八月閑話

閑話・誰かの声

 つまり頻度の問題ですと俺は言った。すると何か妙なことを言い出したなと言いたげな顔をして、叔父は背後の食器棚から取り出した茶碗を持ったまま首を傾げてみせた。


「何を言い出したの君。ぶつ切りで単語だけ出したって何にも伝わらないんだから伝える努力をしなさい」

「叔父さんにそれを言われるのは大変不本意です。そうしてこれは愚痴なので文脈が死んでいたって問題は無いと思います」


 つまりどうして俺ばっかりおっかない目に遭うんですかと心の底からの疑問をぶつけたところ、叔父はしばらく目をぱちぱちとさせてから、


「引きが悪いんじゃないのか」


 別に君ばっかり特別な訳じゃないだろうと多感な時期の少年少女に言ったらそれこそ一生恨まれそうなことをさらりと言って、叔父はすいと台所へ向かう。何やらがさがさとしていたかと思うとポットからお湯を注ぐ音をさせて、叔父は急須を手にしてもう一度俺の前に座った。


「おっかないったってね、別に毎度無事に済んでるじゃないか。手足の一本二本や内臓でも失くしたっていうなら深刻に考えないこともないけど、君五体満足だしご飯だって美味しいだろう。今朝だって筋子ご飯お代わりしたじゃない」

「そういう致命傷にならないなら問題ないって考え方がどうかってことなんですよ。ほらあの――流行りでしょう心的瑕疵要素。そういうやつですよ」


 人間らしく情緒を大事にしましょうって言ってるんですと言うと、やはり叔父は腕を組んだまま少しだけ首を傾げた。


「感情の話っていってもなあ……そんなに怖いのもないだろ。それこそ頻度の話に戻すけど、それこそここだけ飛び抜けておかしいってこともないんじゃないのか。良くも悪くも大分悪くも、結局はただの田舎だよ、ここ」


 曰くや由来がちゃんとあったらもっと栄えるか廃れるかしてるだろうと言われて、俺にも何となく叔父の言わんとすることが分かる。妙なものがいるのもおかしなことがあるのも事実だけどもただそれだけのことであり、そんなことは売りにも傷にもならないような地味で日常的なものであるからこその『ただの田舎』だと、そういう一番どうしようもない事実を述べているのだ。

 驚きはするが致命傷には至らない。そういう匙加減の恐怖が一番たちが悪いんじゃないだろうかとも俺は思うが、映画や伝説になるような威力の高いものに遭遇するのはもっと恐ろしいということに気付いて、これ以上掘り下げるのを躊躇した。

 叔父はそんな俺の苦悩自体にはいつものようにあまり興味が無いらしく、急須と時計を交互に見ながら口を開いた。


「君はこの辺りが変だ変だというけどね、きっと君のとこだってそうは変わらないだろ。きっとどこだってこんなものかここよりひどいかぐらいだよ」

「いやあここ変ですよ。看板も変ですもん。俺初めて見ましたよ『変質者の方の立ち入りはご遠慮ください』って立て看板」

「それは――そんなの君どこで見たの」


 叔父が一瞬言葉に詰まる。それから私も見たことがないなと言って場所を聞くので、大学通りのビル前でしたかねと答えれば、あの社員寮のとこかと思い当たったようだった。そうしてしばらく目を瞬いて物を考えていたようだったが、あそこらは人が多いからねと俺にはよく分からない理屈で納得していた。

 俺もその看板を初めて見たときは我が目を疑ったのだけども、要求としては間違っていないのに表現を間違えるとこんなに居心地の悪い代物ができるのだなと感心したのだ。そういうものを平然と作って受け入れてしまい、外部の人間――つまるところ余所者の俺に指摘されるまで違和感を持たないという状況が、既にここいら一帯がおかしいという証左なんじゃないかとも思う。


「まあそういう――場外乱闘みたいなのを出されてもほら、駄目だろう一部の例外を一般化するの」


 君のところのそういう話はなかったのと言われて、俺ははたと考え込む。聞かれたからには答えないといけない。しばらくそれほど自分の長くも盛り上がりも輝きもそれほど無い半生を振り返って、僅か引っかかるような記憶を何とか引きずり出した。


「怖いかどうかはよく分からないですけどね、しっくりこない話ならありますよ」

「おや。じゃあちょうどいい、話しなさい」


 お茶請けにちょうどいいからねと言って叔父は急須から俺の湯呑にどぽどぽと茶を注いで、押し付けるように渡す。それから手品のように迷いのない手つきで背後の棚からゴマ煎餅を出してきて、にこにことして俺の方をしっかりと見た。


※   ※   ※


 高校三年生の夏のことだ。俺はその頃まだこんな恐ろしいところではなく、それなりの田舎にある実家に住んでいた。受験生の夏という何かと切迫する時期だったが、特段反抗心も焦燥心も色んなことを考えることがその当時からあまり興味が無かった俺としては、特に不満を抱くこともなく、黙々と補修や講習を受けに出かけては帰る毎日だった。

