幽の見送り

厚宮あつみやさん、味噌汁それでいいですか。まだありますよ」

「いやあ……あんまかへば食えばまいねな、尊厳っきゃぐしてまる」

「食わないといつまでも吐き気が抜けないからちゃんと食え。そもそも尊厳なら酔い潰れた時点でそんなものは無いだろ」

「ん――仏間にひっくり返ってた奴に言われたかねえな。甥っ子君醤油取ってくれ」

「私の甥に担がれておいてそんなことを言えるのかお前。未成年に運ばれるんじゃないよ、なんだあれだけてろてろと泥酔しておいて」

「素面の俺からするとどっちも互角の醜態だったと思うので静かにご飯食べてください」


 あまりにもしょうもない物言いに堪えかねてざっくりと返せば、叔父は気まずそうに目を伏せながら白飯に筋子を乗せ、厚宮さんは辛そうに眉間に深々と皺を寄せて味噌汁を啜る。多少不自然だが仕方がない。朝食を取りながら煽り合いを始める方に非があるだろう。双方ひどい顔色をしている癖にどうしてあれほど軽やかに口が回るのか、口下手な俺からすれば不思議でしかたがない。

 三人きりの宴会――呑み会をしたのが昨日の夜。ささやかな癖に喧しい家鳴りと盆灯籠の明かりと共に過ぎたお盆の夜は呆気なく過ぎて、二日酔いの中年と小心者の小僧は恙なく爽やかな夏の朝を迎えた。罰当たりにも仏間で寝転がっていた叔父と顔馴染みの中年である厚宮さん――叔父の使用済み布団は嫌だと掛け布団を蹴飛ばした挙句に畳で行き倒れていた――を風呂に入れたり水を飲ませたり風通しの良い所に置いたりと看護をしながら、炊けた米と常備してある筋子にインスタントの味噌汁という最低限の体裁を整えた朝食を用意する。これらすべてを一人暮らしを始めて半年も経っていない大学生がやったのだ。やればできるものだが率先してやりたいものでもないなとしみじみと考えて、俺は顔色の悪い中年二人を眺めながら飯を口に運ぶ。

 叔父はあっと言う間に飲み切った味噌汁の椀を机に置いて、厚宮さんの方を見ながら口を開いた。


「マシになるまでは置いといてやるけどね、お前休暇今日までだろ。別宅出勤でもいいけど着替え無いぞ」

「いや午後には帰る。家で火焚かねえといけないじゃん今日」

「火」


 何をするつもりですかと聞くと、こちらの誤解を察したのだろう厚宮さんがやましくないぞと言ってぶんぶんと勢いよく首を振る。そのまま自分が二日酔いだったことを思い出したらしく、茶碗を置いて俯いたままぴたりと動かなくなってしまった。

 叔父はその一部始終をつまらなそうに眺めてから、


「今日でお盆終わりだろ。送り火を焚くんだよ」


 牛も作らないとなといつもよりか心持ち血色の薄い顔で、白飯を気だるげに掻き込みながら叔父は言った。


 結局厚宮さんは昼頃までまともに動けず洋間の網戸の前で転がっており、叔父は叔父で冷蔵庫をごそごそと漁っていたかと思うとそのまま二階に上がったきり降りてこない。そうしてろくに使い物にならないまま休日の午前中を使い潰していく大人たちを見て、酒というのは呑み方を誤ると恐ろしいことになるのだなと俺は痛感した。それでも昼食に冷やご飯で作った炒飯を出せば真っ白な顔のまま黙々と平らげて、叔父も厚宮さんも午後のお茶を飲む辺りにはほぼ元通りになっていた。これは年の功と言うべきか肝機能に代表される人体に装備された臓器の性能の高さに驚くべきなのだろうかと迷って、とりあえず生きているというのはすごいことなのだなと雑な感動でまとめることにした。

