閑話・地獄のように甘く

 ぎらりと夏の日射しに鈍く光るそれが目の前まで迫って初めて菜切り包丁だと分かり、俺は思わず尻餅をつく。


 準備中の札が下がった扉を引き開けて喫茶店に入った途端に菜切り包丁を振り上げる女性という予想外の事象にかち合って、俺は怖がるより先にあっけに取られた。


 女はぎらぎらと光る黒目でじっとこちらを見てから、そのままくるりときびすを返してカウンター席の左端に座る。そのままずるりと溶けるように机上にうつぶせて、片腕にぶらぶらと鞄のように包丁をぶら下げている。べたりと机に突っ伏しているのでこちらからは首が無いようにさえ見えた。


「どうしたの座り込んで。いらっしゃい高槻たかつきくん。持ち帰りの準備できてるよ」


 カウンター席に着いて笑顔を向けるマスターは、俺が座り込んでいることを心配こそしてはいるが、こんな有り様になった元凶――包丁を持った女の存在については一言も触れない。いつもの穏やかな口調のままひょいひょいと手招いてみせるので、俺は一瞬逃げ出そうかどうしようかと躊躇する。下手に逃げて追って来られたりしたら逃げ切れる自信が無い。その場合は走って逃げた分だけ余計な苦労を背負い込むことになる。そうなるくらいならこのままかち割られた方がマシだと結論付けて、俺はとりあえず立ち上がって扉を閉める。予想よりも大きな音を立てて扉が閉まったことに俺はびくりとしたが、女はこちらに気付く様子も無く、酔い潰れたような姿勢のままだったので安堵する。


 冷房の効いた店内は、外の灼熱を感じさせない程に冷えている。営業時間外の店内には客はおらず、数台のモダンなテーブルには窓から差し込む夏日が観葉植物と工芸品こけし越しに斑に影を落とす。店内の明かりはまばらに点いているばかりだが、季節柄十分な明るさだろう。仄かな珈琲の香りと音を絞られたクラシックが聞こえて、俺はほんの少しだけ、異様なものと遭遇したのとは違う種類の緊張を覚えた。


 家から十分歩けば着く距離にある喫茶店。珈琲と洒落た洋菓子に幾らかの軽食が売りの、田舎でたまに見かけるような個人経営の喫茶店だ。しかも経営者は親族で顔馴染みであるから、行儀の良くない話だが無理がそれなりに通る。だからたまに父が気まぐれで注文を出すのだ。今回はハンバーグの持ち帰りを頼んだようで、その運び屋にたまたま家にいた俺が任命されたのだ。特に拒否を述べる理由もなかったのでうかうかと引き受けたのだけども、まさか刃物を突きつけられるような目に遭うとはついぞ考えもしなかった。

 その現場の責任者であろうマスターはカウンターで広げた新聞を前にしながら悠々と珈琲を啜っていて、数席隣りで突っ伏したまま微動だにしない女などは視界に入ってもいないように、クラシックを薄く流した空間で優雅な午後を満喫している。


一喜いつきさんに言っといてよ、一応建前があるから営業時間に来てくれって」


 別に構わないんだけどねと笑いながら、マスターは恐らくは注文の品であろう包みを手提げ袋にしまい込んで、俺に手渡す。ずしりと重いそれを傾けないように注意を払いながら、俺は財布を取り出して預かってきた代金を支払う。マスターはにこやかに礼を述べてから一向に顔を上げようとしない女の後ろを悠々と通り。レジをがたがたと叩いてから小銭とレシートを持って戻ってきた。その往復にすら微動だにせずカウンターにうつ伏せる女性の背中には日射しの影が落ちていて、白いブラウスの上にぐにゃりと染みのように広がっていた。

 だらりと刃物を提げた手はしなやかに白く、華奢であろう指先は固く柄を握り込んでいる。脱力した腕とその手指の有様がいかにも不自然で、俺はそろそろと目を逸らした。


「高槻くんが来たから肩の荷が下りたよ。これでやっと休憩できる」

「重ね重ね済みません。父に言っておきます」

「いやあ世話にはなってるし、ご近所だし別にいいんだけどね。小っちゃくても仕事があると気が休まらないのよ」


 小心者だからねと言ってマスターは笑い、つられて俺も笑い返す。そのまま礼を述べて出口へと向かえば、見送りのつもりかマスターがするすると付いてきた。そのままいつか映画で見たドアマンのように扉を開けて、ほんの少し目を細めてこちらを見ている。何となく照れ臭いような気分で扉をくぐれば、


