閑話・誰も来ない
こちらを向いた女の顔はびたびたと涙に濡れていて、滴がぽたぽたとひっきりなしに、そのほっそりした顎を伝い落ちている。街灯に照らされた顔はぬらりと青ざめて、春の薄闇にくっきりとその肌を晒していた。
縁も所縁も、心当たりも一つもない。何せこちらは二日前に越してきたばかりだ。その上部屋の整理や荷解きに係りきりであったので、外には一歩も出ていない。いい加減実家から持ち込んだ食料が尽き、部屋が人間の住める最低限の環境になったのが今日の昼で、疲労困憊から倒れるように午睡を貪った結果、目が覚めたのは夜の六時だった。夕飯の買い出しに出ないと食料が無いことを確認して、身支度をざっくりと整え、暗くなってから買い出しに出かけると言うのは大変に一人暮らしらしいなと妙な感慨に耽りながら初めてマンションの表玄関から一歩を踏み出した途端に、こんな状況に遭遇したのだ。
玄関の真正面に立っている女は、俺のことには恐らく気付いていない。持ち上がった顎と逸らされた喉から、上階を見ているのだろうと見当がついた。服装は至ってカジュアルな、華やかな小花柄のワンピースで、裾から伸びる脚が黒タイツに覆われているのは冷え性なのだろうか、と明らかにどうでもいいことを俺は思った。
女と俺の距離は、三段ほどの段差を含めても数メートルしかない。田舎ならすれ違いざまに軽い会釈でもするべきだろうが、泣き声一つ上げずに滂沱の涙を流している人間相手に、果たしてそんな普通の対応をしていいものだろうか。人間的には悲しみに暮れる女性を気遣い声をかけるべきなのだろうが、まだ十八年しか生きていない俺にとってはこの状況は手に余る。会話が成立しても大変なことになる気配がするし、しなかったら更に恐ろしいことになる予感がある。
考えた結果、俺は最も普遍的で非人道的な選択をした。見て見ぬふりだ。
何事も無かったように歩を進め、何もいないように都会の景色を観察するように視線を巡らせ、何も気付かないような素振りで女の傍を通り過ぎる。決して女と目は合わさないように、女を視界から見失わないようにして、俺は悠々と呑気に足を動かす。
女の真横に並んだ瞬間、視界の端でその痩せたおとがいがこちらを向いているのに気付いた。目を合わせなければ大丈夫だ、と右の拳を握りながら進める二三歩が不自然な早足にならないように、俺は無心になって足を動かす。
そのまま女の背後に回り、マンションの敷地から表通りの歩道へと出る。そのまま左に曲がれば、背中にじりじりと感じる視線は途端に消えて、俺はとうとう堪え切れずに走りだす。歩道には当然だが帰宅途中の学生や社会人らしき身なりの人々がぽつぽつと歩いていて、その人たちとすれ違う度に、俺の緊張はだんだんと解れていく。同時に駆けていた足も速度を徐々に落として、早足ぐらいに落ち着いていく。それでも足を止める気にはさらさらなれず、冷や汗で背中がびたびたになっていることに気付いたのは、目的のスーパーの目の前に有るスクランブル交差点を八割ほど渡り切る頃になってからだった。
がくがくと突っ張る脚を何とか宥めつつ、スーパーの前に置かれた駐輪場までたどり着いてから、ため息とも悲鳴とも判断しがたいような息を長々と吐く。手すりに手をつこうとして、握りしめたままの右手の拳が真っ白になっているのに気付いた。
苦心して左手でこじ開ければ、短い爪の深々と食い込んだ痕がずらりと残っている。見事に並んだ爪痕が何だか歯型のようで、ほんの少し嫌な気分になった。
※ ※ ※
「それから事故物件?」
「嫌な言い方しますよね本当に。関係あるかどうかが分かりませんけど、その後に殺人事件ですね。分かりませんよ関連性は」
「流しの不審者なのかもしれないものね。関係ある方とない方、どっちが怖いだろうか」
「それ対義語お抱えの不審者になるんですかね……動機のどうこうじゃないですよ。必死でしたからね俺は」
何せこれに遭遇したのが一人暮らしを始めた初日のことだ。悪名高い新聞屋や宗教以前にこういう予想外の一撃を喰らったものだから、恐れる怖がるというより前に途方に暮れてしまったのだ。こんな東北の大都市でもこんな目に遭う可能性があるのだから、かの魔都たる大東京はもっと恐ろしいのだろうなと思い、そう考えるとこの程度で済んだのはまだマシな方だったのだろうかと考えながら必需品を買ったのだ。流石に買い物を済ませた後もすぐに帰るのが躊躇われて、買い込んだ総菜や茶葉などをスーパー袋に詰め込んだまま、頼る宛も縋る先もなくぼんやりと駅の待合室で一時間ほど時間を潰して帰ったのだ。
「帰ったら誰もいませんでしたけどね。カードキーの認識が慣れないせいで手間取って……その時が一番怖かったかもしれませんね」
「うん?」
