閑話・白雨降りしきる
郵便局の自動ドアをくぐって表に出た途端に襲い掛かる、凄まじい雨音と熱気。その勢いに気圧されて、俺は思わず後ずさる。見上げた空には雨の勢いとは裏腹に太陽が光り輝き、申し訳程度の雲がうっすらと覆うばかり。仄青い夏空に眩い日差しを煌かせながら、大粒の雨粒が容赦なく叩きつけられる。そんな有り様にもかかわらず遠慮なくざあざあと降りしきる雨を見上げながら、俺は途方に暮れた。
つまるところ叔父からの頼まれものだ。何やら大判の封筒に入った書類を郵送したいのだと、出不精の叔父が郵便局までのおつかいを頼んできたのだ。入れていた授業が休講になったせいで午前中で大学が終わってしまい、また馬鹿正直に帰ってきたせいで居間でぼんやりとさほど面白くも無い午後の映画――よりによって今日は巨大蜘蛛が人類を襲い始める類のやつだ――を眺めるぐらいしかすることのなかった俺は、喜んでその雑用を引き受けたのだ。行きはともすれば熱中症を心配したくなるくらいに晴れていたのに、書類を出して帰路につこうとした途端にこの様だ。たかだか封筒ひとつを送るための、手続きの十数分でこれとはついていない。
通り雨なら雨宿りというのも手かもしれないが、いつ止むかの予測もつかないのに用事の無い建物に居座るのも居心地が悪い。田舎特有のあれこれで叔父や祖父母の知り合いあたりが居たりしたら目も当てられないことになる。ただでさえ先程窓口で一瞬おやというような顔をされたのだ。都会ならば自意識過剰で済むが、ここは終電が夜の九時に設定されているような田舎だ――おまけに似たような名字が群生しているという、網目のような絡まり方をした血縁が現存し継続している土地だ。そういったところで
あんな目に遭うのはごめんだと、俺は降りしきる雨を睨んで腹を括る。幸い傘も無いがスマートフォンも置いてきているので、びしょ濡れになったところで被害は財布の中身ぐらいしかない。それだって札びらが二三枚だから干せば済む話だ。洗濯機にかけるよりは絶対にマシだろうと、実家にいた頃の災難を思い出す。あの時は定期に学生証など諸々の紙製の重要なものが水浸しになったせいで、復旧や補修に中々の手間がかかったのだ。
家からこの郵便局まで、のんびり歩いて来ても二十分かからなかった。だから少し急げばもう少し早く帰宅できるだろうし、運が良ければ道中で止むこともあるだろう。日頃の行いと心がけを鑑みて、お天道様に対して
※ ※ ※
小走りに歩道を往けば、ばしゃばしゃと路面を覆う雨水が派手に跳ね散らかる。雨は容赦無く勢いを増していき、時折横殴りに強風が吹き付ける。いっそ爽快とすら言える降りように、これは傘を持っていたところで意味が無かったなと何となく愉快な気分になる。平日の午後であるためにいつものように人通りも車も無いのが幸いで、傍から見ればずぶ濡れで公道を急ぐ男子大学生という気の毒なのか不審なのかの判断が大変難しい存在になるところだが、それを観測する人間がいないので気楽ではある。見つからなければ不審でも何でもない。観測されない存在はいないこととほぼ変わらない。なので後ろめたく思う必要がない。むしろこの年で雨に打たれながら走り回れるというのはひどく貴重な経験をしているのではないかと気付いて、
つまり立派な致し方の無い建前があるのだから、俺が私服のまま豪雨に打たれて多少はしゃいでいるのは仕方のないことだろうと思う。やってはいけないことをするというのは、背徳感と罪悪感があるからこそ、生まれる感情はより鮮烈になる。ことに今回はその両者に対してきちんとした言い訳も完備している。要するに楽しいのだ。とても楽しいのだ。
