雨降る窓辺

 少しだけ寝坊して居間に顔を出せば、叔父が朝からスーツを着て所在なさそうに緑茶を呑んでいた。


「誰か死んだんですか」

「死んでくれたら出かけずに済むんだよ」


と、心底面倒そうな声音の物言いが返ってきた。


「呼ばれたから出かけてくる。昼勝手に食べてなさい。用が済んだらすぐに帰ってくるから」

「そうですか。行ってらっしゃい」

「鍵掛けてくからね、誰が来たって出なくていいよ。最も鍵掛けるから呼び鈴も押せないけど」

「内扉どうします。木の方も」

「掛けるけどネジの方締めないでね。私が二度と入れなくなる」


 この家の玄関は雪国特有の二重扉になっている。一枚目は普通のガラスの引き戸なのだが、内扉は千本格子の引き戸で、これが二重鍵になっているのだ。普通の鍵ともうひとつ、古式ゆかしいネジ鍵で締めるようになっている。夜の戸締りの時にはこのネジ鍵を締めるのが俺の日課になっているのだけども、原始的なだけ内側からこれを締めるともはや扉を打ち壊す以外に家に入る方法が無くなるという野蛮な代物で、物事は単純な方が威力があるということの証明のようになっているのだ。

 折しも外はすさまじい豪雨で、こうして話している合間にも、ばしばしと雨粒がガラス窓に当たっている。この雨の降りしきる中出かけなければならない辺り、この人は引きの悪いひとだなあと思った。

 叔父はそんな俺の考えなど知る由もなく、いつにも増した仏頂面で、


「雨だからね。窓を閉めたよ」

「雨降ると少し寒いですね。真夏なのに」

「陽が当らないと涼しくなるんだ。湿気ていやだっていうならクーラーつけていいよ」


 窓開けたらいけないよとだけ叔父が言った途端、表から微かにクラクションの音がして、じゃあ行ってきますと慌ただしく出て行った。

 叔父がきちんとした格好で出かけるなど珍しいこともあるものだなとぼんやり思いながら、俺は食べ損ねた朝食をとろうと冷蔵庫へとのそのそと歩み寄っていった。


※   ※   ※


 雨はいよいよ沛然はいぜんとして、時折強く吹く風の加減か、窓ガラスに吹き付ける雨粒が凄まじい音を立てる。それだけ激しく降る最中にもともすれば雲間から日射しが覗いて、気まぐれに水滴を光らせてはまたどんよりと雲が吹き寄せて影を落とす。その上真夏にあるまじき底冷えのするような気温であるから、これは流行りの異常気象の賜物なのかそれともこの地方の常なのか、余所者の俺には判断ができない。

 文句はあれども、俺は決して雨は嫌いではない。足先が冷えるのは難儀だが、種々の雑音が雨音で全て塗り潰されるというのはかえって気が散らなくていい。叔父も出かけたことだしたまには学生らしく勉学に励もうと考えもしたが、取っている授業が基本的に単位認定に試験を実施する種類のものであったのと、数少ないレポートを要求する分は既に済ませてあるので特にすることがない。スマートフォンで暇を潰そうにも、昨夜眠るときに居間に置きっぱなしにしたせいで電池切れの有様から二階の暫定的に俺の部屋である八畳の部屋で目下充電中であり、かといってパソコンを起動する気にも特にならない。結局叔父のようにテレビの専門チャンネルで適当な映画を流しながら面白そうな本を読むということで、降って湧いた自由時間の行動は決定した。本も映画も好きなものだが、こういった行為を率先して選ぶというのが自分がこの短期間で随分叔父にほだされてきたような気がして、何とはなしに面白くない。

 それでも洋間の無駄にふかふかとしたソファに陣取って、背後の本棚から取り出した懐かしい本――ミステリ・ベストセラーズの一冊、矢野浩三郎訳の赤い花と死刑執行人――を大窓から差し込む薄淡い日差しの中で読み始める。すると諸々の余計なことは遠くに過ぎ去って、整然とした文体と淡々とした物語が、文字を介してゆっくりと染み込む。


