夕の先遣り
我々が最近の携帯端末及び通信回線の普及に対してひときわ恩恵を認識するのは、料理のレシピを探す時だろう。最低限の技術さえあるのなら、材料と調理法が分かりさえすればなんとなくそれらしいものぐらいはできるのだ。絶品や美食を求めずに普通の料理を作ろうと試みる俺のような人間には、現代の状況は意欲や労力を最小限に抑えてそれなりの質を確保することが容易くなった分、ぼんやりと生きることの難易度も下がったのだろう。それは俺や叔父が証明できる。
それらしく出来上がった煮付けに満足して背後を振り向けば、叔父は黙々と精霊馬を量産していた。
「静かだと思ったらきゅうり一袋になんてことをするんですか」
「明日になったら浅漬けにするよ」
穴開いてると染みていいじゃないかと乱暴なことを言って、叔父は一向に悪びれた様子もない。ぞろぞろと牧場のように精霊馬を机に並べて満足気に眺めている。
いい大人にここまで堂々と遊ばれると、どう対応していいのか分からない。確かに精霊馬はお盆には必要だ。だがそれだけで全ての支度が済むというものでもない。この土地のお盆は、煮物や酒や赤飯などそれなりにバリエーションのある料理を準備しておく必要がある。このひとはそれほど馬鹿という訳でもないのに、どうしてこうも情熱を傾ける先を軽率に間違えるのだろうと俺は不思議に思った。
「叔父さんこれまで煮物とかどうしていたんですか。お盆だと必須でしょうこの辺じゃ」
「去年は君たちが来てくれたからなあ……あれだ、ミエルで
「叔父さん」
「なあに」
「何で馬に脚六本つけたんですか」
「多い方が便利だろ。ほら……ドラウプニルとかそんなのいただろ」
「それは指輪です。スレイプニルならおこがましいからやめましょう。バチ当たりますよ」
「三途の川クルーザーがありなら神馬凱旋ぐらいありだろ。飛ぶように帰ってくるよ」
絵面を想像でもしたのだろうか、叔父は楽しそうに目を細める。普通ならば不謹慎だと咎めるべきなのだろうが、俺も祖父の葬式で三途の川の渡し賃に小切手を書いた身である以上は返す言葉もなく、諦めて鍋に向き直る。中火で十分かかるなら強火にすれば半分になるんじゃないかと考えて、祖母がそれですさまじいカレーを作っていたことを思い出して踏み止まった。あの人は勉強も運動も社交もそれなりに上手い方だったのに、料理だけは手の施しようがないくらいに残念な腕だったのを思い出した。
「煮物済んだら仏間に大机出そう。夕方になったらお墓に行くよ」
「何しに行くんですか」
「お迎え。今日から帰ってくるんだよ」
あとは今日から酒が飲めるぞと言って、叔父はにんまりと笑ってみせた。
* * *
いつか来た墓地だ。だが叔父は墓石にはしゃぐことも無縁仏に構うことも無く、段取りよく水場から寺紋入りの手桶に水を汲み、すぐさま目的の墓に辿り着く。がさごそと家から持ち出してきた紙袋から木の皮を取り出して墓前に重ねるように置いて、風向きを気にしてかきょろきょろと周囲を見回してから、手持ちのマッチで火を点けた。
「何ですかこれ」
「迎え火。やったことない?」
「無いですね。父がそういうの嫌いなんで」
「焼き芋好きなのにね。兄さんは昔から
私はどっちも好きなんだとおよそ同じ
「一応お線香あげよう。もう少し燃やしたら帰るよ」
「マッチ貸してください。ろうそくが無い」
「ここから取ればいいじゃないか」
言って叔父は迎え火を指さす。流石にそれは用途が違うんじゃないかと自分でも明確に言い表せない疑問を抱いて叔父を見ると、
「聖火点灯みたいで楽しいだろ。同じ火だよ」
細かいこと気にする奴なんてうちの血縁にはいないよと妙に説得力のあることを言うので、俺は線香の束を炎に突き入れる。見る間に線香に火は移り、白い煙がゆるりとたなびいた。
線香皿に束を置けば、満遍なく火が付いたせいか盛大に煙を噴き上げ始める。通夜の火の番で部屋を燻したときといい勝負ができるような具合の勢いで上がる煙は、風向きによっては目に染みるような量になっている。
「煙が目に染みるって何だっけ。覚えのあるフレーズだよね」