気分の高揚と共に雨はいよいよ激しさを増し、日射しは相変わらず照り付ける。いつかの病院を横目に見ながら横断歩道を渡り切り、俺は意気揚々と道を行く。黒々と濡れたアスファルトは日差しにぎらりと光り、その傍らで雨水が小さな川を作って流れていく。騒然たる雨音以外は何一つ聞こえないような世界を、俺は遠慮なしに水を跳ね散らかしながら
ぺとりと頬に何か触れた気がして、俺は反射的に頬を拭う。
明らかに雨粒とは違う感触だった。虫か何かだろうか、と拭った掌には何も無い。拭き取られた雨粒が指先を伝って地面に落ちる。何だったのだろうと立ち止まって首を傾げるが、当然正解を思いつけるわけもない。途端背後からごうと音を立てて大粒の雨と強風が叩きつけられて、俺は慌てて歩き始める。
べちゃりと濡れた音がして、肩口に何かが触れたような気配があった。見れども当たり前に雨に濡れ切ったシャツの生地があるばかりで、おかしなところは何一つない。
羽織ったシャツに浸みた水が何か悪さをしたのだろうと考えて、俺は歩みを進める。幸い家までの距離はもう半分ほどだと、色の濃くなった上着の肩口を見て、俺はもう一度歩き始める。
剥き出しの肘。髪の張りついた首筋。背中。膝頭。
数歩往くほどに雨に紛れて何かが瞬間触れては離れ、びたりと濡れた衣服が肌に貼りついては浮き上がる。
気のせいだと言い聞かせながら、俺は無心になって足を動かす。ざあざあと激しい雨音は一向に弱まる気配も無く、日射しも
がくんと前のめってから、数歩よろよろとたたらを踏む。明確に何かに引っ掛かったときのよろめき方だと、頭のどこか端の方で他人事のような感想が浮かんだ。
左脇腹からぐるりと右の腰まで、するりと撫でるように巻き付いて離れる。腹を掠めた爪の硬さと温度の無いのに柔らかな肉の感触は、確かに人の腕だと直感した。
一瞬で思考が煮立つ。俺は今恐ろしい目に遭っているのだと自覚した瞬間、叫び声すら上げられず、無我夢中で走り出した。
そこから先のことは覚えていない。気付けば俺は無心で我が家の呼び鈴を押していた。何度目かの連打で、はあいと呑気な声と共にがらがらと音を立てて木戸が開くと同時に叔父が顔を出した。
叔父はずぶ濡れの俺を見て少しばかり不審げな表情をして、
「ひどい顔色じゃないか。真っ白」
とりあえずシャワー浴びてあったまって来なさいと言って、叔父は俺に向けて顎をしゃくってみせた。
※ ※ ※
四十二度のシャワーとよく乾いたバスタオルは体温と共に正気も取り戻してくれたようで、脱衣所に置かれていた丈が微妙に合わないジャージを着て居間に戻る。すると食卓に置かれた白い皿と、その上に盛られたおにぎりが三つあるのが目についた。
「君未成年だっけか……じゃあ
卵酒にするから食べてなさいと、叔父がコンロに向かったまま言った。俺は言われるがまま食卓につき、黙々とおにぎりに
二つほどを食べ切り三つ目を食べようかどうしようか迷っているあたりで、湯呑になみなみと注がれた卵酒が出された。
「ちゃんとアルコール飛ばしたから安心しなさい。甘いよ」
塩おにぎりと卵酒。食事としても間食としても、とち狂っているとしか思えない組み合わせだ。だが恐らく叔父なりの厚意に依って提供されたものを断るのも失礼だろうと考えながら、俺は恐る恐る卵酒に口を付けた。幸いきっちりとアルコール分は飛んでいるようで、絡まるような甘さとほんのり涙ぐむほどの熱さが、じんわりと喉に染みた。
「傘持って行かなかったのか。災難だったね」
「いやまあ、楽しかったからいいんですけどね、雨ざらし。それ以外が予想外だったんですけど」
「何かあったのかい。五体満足だけど」
「どうしてそういう……かすり傷でも痛いは痛いじゃないですか、怖かったんですよ。怖い目に遭ったんですよ俺は」
正面の席に座った叔父に先程の出来事を話せば、叔父はふんふんといつものように適当な相槌を打ちながら、珍しく最後まで