 俺が住んでいたのは栄えた市から離れて山に近いなかなかの僻地であったので、電車は単線の私鉄のみという随分な環境だった。ローカル線にはありがちなことだが、基本的に運行本数が都会の大手とは比較にもならない。一本逃がすと次が一時間後なんていうのは日常茶飯事だったし、下手をすれば終電とその一本前が二時間近く空いているような無体が当然でもあった。

 そんな運行な上にローカルな私鉄だからこそ、一週間も乗れば日付や時刻でだいたい同乗者の顔を覚えてしまう。だからいつもの時間にちょっと見慣れない奴が乗るとやたらと目立つという田舎らしい環境だった。ある種ぼんやりとした保証と信頼を互いに持っているようなものだが、それは逃げ場も避け方も無い日常への監視と共有によって成立するものであるからこそ、繊細だったり小心だったりと『人間らしい人間』であるほどに居辛いものでもあるだろうな、とは俺にも少しだけ理解ができた。

 各々の乗る駅もどのくらい乗るのかもどのあたりで降りるのかも何となく分かっているので、自然それぞれの座る場所も決まってくる。俺がだいたい座るのは二台しかない列車の車端部にあたる隅の席で、一応受験生らしく単語帳をぺらぺらとめくっていた。


 車両ががたんと揺れる度にうねる連結部の蛇腹に時折目を取られながら、俺は黙々と単語を頭にしまい込む。乗ってから二駅ほど過ぎたせいかそれなりに車内は混み始めていて、気付けば向かいの席に見慣れた中年男性が座っていた。彼はいつものように駅の本屋のカバーが掛かった単行本を丁寧にめくりながら、時々強く入り込む西日に顔をしかめていた。


『錯覚:思い違い。勘違い。

 危惧:心配。恐れること。

 遺憾:心残り。気の毒。』


 黙々と単語の意味を目で追っていく。すると駅名のナレーションが聞こえて、ドアの開閉する音がする。ぱらぱらと人の乗り降りがあったのが物音で分かるが、降りる駅には未だ着いていない以上は気にする理由が俺には無い。それよりも単語帳という教材を買い与えられたからには、きちんと習得しなければ受験生としてそれなりの言い訳が立たない。だから別段面白いとも苦痛だとも思いもせずに、いつもの気に入りの本を読むように単語帳をつらつらと眺めていた。

 止まっていた電車がまた走りだし、がたんがたんと単調なレールの軋る音が一定の間隔を保ち始める。いよいよ強くなる西日はまだ熱を帯びていて、首筋がちりちりと灼けているのが分かった。


「あの――うるさくして済みません」


 そう声をかけられて、俺はぎょっとして隣りを向く。

 聞き覚えも馴染みもない女性の声だ。ひどく申し訳なさそうなその声音は、それほど大きくもないのに列車の雑音をかき消して、俺の不意を突いた。


「は、いや、別に何も、大丈夫です」

「済みません、いつもはこんなにぐずらないんです。ご迷惑とは思いますが、次の駅で降りますので」


 ゆったりとした五分袖のオレンジのシャツに、ぴったりとした黒のパンツ。少し短めに切りそろえられた淡い茶髪。先程乗り込んできたのだろう、この路線で見かけたことはないが至って普通の街中で見かけるようなカジュアルな出で立ちの女性だ。

 彼女は胸元に抱えたものを時折ゆらゆらと揺すったり撫でさすっては、少し困ったような微笑むような顔をして見せる。そのままついと上目遣いにこちらを向いて、僅かに頭を下げて見せた。

 ああこの人は赤子を抱いていて、その子がぐずり出したかどうかでこんな風に申し訳なさそうな顔をしているんだなと俺は気付いた。未だ泣いてもいないのにそんなことをあらかじめ謝るというのは、以前どこかでトラブルになったことがあるのだろうなと考えて、子供連れというのは大変なのだなと同情した。ならばせめて隣席の自分がこの車両の代表になろうという訳ではないけれども、本当にうるさくも何ともないということを伝えて、この女性に安心して欲しいと思った。


「本当に大丈夫です。気にしないでください」


 そう言って単語帳から顔を上げて、俺は女性の方をしっかりと向いた。


 不安と慈愛を滲ませた微笑みを湛えた目が、じっとこちらを見ている。

 日にも焼けずに白い腕の中、大事そうに抱えた人形は艶の無い合成樹脂の肌を赤々と陽に染めて、インクのべたりと貼りついた目は、差し込む夕日の赤すら塗り潰す黒さを浮き上がらせていた。


 ああこの人には声が聞こえているんだ、その泣き声があまりに凄まじいから、それを隣りに座った俺もうるさいと感じると思ったんだな。なるほど主張が一貫していると――そんなことを感心した。