 厚宮さんはお茶と茶菓子代わりの赤飯をきっちり片付けてから、


「じゃあまた適当に遊びに来るよ」


と呑気な一言を残して、午後になり僅か穏やかになった夏の日差しに時折ふらつきながらすたすたと帰って行った。その背中をいつもの無表情で見送ってから、叔父は、


「じゃあお茶の片付けをしよう。済んだら外に出るよ。君ちょっと二階に行って来なさい。大窓の前に長椅子あるだろ……そこに牛がいるから取ってきてくれ」

「物取りに行くのはいいですけど、どこか行くんですか。また墓ですか」

「私たちは行かない。送り火だよ、外で焚くんだ」


 牛はさっき作ったからねと言って、叔父はのそりと背伸びをしてみせた。


※   ※   ※


 玄関前の石段の脇、重ねられた木皮が小さな山を作っている。叔父は玄関わきに設えられた外水道の前に立ちながら、マッチ箱をからからと弄んでいた。


「叔父さん。茄子持って来ました」

「そこに置いてくれるかい。足四本しかないから倒れないように置いてくれ」

「牛の足が四本なのは普通じゃないですかね……増やさなかったんですか」

「増やしたら速くなるだろ。それじゃ意味が無い」


 地獄に帰るまでの時間稼ぎだよと言って、叔父は何がおかしいのか短く笑う。どうしてこのひとは仮にも血が繋がっているだろう親族の行き先が地獄であることを疑いもしないのだろうと思ったが、聞くだけ悲しくなる答えが返ってくるばかりだろうと予測ができたので、黙っておくことにした。

 先程二階で作っていたらしい茄子の牛はスタンダードに四脚で、恐らくはこれが普通の精霊馬なのだろう。だが俺は迎え盆に六つ足の胡瓜きゅうりの馬を見ているので、こちらの方が不自然に見えてしまう。まともな人が異様なことをすると殊更に責められるように、異様なひとが普通のことをすると一際不審に見えるのだなと思った。日頃の行いというものがいかに大事かということの証左だろう。

 叔父はこちらの動向にはいつものように興味がすぐ無くなったらしく、手元のマッチ箱から一本取り出したかと思うと手際よく火を点ける。そのまま木皮の山にそっと置けば、ほんの少しの間を置いてめらめらと火は勢いよく燃え広がり、たちまちに見事な焚火――送り火が灯った。


「玄関の戸を開けたらこっちに来なさい」

「また体がかかるようなやつですか。嫌ですよ病院送り」

「だからこっちに来なさい。送り出すんだから道空けとけば踏まれないよ」


 言われた通りに半開きだった内戸と外戸を全開にして、すぐさま叔父のいる軒下へと駆け寄る。足元の送り火がぱちぱちと音を立てていて、意外な程の火勢に少し驚く。俺はなるべく玄関から遠ざかりつつも状況次第では叔父を盾にできる位置を考えて、叔父の少し後ろに立った。


「君もお疲れさん。頑張ったじゃないか半月」

「頑張ったというか……片付け以外はひどい目に遭ってた気しかしませんね」

「私からすれば片付けが一番の苦痛なんだけどね。おかげで助かったよ」


 ありがとうと純粋な感謝の言葉を投げかけられて、俺は照れ臭いのと困惑とでどんな顔をしていいのか分からなくなって顔を逸らす。居候の立場で家主から感謝を述べられるというのも珍しい体験なのではないだろうか。


 まだ傾きもせず眩い夏の陽の中で、送り火は鮮やかな朱色に燃える。

 その傍らを見覚えのある赤い革靴が通り過ぎて、俺はぎょっとして叔父の腕を掴んだ。


「叔父さん」

「送り火だからね。迎え火の逆だよ、火宅から奈落へお帰りなのさ」


 革靴を先頭にしてぞろぞろと、数日前に見た靴どもが玄関から歩き去っていく。下駄もぽっくりも運動靴も、年代も種類も様々な履物がどろどろと庭先を歩いていくのを見れば、この靴の数だけ何かしらが帰ってきていたのだなということに思い至って鳥肌が立った。だからこそお盆という行事が長期休暇を許されるほどの重要さを以て扱われているのだなと納得すると同時に、その最中でさえ仏間で寝起きしていた叔父はとんでもなく鈍感なのか強靭なのかそれともひたすらに自棄なのか判断が付かなくなって、俺は杖代わりに掴んだ腕の持ち主の顔を見る。

 いつものように表情の薄い、のっぺりとして心情の掴みづらい顔。そのくせともすれば血縁の面影が仄かに過る、そして発露の条件と感性の顕れ方が独特ではあるが、情動の豊かな人間だ。

 俺も随分このひとに慣れたのだなと他人事のように思った矢先、それは果たして良いことなのかどうかという疑念が思考を掠める。住み慣れれば地獄でも飯が食えるとはどこかの作家の随筆で読んだ覚えがあるが、そもそもそんなところに住み慣れてはいけないのではないだろうか。

