閑話・二人連れ

「何だか君電車に向いてないんじゃないのかい」

「電車の向き不向きを言及されたのは初めてです」

「自分の適性ってさあ、意外と分からないもんだよ。したいこととできることはよく見誤る」

「交通機関の適不適って可能不可能で言い換えられる類じゃないんじゃないですか」


 昼下がりの居間。ぼんやり食卓についていたら、叔父からカップに並々と入ったコーヒーを渡された。大方思い付きで気まぐれが動機なのだろうが、結果としては善行だ。礼を言ってコーヒーをちびちびと飲んでいると、叔父がのそりと俺の向かいに座る。すると突然に乱暴な問いを投げ掛けられた。聞き流すのも無作法だろうと逃げ出すのを諦めて、いやに年季の入った菓子鉢を挟んで相対しながら、叔父と俺は適当な言いがかりと胡乱な返答を繰り返しているのだ。

 私は電車でそういう目に遭ったことはないねえと言って、叔父は少しだけ首を傾げてどこかあらぬ方をじっと眺めてる。それからもうもうと湯気が立っているのに香りが全くしないコーヒーに口を付けて、


「失敗ったら寝過ごして何にもない駅に降りたことぐらいしかない。君より生きてるけど、君みたいな目にも遭ってない」

「俺が曰くつきみたいな言い方をやめてください。不本意です」

「そんな訳ないだろう。その程度で何の曰くが有るっていうんだ」


 厚宮あつみやぐらいになってからそういうことを言いなさいと、他人の名前まで使って丁寧に叱られて、それなりの理不尽さに腹も立たずに困惑する。曰くの薄さについて指摘を受ける日が来るとはこれまで想像したこともなかった。


「厚宮さん。厚宮さん、ですか」

「この間うちに来ただろ。あのどうみてもチンピラみたいなやつ」

「ひどいことを……ひどいことを言うのやめましょうよ。あの人見た目と声以外はいい人だったじゃないですか」

「追い打ち掛けてるあたり君も随分だけどね。あいつも電車に乗るの向いてないからね」

「乗り物酔いとか、そういった」

「そっちじゃないね。相性が悪いやつだよ」


 ひとりだと何ともないんだと言って、叔父はがりがりとごま煎餅を噛んでいる。傍の袋から茶菓子のお代わりを菓子鉢にがさがさと継ぎ足しながら、相手の利き手を教えるような何気ない口調で続ける。


「妹がいるんだけどね、あいつ。兄妹二人連れで電車に乗るとろくなことにならない」

「ろくなことにならない」

「君の基準で言うとひどい目に遭ってるんじゃないかな。本人のうのうと生きてるけど」


 せっかくだから話してやろうと珍しくわくわくとした様子で言って、叔父はべたりと血色の悪い頬を撫でた。


※   ※   ※


 発端から躓いていたのだ。見たい映画が市内の映画館でかかるそうだから、せっかくだから趣味の似通った妹と連れ立って見に行こうと思い立った。通勤は徒歩であるため、わざわざ車を取りに家に戻るのも面倒だ。それよりは職場にほど近い電車を使った方が恐らくは楽だろうと当て込んで、互いの終業時刻と上映時刻を擦り合わせ、映画館の最寄り駅での現地集合にしようと約束したのだ。待ち合わせの時刻までには大分余裕を見て電車に乗ったのに、何故か飛び込みがあったり車両トラブルでダイヤ調整のために最寄り駅で余分に停車したり車内でばったりと倒れるやつが出たりとイレギュラーが続いたのだ。結果、駅には予定時間ぎりぎりに到着してしまった。このあたりから験の悪さが見え透いてはいたのだ。慌てて辿り着いた待ち合わせ場所には案の定微妙な顔をした妹が待っていた。どうやら厚宮の遅刻を責めているわけではなさそうなので訳を聞けば、彼女も約束の時刻に余裕を持って仕事を終え、悠々と退社し十分に猶予を見て、最寄駅から二駅分の距離のために電車に乗ったのだ。しかし乗った電車が線路立ち入りや人身事故で遅れたらしく、結局彼女も遅れまいと急いでここに来たのだと不本意そうに言った。


「いつものことだろ」

「待ち合わせに遅れるのって嫌じゃん。心臓に悪い」


 お互いに自分のせいではないと分かっているからこそ気まずい心持のまま、とりあえず目当ての映画を観てしまおうと目的を思い出して、厚宮たちはばたばたと映画館へと向かった。


 映画鑑賞自体には何の瑕疵も無く、迷惑な観客や目障りな諸々に遭遇するどころか、ほぼ無人と言っていいような客の入りだった。そのため夕食代わりのポップコーンにポテトをつまみながら、貸し切りのような気分で悠々と観ることができた。映画の内容も良かったのだ。前評判通りの目を背けたくなる後味の悪さと救いの無さを思い切り堪能して、しみじみと人間の愚かさとおぞましさと踏みにじられる無垢について語り合いながら帰路に着いたのだ。