「いつの間にか後ろに居たら、とか、一緒に入り込まれたらどうしよう、みたいな。オートロックだとあるでしょうそういうの」
「ああそうか。君が何かの手引きをしたことになるのか。引き込み役だね」
「つくづくひどい言い方しますよね。その通りですけど」
そもそも刃物が出たら俺も危ないでしょうと言えば、確率は無いことはないねとぼんやりした答えが返ってきた。午後のお茶請けに何か面白い話をしろと振っておいてこんな気のない相槌を打つのだから、つくづくこの叔父は人付き合いに向いていない。俺の話が例えつまらなかろうが、要求に応えたのだから相応の芝居ぐらいはするのが礼儀ではないだろうか。
そんなことを思いながら、俺は話を続ける。
「どこかの居室見上げてたと思うんですよね。だからまあ……用があったのはその部屋の人にでしょうから、多分俺は対象外だったんだと思うんですけど」
「用が有るなら呼び鈴使えばいいのにね」
「そういう真っ当な手段だと断られるような間柄なんじゃないですかね。入れてもらえないなら出るのを待つしかないじゃないですか」
「磯良さんは根比べに勝ったものね。良かったね君見逃してもらえて」
刃物は刺さると辛いからねと何の役にも立たなそうなことをしみじみと言って、叔父は冷えた麦茶を茶碗に注ぐ。そのまま飲むでもなく茶碗を手で包み込んで、俺の方を見た。
「大都市の怖さを初日で知ったのだろ。どうだい、逃げ出すまでに他に何か有ったの」
「あとはこう、手形ですかね。そういう細かいのがあった上での刃傷沙汰だったんで、致命傷ですよね容量的に。段階踏めばいいってものじゃないですよ何でも」
「手形?」
「俺の部屋じゃないんですけどね、学生棟と一般棟を区切るこう……防火扉みたいなやつですね。そこの一面にべたっと赤で。早朝にものすごい叫び声がしたんで何事かと思いましたよ」
折悪しく可燃ごみの日だったため、人目を避けようと早朝に起きたのが裏目に出たのだ。ゴミ袋を片手に玄関を出て鍵を掛けた瞬間に凄まじい絶叫が生で聞こえるのだから、よく腰を抜かさなかったと今でも思う。反射的に声の方を向けば防火扉の前で座り込んでいる青年がいて、そのすぐ傍にはゴミ袋がぽんと投げ出されていたので、この人もゴミ捨てに外に出たのだなということだけは分かった。
傍に駆け寄れば青年は一度座ったままびくりと跳ね上がってから俺を見て、どうやらこいつなら勝てそうとか安全だろうとかそんな具合に判断でもしたのだろうか、「あれなんですかね」と防火扉を指した。素直に視線をその指先に向ければ、べたべたと赤い手形が扉の下部に縋りつくように押されているものだから、驚いた俺は隣に仲良く座り込んでしまったのだ。
掻い摘んで話した体験に、叔父は何故か感心したような短い溜息を吐いてから、
「赤でやると大体は恐ろしい絵面になるからね。悪戯ったってそういうのはいけない。そもそも共用部じゃないか」
「そのお兄さんと管理会社に連絡して、まあそれきりでしたけどね。すぐに業者が塗り直しに来ました」
「君そういうのは怖くないの」
お化けあんなに怖がるのにと言って、叔父は大皿から梨をもう一切れ取る。さくさくと見る間に食べ切ってから、不思議そうな顔で俺を見た。
「女性にしても手形にしても、生身の人間っていうのは、何するか分かんないだろ。いきなり刺されてたら、君との再会が病院か葬式かになってたんだから」
「今日は一際物言いがひどいですね……人間相手なら、普通に逃げるとかその、物理的な対策が一応あるでしょう。成功するかどうかはさておきますけど」
「お化けだって同じだろ。構わなければ大丈夫だったりするもの」
「常識で対抗できるかどうかが分からないじゃないですか」
地雷を踏まなきゃいいだけだろうと平然と言う叔父には一切の迷いが無く、だからこそ俺は恐怖を深くする。俺が臆病なのかこの人が豪胆なのかは判断のし難いところではあるが、少なくともこの一線については分かり合えないだろう。
乱暴に言えば、人間は物理的に対抗すれば是非はともかく結果は確実に出るのだ。どれほど恐ろしい人であろうが気が触れた人であろうが、逃げるなり縛るなり殴るなり、物理的な対策を取れば成功率はともかく何らかの効果は出る。極論重機で轢けば大体は動かなくなるのだ。社会的な正義をさておけば、対抗手段はいくらでもある。
それに対してお化け――というか何かしら常識の埒外にいるものについては、果たして物理的な対応が有効かどうかといったところから怪しいのだ。思い出すのも恐ろしい話だが、先日に遭遇したような歩道橋とほぼ同じ高さの女性に、果たして常識的な対応が通じるかどうかと言えば答えは否だろう。叔父に前以て正しい対応を教わっていたからあの程度で済んだのであって、もっとひどい目に遭う可能性はいくらでもあったのだ。厄介なのは、その『正しい対応』というのが普通の人間にはとんと見当がつかないことが殆どであることだろう。訳も分からず身上を賭けた勝負を張らされて、あまつさえその勝負の規則すら教えてもらえない。巻き添えにされて道連れにされる、本人の意志や素行に善性悪性主義主張とは無関係に――そういうところが、俺はとても恐ろしいのだ。