「俺はエッセイのタイトルで読んだ覚えがあります」
「うんそれもある……兄さんから何か……フランクだ」
「叔父さんから大分縁遠い単語じゃありませんか」
「違うよ人名だよ。フランク・シナトラ。ジャズだねきっと、兄さんジャズかぶれだったから」
「今もかぶれてますよ。休みになると喫茶店みたいな曲聞きながら麻雀打ってます」
「それ勝てるの?」
「だから弱いんですよ。俺に教えておいて勝てないんだから相当なもんでしょうに」
あの人負けず嫌いですからと言えば、叔父が深々と二回頷いてみせる。実弟ならば思い当たる節があるのだろう。実子の俺が言うのだから間違いはない。勝てる勝負は何度でも仕掛けてくるが、一度負けた勝負は絶対にしようとしないのが俺の父だ。トランプでも将棋でも百人一首でも、種々の手遊びを教えておいて俺に勝てなくなった途端に一つたりとも仕掛けてこなくなった。大人気ないと言えばそれまでだけども、引き際の見極め――能力の適不適を見る目だけは確かなのだろうなと思うようにしている。
馬鹿なことを話しているうちに陽は傾き、迎え火は随分と小さくなった。叔父はがさりと紙袋から懐中電灯と炭鋏を取り出して俺に渡した。
「点けなさい。帰りまで消したり落としたりしたらいけないよ」
言ってばしゃんと水桶をひっくり返す。迎え火は濡れた灰の塊になり、叔父はそれをひょいと炭鋏みで拾って、空になった水桶を持ってすたすたと歩きだした。
「叔父さん」
「灰片付けて返してくるから待ってなさい。すぐ戻るよ」
提灯は私が持つんだと言って、叔父はひどく嬉しそうな顔をした。
* * *
寺の門を抜ける頃には陽は随分傾いていて、赤々と射す日射しを背にすれば足元に黒々と影が浮かび上がる。叔父は火の入っていない提灯をぶらぶらと提げて――なんでそんな真似をするかと聞けば趣味だと答えた――いつもよりかは確実に楽し気な足取りで、昼の熱気の残る道をするすると歩いて行く。
それを追い越さないように、俺は懐中電灯片手に歩調を揃える。そのまま自分が何をしているのかやどのような状況にいるのかという諸々を務めて考えないようにする。
いい歳の中年が提灯を提げて歩いている、これがまず不審だ。
見慣れない青年が夕方に懐中電灯を点けて並んでいる、どうしようもなく異様だ。
こんなものを俺が見たら真っ先に目を逸らすと断言できる。確実にまともな連中じゃない。何か考えたくもない事象の真っ只中にいるとしか思えない。なまじ客観視をするほど泣きたくなるような現状を噛み締めながら、それでも俺は歩みを止められない。
背後からざらざらと、足音が追いかけてくる。俺と叔父の分だけではない明らかに複数人のものが、寺を出てから絶え間なく背後で
振り返ろうとしてどちらの可能性があるのか分からなくて叔父を見れば、眩しそうに西日に目を細めているばかりで、
「叔父さん」
「眩しくっていけない。夏はだから外に出たくないんだ」
「叔父さん。あの」
「振り返っちゃいけないよ。転ぶと耳が無くなるから」
すらりと何でもないように言われた言葉に、お盆当日からこのざまかと俺は涙ぐむ。死ぬのよりも何よりも振り向いて何が見えるのかが一番怖い。ぎくぎくと軋む足を無理矢理に動かしながら、俺はいい歳をして泣きだしそうになるのを堪えて下唇を噛む。
「さっき怖いお店を過ぎたからさ、あと少しだからぶっ倒れないでくれよ。面倒になるから」
「西藤商店だって、おれ、言ったじゃないですか」
「君は名前をよく覚えているなあ……そら、バス停を過ぎた。ちなみにここの家もうちの血縁だ。気が付いたら亡くなっていたけど」
「いらないことを言わないでください。なんなんですかあんたは」
「君の叔父だよ。分かり切ったことじゃないか」
のうのうと答える口振りに腹が立って、俺はもし転んだら叔父も絶対に道連れにしてやろうと決意した。どうしてこのひとは他者を事前の説明も無しにそれなりの危険に放り込むのだろうと考えて、そもそも最初の蔵掃除からそうだったなと思い返して不本意ながら納得した。
足音がする。革靴の硬い音、ざりざりと路面を擦る音、明らかに複数人の音がする。
