夜話・弔問客

 仏間から零れる明かりは煌煌として、花瓶に生けた百合が生臭く香る。ぎりぎりと螺子ねじ鍵を閉めた玄関は冷えた薄闇に満ちていて、夏だと言うのに身震いしながら仏間へと戻る。ぐるぐると回りながら周囲の壁を彩る盆灯籠と山と積まれた供物を従えて、いつもより堂々とした顔をしているようにさえ見える仏壇の前まで歩く。そのまま火が消えているかを見ようと、香炉を覗き込む。

 

 何の気なしに持ち上げた手首が懐かしい喪服の袖に擦れていて、ああこれは葬式だったかと盛大に装った仏間の様子に合点がいった。


「この度はご愁傷さまです」


 背後から聞き慣れない声がして、そのまま俺はぐるりと振り向く。取り払って繋げられた和室には、黒木の大机が堂々と居座っている。


 白々とした電灯の下、開け放たれた縁側に充ちた夜を背負って、喪服の人物が一人。手本のように美しく正座をしたままこちらを向いて、深々と礼をしてみせた。


 先程玄関には鍵を掛けたから、庭先から上がってきたのだろう。この葬式が誰のものかは未だに思い出せないが、恰好から考えればともかく俺は喪主ではないが遺族ではあるだろう。対してこれが誰かと考えれば、先程の物言いからすれば恐らく弔問客の一人だ。ならばいたまれたなら返さなければならない。それが遺族の役目だろう。とりあえず客に向かうように座ってから、俺は同じように頭を下げた。


「ありがとうございます。生前はお世話になりました」

「いいえ。本当に良い方でしたので、こうして来たのは私の意思です」

「どうぞご焼香を。十万億土の足しになります」


 では失礼してと言って客が立ち上がる。白い靴下がするすると畳を擦って、しばらくすると清かな香の匂いがした。せ返るようだった百合の香が少し薄れたかと思うと少し間を置いて鈴の音が二度鳴り、手を合わせるような気配があった。


「本当はもう少し早く来るはずだったのですが、何分なにぶん支度に手間取ってしまいまして。こんな時間になってしまいました」


 戻る畳の音さえさせず、再び客は現れた時と同じく正座したまま目の前にいて、その滑らかに白い左手にはいつの間にか一升瓶が握られている。

 正座した膝の前にはメーカーロゴの印刷されたグラスが一つ置かれていて、見る間にそれは満々と酒を注がれ、そのまま俺の前へと差し出された。


「約束したものですので。お収めください」


 淡々とした感情の乗らない声に告げられて、俺は言われるがままに受け取ってゆっくりと飲み始める。客人の表情を伺おうにも何となく視線を上げるのがはばかられて、黒いネクタイを眺めながらグラスを空けた。


「お好きだと伺いましたので。

 ――そう片付けて頂けますと、こちらでも用意した甲斐があります」

「ありがとうございます、ただあの、」

「充分に存じております。あれから随分経ちました。お久しぶりです」

「申し訳ありません、どちらでお会いしたのか」

「あの時は冬でしたがね、何分時期が悪かったもので。中々気付いて頂けなかったものですから、さすがに難儀しました」


 少しも心当たりの無い、一方的な再会に居心地の悪さを感じながら、恐らく彼が言っているのは母の葬儀だろうと見当をつける。あの時は兄が喪主だった。出棺で強烈な雷を伴う俄雨にわかあめに降られ、読経の最中に木魚が転げ落ち、焼けば骨もほとんど残らず粉ばかりという笑うべきか嘆くべきか躊躇ちゅうちょするような葬式だったのを覚えている。


「大変良い供養でした。あんなことをしたのに、あれほど賑やかに送ってもらえるなんて果報者です」


 辛辣な内容をひどく親し気な声音で語って、客は粛々と酒を注いだグラスを差し出す。好意か敵意かも判然としない、有無を言わさぬ様子に黙ってまた飲み干せば、グラスを奪い取られてなみなみと注いで返される。


「母と何か……ご友人ですか」

「一方的な知人です」

「仕事仲間とかそういったお付き合いですか」

「一方的だと申し上げました。そういったものではありません」


 問いかければ答えと共にグラスを渡され、俺は問うては酒を干す。問いを重ねども何一つ明らかにならず、ただ呑んだ酒の量だけが増えていく。

 もう何度目かも分からないが客の手にした酒瓶が空になるような様子は一向に無く、機械的に空のグラスに八分目まで注いで、ずいと差し出しては言うのだ。


「大まかにも覚えて頂けないのは私の落ち度で仕様ですが、それでも惜しむ程度は許してもらいたいんですよ」


 愉快そうな物言いに目線を上げれば、笑った口元だけがかろうじて視界に捉えられる。白々と尖った歯と薄い唇。しかしそれよりも目を惹くのは、僅かに覗いた舌の赤さで、流れるように語られる言葉と共にぬるりと捩れるその仕草にぞくりと悪寒が湧いた。