 正直そこから何をどう答えたか覚えていないが、彼女はそれ以上特に何かを気にした風も無く、俺は努めて自然に単語帳に集中する仕草に戻った。それでも視界の端に映るいつもの男性が必死で目を瞑っているのがちらちらと見えて、あれならこの凶暴な夏の夕日も眩しくないだろうなと思った。


 電車が止まり、車内放送が駅名を告げる。彼女はすっくと立ちあがり、そのまま開いたドアから降りて行った。車窓から見える背中はどちらかと言えば華奢な女性の背でしかなく、その腰のあたりにウエストポーチが括りつけてあるのに気付いて、そうかあれなら両手が空くから赤子を抱くには便利なんだなとぼんやりと思った。


※   ※   ※


「道理は通っているね。そりゃ泣けばうるさいもの。もっとも赤子は急に黙る方がだいたいおっかないけど」


 大昔に君が黙った時は木魚をぎたぎたにしていたねと全く覚えがない俺の所業をさらりと述べて、叔父はお茶を一口飲んだ。俺も温くなった茶を半分ほど飲み干してから、言葉を続ける。


「あの路線三年使いましたけど、びっくりしたのはそれくらいですかね。あとは乗り過ごしたから戻れって言ってる人を一回だけ見たことがあります。黄色かったです」

「電車でそれは無理だろう……無理だよね?」

「一緒に乗ってた友達とも話しましたけどね、多分無理じゃないですかね。熊ノ木本線じゃないんですから」

「あれは専用列車だからなあ。あれを普通として考えるのは何もかも無理だなあ」


 まあどこにいても何かしらにはぶつかるもんだねとしみじみと言って、叔父は明らかに湿気ているせいかめしめしと地鳴りに耐える柱のような音を立てながら煎餅を齧り、器用に欠片の散らばらないように一枚を食べ切った。

 確かにどこにいても事故に遭うのはその通りだ。外に出れば車に撥ねられるのも猪に轢かれるのも人に刺されるのも、どれも確率の差こそあれありうることである。極論閉じこもったところで空から小型機に突っ込まれたらこちらに何の落ち度がなくとも、あっさり人は死ぬのだ。


「かち遭わないのが一番お互いのためなんでしょうけどね、どっちにも過失がないのにぶち当たった場合はどうすればいいんですかね」

「前に似たようなことを言う人に会ったけどね、熊と同じだから静かに逃げるんだってさ。私もそう思うよ。わざわざ当たりに行くのはそういう仕事の人か趣味の人だよ」

「いるんですかそんな人」

「需要があればどこにでもいるさ。私には無理だ」

「俺もそうです。怖いのは苦手です」


 それなりに真面目に生きてるのにどうしてこんな目に遭うんですかねと呟けば、


「だから引きが悪いのさ――それ以上にどうこう言うなら、生まれか日頃の行いか前世のせいか選べばいいだろ」


 どうしようもないことというのはあるものだと、叔父は珍しくしみじみとした口調で言って、湿気た煎餅の入った袋をこちらに寄越した。


「ところで思ったんだけどね、君。聞いてくれるかい」

「何ですか。ひどいこと言わないでくださいよ。繊細じゃありませんが臆病ですよ俺は」

「怖いことなんか言わないよ……その女性、『うるさくして済みません』っていったのだろ?」

「そうですね。申し訳なさそうでした」

「本当は聞こえていたのかもしれないね」

「は」


 この人は何を言い出すのだろう。


「君以外の人達にはさ、その人形の泣き声がちゃんと聞こえていたりしたら面白いね」

「人形は泣かないでしょう」

「けどその人には泣き声が聞こえていたんだろうからさ、そこを踏まえて条件は幾つか考えられるじゃないか」


 言って叔父はべたんと骨ばった手を机の真ん中に置く。何を始めるのかと思ったら、そのまま順番に指を折って数え始めた。


「一つ目、泣き声は女性にだけ聞こえた。

 二つ目、泣き声は君以外のみんなに聞こえた。

 三つ目、泣き声は自分と君にだけ聞こえると女性が判断した――これくらいでどうだろう、好きなのを選びなよ」

「三つ目何ですか。どうしてそんなことを思われたんですか」

「君が途中で似たようなこと思いついてたろ。あらかじめこいつには謝っておいた方がトラブルにならない、って判断したんだよ。基準は知らないよ個人の内面だもの」


 ひょっとしたらもっと色々あるかもねと言って、叔父は僅か口角を上げる。この人は本当にロクなことを考えていない時の方が人間らしく生気に満ち溢れている。何かの罰でも当たった結果でこんな風になってしまったのだろうかと、俺は悲しくなった。


「……どうしてそうやって怖い状況のパターンを増やすんですか。ひどいことをしないでください」


 俺これから一人で寝るんですよと詰るように言えば、今度こそ叔父は愉快そうに笑った。

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