話し終わって一息つく代わりにちびちびと卵酒を啜る俺を見ながら、叔父は、
「雨はね。色んなものを連れてくるから」
運が悪かったねとしみじみと言って、いつの間にか手元に置いた煎餅に齧りつく。がりがりと音を立てて見る間に一枚を食べ切って、ほんの少し目を細めてみせた。何を考えているのかを聞き出そうとして、俺は危うく思い止まる。わざわざ隠れてくれている藪をつつく必要がない。分かっても分からなくても怖いのだから、ならば知るだけ労力の無駄だ。余分な苦痛を背負い込む理由が無い。藪をつついて蛇が出てくるぐらいで済まなくなるのを俺はここに来てから何度も思い知らされた。
考えた末に俺は話題を逸らすことに決めた。
「けどあれですね、この間の雨の日は寒かったですけど……今日はだいぶ温かったですよ。日が出てるとやっぱり違いますね」
「今日も三十度超えてるからなあ。頼んでおいてなんだけども、君はよくこの暑い中徒歩で出かけたね」
「散歩は嫌いじゃないんですよ。早起きとか徒競走とかそういうのが嫌なだけで」
「ああ、何か分かるなそれ。別に早起きと散歩は一体型じゃないのにね。世間様は何故かその辺をまとめたがる」
関連性はそんなに無いのにねと、微かに叔父が口の端を吊り上げて笑う。俺は僅かに覗いた八重歯を眺めながら、珍しく叔父の言うことに同意する。
正しい生活習慣の象徴としての早起きと、健康維持の手段としての散歩が同じカテゴリでまとめられるのは分からなくもないが、散歩という手段が持つ属性はそれだけではないだろう。俺のように純然とした趣味としての散歩――ただ何も考えずに外界を歩き回るのが好きというだけのものも正しく散歩である訳で、適切な運動という要素はここでは重要なものではないのだ。ただ歩きたいから歩いている。それ以上でも以下でもない。たった一点の要素の重なりだけで分類されるから、どうにもしっくりこないのだろう。
「動機はともあれ行動は同じだからね、散策趣味でも健康維持でも他所から見たら同じことだよ。『歩いている人』以外の何ものでもない」
「まあ――そうでしょうね。動機は主張しないと分かりませんから。内心は自由ですし」
「そうだね。大体がそんなものだよ、類推するだけキリも意義も無い……起こったことと結果だけ、とりあえずは大事にしておけばいいのさ。理由なんて考えてもどうしようもない」
しみじみと呟くように言う叔父の表情が何だか見覚えの無い種類のもので、俺は問うべきか聞き流すべきか迷って湯呑を握り締める。
そうやって見逃し続けた結果、とんでもない致命傷に到るんじゃないだろうか――そんなことをふと思いついて、流石に口に出せずに目を逸らす。何となく叔父に向かってこれを言い出すのはひどく礼儀を欠いた行為のような気がして、俺は空になった皿を眺める。
叔父は俺の内心など知る由も無く、いつものどこかぼんやりとしているのに妙に通る声で、
「食べたら温まったろ。とりあえず飲み切ったらどうだい」
湯呑を指されて、俺は一息に残っていた卵酒を飲み干す。とろりとした甘味が喉に張り付くように染みて、俺は少しだけ噎せそうになる。
「ごちそうさまでした。あの、これ一体何だったんですか」
「ん? 寒いと人間死ぬだろう。食べると体温が上がる」
暖かくして腹が膨れてればと大体のことは何とかなるんだと言って、叔父はうっすらと笑う。何となく、このひとは俺の遭遇したものが何かを分かっているんじゃないだろうかと直感して、口に出さずに俺は皿を片付けに流し台へと皿を運ぶ。
いつの間にか雨は止んで、見上げた台所の窓から眩い夏の日差しが流れ込む。じゃわじゃわと鳴き始めた蝉の声に、どこかの風鈴の音が重なった。
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