「例えばうちの蔵とかそうじゃないですか。入って前科が有ったら犬になるなんて、初見殺しで人生棒に振らせる方がひどいとは思わないんですか」
「棒渡したじゃないか」
「あれは対症療法でしょう。しかも手遅れの状況に対しての」
軍医が兵士にモルヒネ打つのとどう違いますというと、ちゃんと大事に飼うよと何一つ問題点を解決する気のないであろう回答が返ってきて、俺は叔父に対してこれ以上追求することの無意味さを悟った。この人はつまり対抗しようとか反撃しようとか、そういう意志が殆どないのだ。あくまで最低限、関わり合いにならずに穏便に危機を回避していくのが叔父のやり口であって、遭わないのが大前提、かち合ったとしてもそ知らぬふり、それでも避け切れなければ運が悪いと諦めるのだ。思い切りがいいというより諦め切っているとでも言うべきだろうか。少なくとも俺には真似ができない。
叔父は俺がそんなことを考えているとはつゆほども知らず、黙々と梨に手を出しては齧りつき、大皿に盛りつけた分が半分ほどになったくらいで何かに気付いたのか、皿を俺の方へと押し出して、
「君も食べなさい。美味しいんだよ梨」
人とあまり分けて食べないから、と言い訳じみたことを呟いて、叔父はひどくばつの悪そうな顔をして見せた。この人は傍若無人の人でなしかと思えば、時折我に返ったようにきちんとした人のような真似をしてくるので、こちらとしても対応に迷うのだ。幸い社会的な倫理や常識に於いては比較的平均に沿ったものを規範としているようなので、結論としは普通に生きていればお互いにどうこうなるようなことも無く、平穏な生活を送れるのだ。少なくともこの人は暇だろうが鬱屈していようが悲嘆に暮れていようが、他人を巻き添えにしたり、自分の苦悩や狂気をあからさまにするような真似をすることは決してないだろう。
「叔父さんは分かりますか」
「何。悪かったよ梨食べ過ぎたのは。何ならもう一つ剥くよ」
「違いますよ。俺そんなに梨に執着しませんから食べてくれていいですよ……人の話ですよ。泣いて待って、何でそんなことしたんですかね」
「知らないよ。趣味だろ。十二月なら人恋しいって泣くのは歌で聞いたけど」
「聞き方を間違えました。そんなことをしたくなる理由っていうか、その――」
「そうしなければ気が狂う、みたいな話じゃないのか」
突然に色んなことを飛び越えた回答が返ってきて、俺は意表を突かれて叔父の顔を見る。叔父は大して面白がっているとも怒っているとも判別しがたいのっぺりとしたいつもの顔で、早速許可の出た梨を齧りながら続けた。
「色んな理屈は付けられるけどね、基本的には『そうしたいと思った』で話が済むだろう。そこに到るまでに悲しい悔しい嬉しい寂しい憎い恋しい――色々情緒はあるだろうけども、その辺を類推するとこっちの気が狂う。動機も手段も、本人以外にはどうでもいい話だ。他人と世間に関わるのはおよそ結果が出たときだけで、必要なのもそれだけだろ。
大事なのは『何が起こるか』であって、『何故起こるか』じゃない」
どんな理由でも包丁が刺されば痛いだろうと言って、叔父は傍のティッシュで指先を拭う。気付けば皿は既に空になっていて、この人は本当に遠慮も容赦もあまり無いのだな、と思った。
「……たまにまともなことを言いますよね、叔父さん」
「たまにとはなんだ。基本的に普通なんだ私は」
普通の人は大皿に盛った梨を一人で食べ切らないんじゃないだろうか、とか叔父に纏わる様々な事を一瞬で幾つも思いついたが、最早言うだけ意味も甲斐も無いとも悟ったので、俺は黙って手元の麦茶を飲み干す。叔父は椅子の背もたれに凭れ掛かりながら、更に物言いを続けた。
「太陽が黄色いからって人殺すとキ印扱いだろう。社会人なら状況と結果に見合った動機を用意しないと怒られる」
「社会人というか……まあ、因果関係は分かり易い方がいいですね。特定のものにしか有効に働かない動機とか感情とかありますから」
「万能の動機なら何となく見当がつくぞ。便利なやつ」
「何ですか。どうせ酷いこと言うんでしょう」
「愛だよ。愛のせいにすれば納得するんだ世間様は」
これ代入すれば大体何とかなるんだろうと言って、叔父は楽しそうに笑う。やっぱり酷いことを言うじゃないかと思って、俺は空になった茶碗に麦茶を注ごうと薬缶に手を伸ばした。
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