「お前今日は実家来るのか」

「金曜だから行くよ。先週シュシュ置いてったもの。お母さんのご飯が食べたい」


 厚宮は実家住まいであるため、妹が帰宅先に実家を選ぶということは、二人揃って同じ電車に乗ることになる。何となく今までのことと今日の初っ端にかち合った不運を思い出して不安になるも、ローカル線の悲しさで電車の選択肢がない――これから乗る予定の一本が路線の最終電車なのだ。国鉄の裔の癖にこの時代に夜の九時過ぎで終電が出るというのは色々おかしいんじゃないのかなどと思いながらも、たかが市役所員と一般企業の事務員にどうこうする術があるはずも無い。互いに何とも言えずに目を見合わせてから、定期の無い妹のために切符売り場へと向かった。


 改札を抜け、急ぎ足で降りたホームは人もまばらで、既に到着した電車は青白い電灯に照らされながら停車している。ボタンを押せば車扉はすぐに開いて、クーラーの冷気が吹き付けてきた。二人とも乗り込んでから車内のボタンで扉を閉めて、ちらりと車内を見回すが、終電とはいえ所詮ローカル線だ。多少人はいるが、到底混雑しているとはいえない。広々と空いている客席に兄妹並んで座れば、どちらともなくため息が出た。


「二十分ぐらい?」

「何もなければね」


 ないに決まってるじゃないと言って、妹はどさりと座席の背もたれによりかかる。向かい側の窓ガラスには人相の悪い男女――自分たち兄妹が隣り合って座っているのが夜闇の暗さにはっきりと映っていて、似てはいないが他人にも見えないなと厚宮はぼんやりと思った。

 することも無く鞄から取り出したスマートフォンの画面を見れば、もう数分で発車時刻だと分かる。目的の駅に着くまでたかが二十分、ネットニュースや電子書籍でも眺めていればあっという間だろうと考えて、厚宮はもう一度ため息をついた。


◆   ◆   ◆


 ふと電車の揺れが気になって、厚宮は時刻を確認する。乗ってから十分は経っているだろう。このまま何事もなければ、もう半分ほどで降りるべき駅に着くはずだ。

 ぼんやりしていた間に乗客の乗り降りがあったようで、無人だった向かいの席には二組の脚が見えた。片方は男物のスニーカー、もう片方は真っ青なパンプス。寄り添って座っているような距離で、都合四本の脚が並んでいた。

 田舎のローカル線、しかも終電だ。ひと気も少なくうら寂しい車内にはあまりにも不釣り合いな青い靴にぎょっとして、厚宮は好奇心を抱く。一体どんな人間がこんなに派手な靴を履いているのだろうか。下種な考えだがそれを見ておきたくて、さも外の景色が気になるだけですよとでもいうような芝居をしながら、厚宮はスマートフォンの画面から目を上げた。


 白い歯と、引き延ばされた桜色の唇。見開かれた目は青味がかった白目がいやに目について、吊り上がった口角とほうれい線の深さに、これは笑顔なんだなと数秒遅れて理解する。


 満面の笑みを浮かべて、女性は厚宮をじっと見ていた。


 慌てて、しかしあからさまにならないようにと計算しながら、ゆっくりと厚宮は手元へと視線を戻す。数回無理矢理に瞬きをしてから、突然にどくどくと激しくなる鼓動に自身の動揺の深さを思い知って、自分が何を見たのかを反芻する。


 隣り合って座る男女。男性は腕組みをしたまま居眠りをしていて、女はそれに寄り添い、男の肩にべっとりと頭を預けて、こちらを見て笑っていた。

 たまたまかと思いもう一度視線だけを上げて見れば、再びあの笑顔の中の視線ががちりと合って、流石に慌てて目を伏せる。明らかに女性はこちらを、厚宮を認識して、こちらに向けてあの盛大な笑顔を浮かべているのだ。

 必死で手元のスマートフォンに集中しているふりをする。まじまじと見てはいけないと、自分の中の恐怖心ががんがんと警鐘を鳴らしている。けれども完全に見ずにいるのも恐ろしくて、文字を追う視線の動きに合わせてごく自然に向かいに視線を向ける。するとこちらに向けて見開かれた目がきらきらと蛍光灯に光っていて、慌てて画面に目を戻す。

 女性は一言も発さない。けれど恐怖心に負けて視線を向ける度に、だんだんその笑みは深くなり、もはや歯茎が剥き出しになっている。甘えるように頭を預けられた男性は一向に目を覚ます気配は無く、女性もまた厚宮から目を逸らそうとしない。

 すいすいと画面を撫でて文字を眺め、ちらりと視線を上げては慌てて伏せ、その度いよいよ強く感じられる視線に肌を粟立たせる。せめて何か気付いてくれないかとじっと隣りの妹を見るが、こいつはこいつで深々と眠りこけていて、厚宮がここで刺されようが電車が横転しようが起きそうにない。


 視線の圧力。電車の規則正しい軋み。時折寄り付いた虫の影で瞬く電灯。吹き付ける冷房の風が、乾いた目にしみる。


『――次は北猪池尾、北猪池尾です。北猪池尾駅では全てのドアが開きます、お降りの――』


 電車のアナウンスにぎくりとして、やっと降車駅に着いたのだと厚宮は安堵する。電車はゆっくりと速度を落とし始め、厚宮は乗り過ごさないように慌てて妹の肩をつつく。妹は一瞬びくりと震えてから半眼でこちらを見て、