「――あの」

「どうぞ。まだ干されておりません」


 言われて受けたグラスを途中まで傾けて、唐突に喉が引き攣って盛大にせ返る。落としたグラスの中身が畳の上に盛大にぶち撒けられて、日に灼けたい草がぬらりとした色に変った。


「失礼を――すみません、もう」

「お気になさらず。けども約束が違うじゃありませんか」


 まだ平気でしょうという声と共に、するりと客が優雅な動作で右手を持ち上げる。

 須臾しゅゆ、酔いで意識が途切れる。首元に生まれた圧迫感にすぐさま覚醒して、思うように動かない目玉を無理矢理にそちらに向ければ、錆び切った鉈の刃がびたりと突き付けられているのが見えた。

 ごつりと鉈の背が酒気に染まって熱い喉元に触れる。酒瓶を掴んでいたはずの客の手は俺の肩口を押さえつけて、貼りつくように力の籠った手には何の温度も感じられない。ざらざらとした錆の感触が肌に擦れて、熱を伴う不快感がじわりと広がった。

 どくどくと心臓が打つたびに、肌越しに動脈が鉈に触れる。ひっくり返って眠ってしまいたいほどに酔っているのに、そんなことを客前でするのは失礼だという常識が、辛うじて正気を押しとどめている。正座のまま酩酊に耐えかねてふらふらとする上半身を、鉈が支えているような具合だ。


「あの時は――でしたが、今度の式はあなたが喪主だ。ならばこうする口実がある。互いに機会が合っただけの話です」

「人違い、でしょう。俺は……喪主には、なれない」


 父も母も、送ったのは兄さんだ。俺はただ邪魔にならないように眺めていただけで、この家を継いだのは後始末と口封じのようなものだ。本質的な後継ぎというのなら、俺ではなく兄さんか、


「立場の話はしていないんですよ。あなたが送り残したひとがいるから、私はこうしてまた来たんですから」

「覚えが――ない、んです、が」

「そうでしょうね。けれども私はあなたを覚えていますよ。それはとても嬉しいことなんです。なのにあなたがいつまで経っても終わらせないから、私はこうして機会の度にご忠告に伺ってるんです」

「だから何だと、」


 何を忘れていると言っているのだ。俺が何の始末をつけていないと言っているのだ。相手に詰問されていることの内容が何一つ分からずに、俺は困惑と焦燥に塗れながら、眩む視界の中で必死に考える。

 何が手遅れだというのだ。何もかもが今更だ。俺がこうしているのが何よりの証左だろう。すべて終わってしまったからこそ、俺はこうして生きているのに。


「だから始末を付けろと言っているんですよ。一方死んだ、片方生きた、なら未練がましい真似をするなと申し上げているんです」


 自分の鼓動が妙に強く聴こえる中で、滴るような声が滔々とうとうと流れる。最早耐え切れず閉ざした瞼を透かしてちらちらと盆灯籠の光彩が射して、走馬灯のようだなと思った。

 纏いつく夜闇、回り続ける灯籠の光、息苦しくなるほどの百合の香、血の煮立つようなたちの悪い酩酊。数々の情景を手繰って、いつか覚えのある状況だと遠くなった思考が呟く。

 不本意だが客の言う通りだ。考えたくもない、だから憶えていたくもない。俺は致命的なことを忘れている。


 これは誰の葬式だ。麗々しく飾られた仏壇には、誰の遺影が上がっているのか――それを一目見たいと思っているのに、酔いに塞がれた目は頑なに開いてくれない。


「きちんと忘れてやらないからですよ。私のことは覚えずに済んだのに、――のことだけいつまでも覚えている」

「済みません、多分、間違ったんです――か」

「間違い続けていらっしゃる。だからこうして、私は度々ご注進に上がっているんです。今回はその、特別待遇です。ここまでできたのは初めてですので」


 迂遠うえん遠因に辿ればお坊ちゃんのおかげですねと客は言って、ぐいと当てられた鉈に力が入る。その口調はあくまでも穏やかで、ともすればこちらの無作法をたしなめるような気配すらある。一層激しくなる鼓動に耳を塞がれながら、俺は何とか口を開く。