おまけに今回は叔父自身も渦中にいるのだ。楽し気に歩道を闊歩し、空の提灯を揺らして、天気の話でもするように背後に迫った恐ろしいものについて言及する。これほど諸々に頓着が無い状態でどうして片肺を無くす程度でおめおめと生きてこられたのだろうかと、俺は心底から不思議に思った。
「ほらうちの塀だ。玄関の扉が全部開くまで振り返っちゃいけないよ。イザナギ様みたいなことになるから」
ゆっくりと歩道から逸れて、陽を吸ってなお黒い板塀の門をくぐる。夏の庭は夕陽に燃えるように染まって、焼けつくような赤色をしている。
足音はいよいよその数を増やし、からころと高らかな下駄の音が混じっているのが分かる。得体のしれないものの足音の方が生身の自分のそれよりはっきりと聞こえて、俺は一体どちらが現実なのかを疑い始める。
建付けと噛み合せの両方が駄目になっているせいでいつも難儀して開けるはずの玄関は叔父が鍵を差し込めばかちゃんと軽やかな音を立てて開いて、叔父はがらりとガラス戸を開ける。
扉が開いた途端、安堵感から膝から下の力が急速に抜けていくのが分かる。倒れるな、と思った瞬間、
「馬鹿!」
そのまま腰をがつりと抱え込まれて、無理矢理に体勢を立て直される。そのまま叔父は俺を担ぐようにしたまま思い切り踏み込んで、白木の戸を思い切り引き開けた。
「全部と俺は言ったぞ……脅かさないでくれ。びっくりしただろ」
雪国特有の二重玄関――ガラス戸の向こうにはもう一枚扉がある。家に入るにはここも開けなければならないなと、抱えられたままで俺は納得した。
そのまま叔父はざりざりと米袋でも持つように俺を引き摺って、玄関先の石段、その端に投げ置く。すると俺の強張った指が執念深く握り締めていた懐中電灯が予期せず叔父の顔を照らして、彼はひどく眩しそうに顔を逸らした。
「切りなさい。もう案内は済んだから」
「――叔父さん、」
「君のせいで提灯がひとつ駄目になったぞ。反省をしなさい」
お気に入りだったんだよと言って、叔父は座り込んだままの俺の横に立つ。見れば先程の一瞬で放り捨てたのだろう、提灯は玄関の傍に転がっていた。運悪く石段の角にでも当たったのか、横腹がへこんでしまっている。
聞きたいことは色々あるのに、どう口に出すべきかが分からない。阿呆のように叔父を見上げていると、その視線が真っ直ぐに門先を見ているのが分かった。
門柱に挟まれたアスファルトの道、赤々と夕陽に焼かれたその上。
黒皮靴、スニーカー、ぽっくり、下駄、軍靴、長靴、赤革靴。諸々、種々時代の異なるであろう多種の靴が、ずらりと爪先をこちらに向けて並んでいた。
夏の夕暮れ、ぼんやりと玄関で屯する男二人。その目の前をぞろぞろと靴だけが通り過ぎていくのを眺めながら、ここまであからさまにやられると怖がる余地も無いなと考えた。
「転ぶと危ないのが分かるだろ。踏まれると怪我する。この数ならえらいことになる」
「これは……これは、ご先祖なんですか」
「多分そうじゃないか。靴しかないから確証がないけど。迎え火で墓から連れて来るんだって、私は爺さんから教わったよ」
「爺さんはどれですか。いるでしょうええと……二等親とかそんなのだ。親族ですよ」
「分からない。親の靴なんて興味無いもの」
あの人律義だから帰っては来るだろうと実の親に対してさえ適当なことを言って、叔父は少し長く息を吐く。そんなことを言っている間にもぞろぞろと玄関口に靴が入って行くのだけども、最早目の前で起きていることの絵面が異様過ぎて怖がる余裕もない。幻覚でも現実でもどちらでも碌なものではないなと確信して、俺はこれ以上余計な情動を動かさないように色んな焦点を暈しながら、ぼんやりと靴の群れを眺めている。
傾く夕陽は鮮やかで、地面に俺と叔父の影は長々と伸びる。赤々と染まる影はまるで血に濡れたようだ。死に際すらも獰猛に光る夏の日差しの強さと彩に、いつか見た地獄絵の緋色のようだなと、そんなことを思った。
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