「着いたの?」

「着くよ」


 降りる準備をしろといえば素直に頷いて、寝ている間にずり落ちた鞄を改めて肩に掛け直している。その最中にも妹が不用意なことを言ったりしたりしないだろうかと厚宮が一人ではらはらしているうちに、電車はゆるやかに停止して、アナウンスと共に扉が開いた。


 厚宮と妹、二人は立ち上がって扉へと向かう。

 座席から通路、そして車扉をくぐり夜のホームに降りるその瞬間まで、じりじりと背中を焼くような視線が纏わりついていたのが振り返らずとも分かった。


※   ※   ※


「一人だと何ともないのにね、二人で乗るとそんな目にばっかり遭う。難儀な話だね」


 二人揃って一人前なんだろうかと分かるような分からないようなことを話の締めに言い置いて、叔父は三枚目のピーナツ煎餅をべきりと割った。俺は訳が分からないのに何となく不安になるような話を延々とされたせいで、すっかり冷えて飲み時を失ったコーヒーを一口啜る。そうしてついぞ語られず、気になっていたことを口にする。


「あの……何だったんですか、それ」

「ん?揃って電車に乗るとロクなことにならない兄妹の話」

「概要ではなく、もっとピンポイントなところです。その女性は何だったんですか」

「見せびらかしてたんじゃないか、って妹さんは言ってたよ」

「見せびらかす……ああ、そういう、ああ?」


 つまりこういうことなのだろうか。

 その女性は厚宮兄妹をカップルだと勘違いしていた。終電の車内でスマートフォンに夢中な彼氏と、それを咎めるでもなくひたすら眠りこける彼女。そんなよそよそしい間柄の二人に見せつけるために、居眠りする彼氏に仲睦まじく寄り添い甘える彼女としての有様を行動で示したと、そういう意図を想定するのだろうか。

 ざっくりと述べた俺の予測を叔父は興味深そうに聞いてから、顎をするりと生白い指で撫でて、


「二対一だなあ」


と言ってから、何故か俺に向かっていか煎餅を滑らせてきた。


「当てたからあげよう。大体そんなことを妹さんも言ってた」

「厚宮さん――お兄さんは違うんですか」

「お兄さんはね、『私は彼氏にこんなこともしてあげます、どうですか、って誘われてたんじゃねえかな』って言ってた。頭が悪いだろ」


 その誘いに大変たげ怯えたのにねと、無意識だろう訛りを混ぜ込んで言って、叔父は笑った。

 妹さんと俺が、女性の動機を誇示とする意見で二。厚宮さんが誘惑説で一。叔父の立ち位置が明らかになっていないのが気にかかった。


「叔父さん」

「何。追加を出さないよ。バター煎餅は開けると湿気るから」

「違います。叔父さんは何だと思ったんですか」

「合いの子みたいなやつ。いいとこどり、みたいなね」


 前提を少し変えるだけだけどねと言って、叔父は続けた。


「女性と男性は隣り合っただけの他人で、女性は見せびらかしてたんじゃないかなって」


 内容を呑み込むのに少し時間がかかって、俺はいか煎餅を両手で持ったまま硬直する。みし、とひびが入った音に我ながらおかしくなるほど動揺したと同時に予測ができて、まじまじと叔父の顔を見た。


「……見せびらかすものが変わりますね。関係性じゃなくて、自分自身が誇示すべき価値を持ってることになる」


 赤の他人の肩にべっとりもたれ掛っても許される、自分の魅力と全能ぶり。それを兄妹に見せつけていたからこその優越の笑みだったのではないかと、叔父はそういうことを考えたのだろう。

 恐る恐る述べた俺の解答はそれなりに正解に近かったようで、叔父は珍しく普段はぼんやりとしている双眸を見開いて、ここに住み込んで始めて見るような嬉し気な顔をする。そのまま景品でも渡すように、俺にもう一枚黒ごま煎餅を手渡ししてきた。


「私はそういう説を取るね。少なくとも厚宮を誘惑するよりは真実味がある」

「ただそれだと被害者が増えますね。寄り掛かられていた男性はどうなったんでしょうか」

「さあ。死ぬほどびっくりしたんじゃない」


 楽し気な叔父を見て、俺は混乱する。何がいいとこどりだというのだろう。思いつく中で一際恐ろしいものを掛け合わせている。最早何度思ったかも分からないがこの人はどうして絶景の中に野晒しを見つけ出すような真似ばかりしているのだろうかと、呆れるを通り越して褒めてやりたいような気分になった。


「まあ全部予測だし、仮定だし、言っちゃ悪いが妄想だ。ひょっとしたら何の理屈も無くて、そうしたかっただけなのかもしれないしね」


 世の中そんなものだよと言って叔父はコーヒーを飲む。

 それを見ながら、そっちの方が怖いじゃないかという言葉を呑み込んで、俺はいか煎餅に齧りついた。

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