 そんなことを思いついて愕然としていると、叔父はぼんやりと遠くを眺めながら、呟くように口を開いた。


「君もいつから学校なんだ」

「大学生なんで八月いっぱいは休みですよ。明けは一限からあるんで早いですけど」

「本業がそっちだ、頑張りなさい。お盆が過ぎればしばらくは何も無いから……散らかりそうになったら勝手に片付けてくれ。それくらいしか思いつかない」

「家事もできる範囲でやりますよ。居候ですよ俺は」


 大家でしょう叔父さんというとほんの少し照れたように笑って、叔父はゆっくりと目を細める。その表情を見ながらこのひとは案外笑うのだよなあと妙な感慨を覚えた。


 じゃわじゃわと鳴く蝉の声と照り付ける日射しを浴びながら、玄関から歩き出でる靴もその数を段々と減らしていく。


 見て分かるほどに靴底の擦り減った革靴が駆け去って行ったのを最後に、玄関からは草鞋一足出ては来ない。ふと気づいて視線を向ければ、めらめらと燃えていた送り火も最早小さくなり、殆ど灰の山になっている。叔父はいつの間にか用意していたバケツをばしゃんと躊躇も風情も無く送り火の上でひっくり返して、灰の浮いた水たまりを靴先でざりざりと躙る。


「夕飯はそばにしよう。出前があるんだ」


 海老天そばでも頼もうじゃないかと言って、叔父は八重歯を覗かせて笑った。


※   ※   ※


 届いた海老天そばと天ぷらの盛り合わせは随分と豪勢で、外出せずにこれだけのものを食べるような良い目に遭ってしまっては帳尻合わせにバチが当たるのではないかと考えるくらいだった。海老はうまい。揚げ物もうまい。そばもうまい。ならばそれらをまとめた食事がまずい理由が見当たらない。その上に出前であるのだから何の文句も無い。蕎麦の支度で面倒なあれこれをせずに済む。

 後片付けをしなくていいというのは、食事を外注するにあたって最大の利点だと思う。雑多な食器や器具をちまちまと洗う作業がないのはそれだけで素晴らしい。出前なら皿の数枚で事が済むのだ。大きい鍋を洗うには体力より気力を要求される。それらが無いというのは幸せなことだ。

 洗い終わった出前の食器を水切りに立てた辺りで、後ろから叔父の声がした。


「済んだんなら風呂入って来なさい。お湯入ったから」

「いいんですか一番風呂」

「いいよ。これから映画観るんだ」

「何観るんです」

「ミイラのやつ。サソリも出る」


 オープニングだけきっちり観たいだろと分かるような分からないようなことを言って、叔父はそのままグラスと麦茶の入った薬缶を机に置いて、その前にのそりと座る。梃子でも動きそうにない頑なな背中を見て、俺は言われた通りに風呂場へ向かった。


 もうもうと立ち込める湯気の中に踏み込めば、足裏がひやりとしたタイルに触れる。掛湯をしてから無駄に深くて広い浴槽に身を沈めれば、一瞬びりりと痺れるような熱の感触があってから徐々に麻痺した皮膚から全身が弛緩し始める。深々と息を吐きながら視線を上げれば、夜闇に黒々と染まる摺りガラスがぷつぷつと水滴を浮かべているのが見えた。

 転がり込んでから半月、散々な目に遭ったと言うべきだろう。未だに起こる諸々の事柄に慣れはしない。腰も抜けるし悲鳴も上げるが、まだ気は狂っていないし何より死んでいない。ならばまだ逃げずにいられるだろう。大学もまだ一年目だ。そもそもあの叔父を放っておいてはいけないような気もする。今年のお盆こそ無事に乗り越えることができたが、それは俺が諸々の手助け――部屋の片付けや買い出しに代表される――を行った結果でもある。おこがましいのは重々承知だが、俺が居たからこそ起こるべき大惨事を未然に防ぐことができたのだろうと考えて、流石に恥ずかしくなって顔に湯を叩きつける。それなりに盛大な水音が浴室内に響いて、ほんの少し愉快な気持ちになった。

 しばらく浸かって分かったが、湯温が高い。壁に設置された温度計を見れば、見事に四十二度を示している。健康番組なら徹底的にダメ出しをされる温度だ。のぼせる前に上がろうと考えて、まずは髪を洗おうと湯船に手を掛ける。


 ばん、と窓ガラスを叩く音。見上げればガラス越しに白い影がゆらりと揺れる。浴槽から立ち上がろうとした姿勢のまま硬直する俺の目の前で、もう一度窓が音を立てて揺れた。


 この家に来た初日、叔父の言っていたことをようやく思い出す。これは新館にいだてさんかもう一方かどちらだろうか。鍵を開けなければ大丈夫だと言っていた筈だ。そのはずだ。

 影が動き、窓が打たれる。窓に張り付く掌は、ガラス越しにもひどく白い。べたりと張り付いては剥がされて、また音を立てて叩きつけられる。叩かれ続ける窓を前にして、俺はようやく絶叫した。

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