒否するような理由も無い上に、何より家主で年長者の要求だ。俺は素直に分かりましたと答えて、そのまま続けて疑問を口にする。
「お彼岸って具体的に何するか知らないんですよね俺。何するんですか」
「ん……まあ、あれだよ。お墓参りして、おはぎ作って、食べる。あと冬に備える」
冬になるとお参りできなくなるからねと僅かうんざりとした顔をした叔父を見て、俺はそういえばここが過酷な冬を誇る雪国だったことを思い出す。祖父母が生きていた頃の冬、こちらに帰省した時の情景だ。見覚えのある墓地がすっかり雪に埋もれていて墓石や卒塔婆が微かに頭を出しているばかりという風景を見て驚愕したのだ。自分の身の丈の八割ほどの積雪という恐ろしいものを見て、俺はどうしてこんなところに人間が住めるのだろうと心底から不思議に思ったのだ。
そこに今自分が住んでいるのだから、人生というものはつくづく皮肉だ。自分の過去に背中を刺されたようなものだと考えて、俺は
「ここの秋は短いからね。昔は下手すれば十一月には雪が降ったよ」
「恐ろしいじゃないですか。半年冬じゃないですかその有り様だと」
「そうだよ。春も秋もすぐ過ぎるよ。分かり易くていいだろ」
叔父は壁に設置された湯沸かしの運転を切ってから、のそりといつもの椅子にかけて、ぐったりと背もたれに倒れ掛かる。そうしてあまり光の映えない真っ黒な目を天井に向けながら、長々と息を吐いた。
「呑気に月を眺めてられるのも九月くらいかなあ。十月あたりはちょっと寒い」
「月見とかするんですか叔父さん」
「するよ。綺麗だろ。酒も呑めて団子も食べられる機会をどうしてみすみす逃すんだ」
九月は台風でも酒が呑めるからねと言って、叔父は短く笑う。俺はお盆で、このひとは酔いもせず味にもこだわらずただ量を倒れるまで呑む類のひとだと知った。だが、そんな風情の死滅したような呑み方をする癖に飲酒のための大義名分を大事にするのだなと不思議に思った。
叔父はいつものように俺の内心など気に掛ける様子も無く、湯上りなのに血色の悪い頬を僅か緩ませて、
「重陽の節句も近いしね、菊酒が呑めるなあ……君は菊を食べるといい。味がしない」
「食べ物を勧めるのに不適切な文句じゃありませんか」
「実際あんまりしないからなあ。体に良いって大昔の人が言ってるんだよ。気合を入れれば不老不死にもなれる」
「なりたいんですか」
「今更不老になってもねえ。永遠に三十路の中年を維持して何が楽しいんだ」
もっともなことを言うものだから、俺は思わず深々と頷く。二度頷いてから流石に失礼だったろうかと叔父の顔色を伺うが、叔父は案の定何も考えて無いようなぼんやりとした顔をしている。その様子に俺は安堵すると同時に物足りないような気分になった。喜怒哀楽が薄い相手は、何が急所になりうるのかを読み取りにくい。別に率先してご機嫌を取りたい訳でもない。だが、一応親族でもあり一つ屋根の下で暮らしているのだ。友好的な関係を結んでおいて損はないだろう。
「それでお前ら気が済むのか」
「きっと後悔することになる」
「嫌だって言ったじゃないですか」
「生を受けた意味もあるという」
ふと気づけば先程からテレビから流れる音声が妙なことになっている。不適切なタイミングで不審な言葉しか流さない。故障か何かだろうかと視線を向けて、俺は息を吸い込むような妙な声を上げる。
見れば画面はお通夜のような雰囲気のスナックのまま妙に歪んで静止していて、音声だけが賑やかなバラエティやニュースのそれをランダムに流している。
「ってそんなの嘘だろま」
「は警戒を呼び掛けてお」
「悪いけどもうここには来ないで」
「やそんなんマジに決まってるし」
テレビと俺の異常に気付いた叔父がかちかちとリモコンの電源ボタンを押すも、画像の歪みがじわじわと広がるばかりで一向に状況は改善されない。それどころか画面の右半分は三原色がモザイクのように溶け連なっていて、音声だけがいやに明瞭に聞こえるのだ。
「手軽とかいうのは冒涜で」
「生きてる価値が無いんだそん」
「まであの家に居るつもり」
「だ助かる気だったのかよお」
みるみるうちに崩れていく映像はもはやどろりと溶けた団子のようにしか見えず、音声はゆっくりと音量が上がっていく。色の塊はじわりと滲みながら何かを浮かび上がらせるように
「ん……しょうがないな。うん」
そのままするするとテレビに近づいて、そのまま壁に向かってしゃがみ込む。ごそごそと叔父が部屋の隅で何かしたかと思うと、ぶつんとあっけなくテレビの画面が暗くなった。
「録画は諦めてくれるか。ゾンビもとりあえず首を吹っ飛ばせばいいだろ。小うるさい連中も首を
電源コードを片手に、叔父がぱたぱたと膝を払う。そのまま俺の怯えた顔を見て少しだけ眉根を寄せてから、羽織っていたバスタオルを画面に掛けた。当たり前だがサイズがそれほど合わないので、画面の上半分しか隠れていない。
「これでどうだろう。これ以上は鉈の出番になってしまうんじゃないか」
「やめましょうよ……それは、やめましょうよ。野蛮ですよ。お気遣い頂いたので大丈夫です。俺はもう寝ます。もしくは洋間に行きます」
「そっちのテレビもこうなったらどうするんだ」
「どうしてそういうことを言うんですか。分かりましたよ大人しく寝ますよ」
戸締り頼んでいいですかと自棄になりながら聞けば、分かったから早く二階に行ってなさいと淡々とした口調で返される。恐る恐る居間の出入り口まで歩を進めて扉を開けば、廊下の夜気が頬に触れてその冷たさに驚いた。
「階段点けといてくれ。鍵見たら私も上がるから」
「今の故障ですか。それとも外的要因ですか」
「まあ……表が国道だからね、ここ。トラック通るとチャンネル変わったりするっていうだろ、昔山小屋でそんな経験があったよ」
「違法無線の何やかんやですかそれは。ただトラック連隊で通ってませんか今の頻度だと」
「それだったら怖いね。状況が想定できない」
とりあえず今日はもう寝ようじゃないかと言って、叔父はうっそりと気だるげに伸びをしてから小さく欠伸をする。俺は廊下を早足に過ぎて、二階へ続く階段の照明を点ける。
殺意すら窺えるほどの急な段差を一歩一歩ゆっくりと登りながら、俺は階下を見下ろす。すると、暗いままの廊下を叔父がぺたぺたと足音をさせながら進んでいくのが見えた。視界から外れたあたりでがらがらと大層な音がして、内扉が開いたのが分かった。そのまま外戸を締めるのだろう。
虫の声ばかりがざわざわと響く秋の夜はひどく静かで、ほの白い電灯に照らされた踊り場に足を掛ければ、木床の僅か軋む音さえよく響く。
僅か立ち止まって耳を澄ませば、かしゃんと錠の掛かる音がやけに大きく聞こえた。
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