「害は無いから安心してくれ――騒がないでくれてありがとうね」


 囁き声から一転して朗らかな声で一喜さんによろしくねと言って、マスターの手が肩に置かれる。俺は黙って頷いて、一礼して店を出る。


 背後で扉の閉まる音が聞こえた途端、俺は一目散に走り出した。


※   ※   ※


「どうしてそういう話を現場でするんですか」

「そうだよ。営業妨害だよ高槻」

「別に伝統ある店なら刃傷沙汰のひとつやふたつはあるだろう。みんな知ってる。そして何人死んでようと味に影響はないからこそ親父さんから君の代までつつがなく続いている」

「ごめんなさい。あの……申し訳ありません」

「いやあなたが謝ることじゃないよ甥御さん……こいつはずっとこうだもの」


 歳を食うたび酷くなっていくよと言って、マスターは俺と叔父の前に珈琲を置く。いつもの叔父が適当に淹れるものとは違い、湯気と共に豊かな芳香が広がった。


「外食でもしようじゃないか。サ店で」という叔父の一言を聞いたのが今日の昼過ぎのことだ。サ店という今時では殆ど聞かない言葉の意味を理解するのにいつも以上に時間がかかったが、つまるところ突然の気まぐれだ。許可はさっき取ったんだと更によく分からないことを言ってはいたが、聞いたところでどうせ雑な説明が返ってくるだけだからと放っておいたのだ。

 件の店は家から十分ほど歩いただけで着いた。黒木の門を出て左に曲がり、そのままひたすらに真っ直ぐ進む。すると左手に小洒落た民家なのか野暮ったい店舗なのかを判断しかねるようなくすんだ朱色の屋根の一軒が現れたのだ。


「近場にこんな店があったんですね」

「老舗だよ。私が学生だったころからあるもの。店主が親戚」


 ハンバーグが美味しいんだと叔父が駐車場で嬉しそうに言っていたので、俺はその人間らしい様子にほんの少し驚いたのだ。

 扉に下がった休業中の札に臆する様子も無く、叔父は珍しくインターフォンを押す。するとしばらくの間があってから扉が開いて、


「電話入れてくれたのは嬉しいけどね……営業日に来なさいよ。俺もお店も今日はお休みなんだよ」

「悪かったよ喜一郎きいちろうさん。遊びに来たんだ今日は」

「マスターと呼びなさい。ここ店なんだから。休業中だけど」


 珈琲淹れてやるからちょっと待ってろと言って、喜一郎さん――マスターは俺たちを招き入れてくれたのだ。

 そうして珈琲ができあがるまでの間、カウンター席でマスターの仕草をぼんやりと眺めながらの時間潰しに叔父が始めた話があんなものだったのだ。俺は余程席を移ろうかとも思った。だがこの場面で急に席を立つのも逃げ出すのも、わざわざ休業日に叔父のわがままに付き合ってくれたマスターに失礼だろうというこれまでの人生で染み込んだ常識や倫理観が邪魔をして成せずにいたところ、目の前に出来上がった珈琲が置かれてしまった。機を逃したことを深々と噛み締め、自身の境遇を諦めてありがたく頂くことにした。

 幸いにも俺の座った席はカウンターの中央席だ。そもそも入店の際にもそんなものは見ていない、だからきっと大丈夫だ――そう言い聞かせながらもびくびくと怯えながら珈琲を啜る俺とは対照的に、叔父とマスターは何一つ怖がる様子も無い。珍しく和気あいあいとした様子で、他愛もない会話を続けている。


「真昼間だったなあ。あれ確か二時ぐらいだったよね」

「じゃあ土曜日だったんじゃないか。土曜日は午前中と夜しかやらなかったから、親父」

「ご本人じゃないんですか」

「ん? 俺まだ四十いってないもの。こいつが言ってるマスターは俺の親父。俺は二代目」


 こいつとは同級生なんだと言って、マスターは叔父を指さす。叔父は特に気にした風も無く、備え付けのシュガースティックを開けては珈琲に注ぎ入れている。三本目を籠から取り出した辺りで観察を止めて、俺はマスターに向き直る。