「……見当が、つきます。母のじゃない。あの葬儀だ。あのひとだ。そうでしょう。だけど――あんた、一体、何だ」


 すると唐突に肩口を掴む手も喉元の鉈も外れて、俺はどろりと溶け崩れるようにして畳に倒れ込む。い草に染みた酒の匂いが瞑った目に染みて、目尻に涙が浮かぶのが分かった。


「折角思い出したのに、惜しい話です。どうせまた、きっちり覚えては頂けない。因縁も因果も一方通行ならただの通り魔です。縁が薄い」


 最もあなたも同じでしょうと笑いを含んだ声がして、すっと瞼越しに影が降りる。立ち上がった客に見下ろされているのだと、僅かに残った理性が判断した。


 刹那ぶんと凄まじい風切り音がして、首筋に獰猛な衝撃が伝わる。皮膚と骨が引き攣れ歪む感覚を最後に、ぶつりと意識が途切れた。


※   ※   ※


 遠慮がちに肩を叩かれる。伴って何かわやわやと呼びかける声がして、私はゆっくり目を開ける。


 清かに射す朝日を存分に浴びて、泣き出すのを堪えているのかそれとも怒っているのか判然としない表情の甥が、こちらを見下ろしていた。


「心臓に悪いじゃないですか。わざわざ仏壇の目の前で倒れることもないでしょう。一族郎党が泣きますよ」

「……君か」

「何ですか。不満ですか」


 救急車呼んだ方がいいんですかと聞かれて、私は黙って首を振る。そのままゆっくりと起き上がって供物机にもたれる。微かな頭痛と気怠さは有るが吐き気も胸焼けも無い。これで二日酔いを名乗るには無理があるだろう。

 どうやら昨夜、仏間での宴会の片付けを終えたまま行き倒れるように眠ってしまったのだろう。寝室まで辿り着けずに、火元の確認を終えた辺りで酔いが回ったらしい。久々の日本酒だからといって呑み過ぎたのだろうと、年甲斐も無く無自覚にはしゃいでいたらしい自分に呆れた。


「どうして果敢に罰当たりに挑戦するんですか。そんなところで独自性を発揮しないでください」

「ちゃんと片付けは済ませたろう。戸締りだってした」

「そこは立派ですよ。どうしてここで寝たんですか」


 正論だからこそ返答のし辛い甥の話を聞き流しながら、私は昨夜の仄かな記憶を辿ろうとする。見れば縁側の雨戸は閉まっていて、畳の染みも取り落としてしまったグラスも何一つ見当たらない。

 つまるところ昨日の残滓は何もない。私が夢だと言い切れば、それが事実になるだろう。


厚宮あつみやは」

「二日酔いですよ。二階の畳の上で寝てます」

「布団あるだろ。夏だけども風邪を引くぞ」

「あんたがそれを……嫌だって言ってわざわざ畳の上に寝直したんですよ。俺はもう知りません」


 それより何かあったんですかと僅か怯えたような顔をして、甥がこちらを見る。ひそめられた眉間には年相応にしわひとつ無く、こいつはまだ子供なのだなと当たり前のことに気付いた。


「夢見が悪かったんだよ。妙なやつに分からんことで詰られる夢だ」

「本当に夢ですか」

「夢だよ。生きてるもの」


 適当に答えて首筋を撫でれば、ぞろりと妙な感触が指先に残る。ぎょっとして見れば、指先は赤錆を擦ったような汚れに染まっていた。

 甥は私の指先と目を交互に見ながら、致命的な告知を待ちうける患者のような表情で、唇を噛んで黙っている。


「ただの汚れだ。夢だよ」


 不安そうにしている甥と自身に言い聴かせるように断言すれば、甥は数度目をしばたたいてから、分かりましたとか細い声で答えた。


「風呂沸かしてくれるか。厚宮二日酔いだろう、風呂に入れて渋茶と何か食わせれば何とかなる」

「分かりました。叔父さんはどうするんですか」

「厚宮の後で入るよ。昨日入りそびれたからね」


 とりあえず手を洗ってくるよと立ち上がろうとすれば、慌てた様子で甥が駆け出して行った。大方仏間を出る最後の一人になるのが嫌なのだろうと見当がついて、おかしくなって少し笑う。

 微かな頭痛に嘆息しながら、私はできる限り体を揺らさないようにして歩き出す。ひんやりとした敷居を踏みつけながら、そろそろと背後を振り返る。


 仏壇の両脇に供えられた百合。あの夜闇の中噎せ返るような香を放っていたそれは、花首をぼたりと床に落として清々しい緑の茎だけになっていた。

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