「ところでその……何だったんですかそれ」

「刃物のひと? 俺は知らないんだよね」


 マスターは困ったように眉を寄せて、かりかりと頬を掻いてみせる。


「親父の頃から来てたお客さんなんかにも聞かれるんだけどね、俺は一切知らんのよ。後ろが家だから小さい頃もここ出入りしてたけど、全くそんなものを見た覚えがないの」

「今はどうなんですか」

「どうなんだろう。少なくとも玄関で転んだ人は見てない、と思う」


 店の中でも見てないなあと言って、マスターは視線をあの席に向ける。俺もつられてそちらを向くが、人影どころか虫けら一匹見当たらない空席のままだ。止まり木には燦々と日が落ちて、時折窓越しに庭木の葉影が掠めるように揺れて光った。


「親父が何か知ってたのかもしれないけど、何も教えてくれなかったし。とりあえず俺の代ではそういう騒ぎも何かも起きてないから、気にしないことにした」


 だって仕方がないからねと笑うその顔にどこか見覚えがある気がして、俺は一人だけ背筋が冷えるような気分になる。

 叔父や厚宮あつみやさん、ここで妙なものと遭遇して平然と生きている連中と同じ表情とやり口だ。致命傷に到るまでは気にする理由も無いとでも言いたげに、日々を鈍感かつ細心の注意を以てやり過ごす。多少の瑕疵かしは飲み込んで、平穏で平凡な日常を黙々と送っているのは図太いのか豪胆なのかと迷って、ただの表現の差でしかないなと思考するのを諦める。俺個人が悶々と考えてどうにかなる類のものでもないし、そんな無駄なことをしてまともな珈琲を冷ましてしまうのも勿体ない話だと、俺は無理矢理に気分を切り換えることにした。


「休業中に伺っておいて、こう言ったことを聞くのもあれですけど……何で喫茶店が午後の二時に準備中なんですか」

「午前中開けてるし、夜もやるしねえ。午後って怠いでしょう。俺も親父も勤労とか精勤って言葉が向かないんだよ」

「そんで週休三日だろう。お盆は全面休業だし」


 商売をする気があるのかいと言う叔父の疑問が珍しく俺の内心を完璧に代弁していて、俺は思わずマスターの顔をじっと見る。

 マスターはその視線を真直ぐ見返して、


「高望みはしないんだよ。静かに生きて死ねればいいんだ、俺はね」


 お前は違うのかいと穏やかに問い返されて、叔父は黙ってカップを傾ける。その様子を見ながらマスターは苦笑して、俺の方を向く。


「あなたも苦労するだろう。叔父だからって遠慮することはない、無理だと思ったらちゃんと逃げなさい」

「逃げるあてが無いので……あとまあ、悪いひとでは無いので、はい」

「良いひとと駄目な奴ってのは両立するからね」

「勝手を言うなよ。私がずいぶんなろくでなしみたいじゃないか」


 反論しながら叔父がこちらをじっと見る。流石に何を答えてもうまく躱せる道筋が見えずに、俺は慌てて珈琲に口を付ける。叔父の淹れたものとは違い、きちんとアクセントとして機能する苦みに僅かに眉をひそめれば、


「ブラック苦手だったかい。悪いことをしたね」


 次は飲みやすいのにするよと言って、マスターは穏やかに笑う。その様子を気だるげに眺めながら、叔父はカップを傾ける。傍らに几帳面に積み上げられたシュガースティックの山を見て、マスターが口を開く。


「砂糖そんなにざらざら入れるんじゃないよ、体に悪いだろう。お前も苦いの飲めないままだね」

「……ふるさとの訛りが有ったって珈琲は苦いさ。違うかい」

「三枚舌の舌無しが何を言う」

「苦かったら砂糖でもミルクでもぶち込んでやればいいのさ。最近じゃチャイなんてものもある……持ち帰るからハンバーグ二つくれよ、きーちゃん」

「三つにしといてやる。あまり年下をいじめてやるなよ。大人げの無い」


 マスターの言葉に叔父は僅か目を細めて、黙ったまま片眉だけを器用に跳ね上げる。拗ねたような仕草に、マスターは呆れたように肩を竦めてから厨房へと消えた。俺は何だか何を言っても場違いになる気がして、苦い珈琲にもう一度口を付けた。

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