 ページを繰る音。降り続く雨音。映画は静かに見知らぬ異国の曲を滴らせる。


 自分以外が誰一人いない状況というものがこれほど満ち足りたものなのかと考えて、俺は少しだけ叔父がこの家に独りきりでいる理由が分かったような気がした。


※   ※   ※


 じりりりと不躾に騒ぎ立てるベルの音に殆ど腰が抜けそうなほど驚いて、俺は慌てて音の方に振り向く。

 見れば片隅にアンティークのように置かれた黒電話が吠えるように鳴っていて、稼働するのかあの電話と二重の衝撃を受けた。骨董品たる黒電話には勿論留守電などという便利な機能は無いので、俺は本をソファに置いて電話機の元に駆け寄る。受話器を取ったその瞬間、ばしりと雨粒が一際強く窓を打った。


「もしもし」

『私だけどね、なんで君スマホ出ないんだ。文明の利器をちゃんと携帯しなさい』

「叔父さんですよね?」

『それ以外だったら怖いだろう。これから帰るからお茶の支度だけしてくれ。昼食べただろ。私は食べた』


 電話でも雑な叔父の物言いに何となく落胆しながら、俺は傍らの小棚に置かれた時計を見る。時刻は正午を少し回ったあたりで、本を読み出して随分経ったのだなと驚いた。


「これからおにぎりでも食べます。お湯沸かす以外に何かありますか」

『まだ雨降ってるだろ。窓開けなきゃそれでいいや』


 すぐ着くから大人しく留守番してなさいとおよそ十八の男には言わないであろう台詞を最後に、ぶつんと通話が切られてそれきり何も聞こえなくなった。

 あの人は俺を幼児か何かと思っているのだろうかと漠然とした疑惑を抱きながら、とりあえず本を片付けて昼食の支度をしようとソファの方へと振り返る。


 洋間の大窓。嵌め込まれたガラスの上を振る雨が滝のように流れている。

 そのガラス一枚隔てた向こうに、灰色の外套に真黒な蝙蝠傘を差して、背を向けて立つものがいた。


 状況ははっきり見えている。それのに理解できずに俺は硬直して、叫ぶ前に自身の口を塞ぐ。映画は妙に軽快な音楽を流しているが、これをかき消す様な真似はしてはいけない、声を立てたら恐ろしいことになるとなけなしの本能が警鐘を鳴らしている。

 真夏に外套、その上に古臭い蝙蝠傘。そもそも人の家の窓の前に立ち尽くしている時点でまともじゃない。それより恐ろしいのは、それがこちらに背を向けているということだろう。

 覗き込むならまだ分かる。窓に貼りつくとか割ろうとするとか、そういうのはまだ分かる。明確な害意と敵意がある。何ならすぐさま逃げ出して警察を呼ぶ理由になる。


 けれどもそれがない。つまり意図が読めない。そうして俺の直感が言うことには――、そんな気がしてならないのだ。


 とりあえず目を逸らさずに、居間に行こうと部屋の出口に向かって後ずさりする。ひょっとしたらこいつが手にした傘を振り回して窓ガラスを割ろうとするかもしれないが、そうなったらとりあえず居間から洗濯場につながる裏口から畑を突っ切って逃げようと目算を立てる。現状上手く回らない頭では、それくらいしか思いつかない。

 それに居間には普通のプッシュ式の電話機がある。最悪の場合、それで通報すればいい。黒電話を使った経験がないことを後悔することになるとはと、このごろ予想もしないことばかり頻発している己が人生を後悔した。


 踵が沓摺くつずりに当たる。俺はくるりときびすを返して、廊下を飛び越えて居間の扉を引き開けながら中へと飛び込む。食卓の向こうの戸棚の上に置かれた電話機と、その背後の出窓が見える。


 その出窓に墓石のように立ち尽くす蝙蝠傘と外套を見て、俺は居間の扉にへなへなと縋りついた。


 同一のものなのか、それとも複数いるのか。どちらにしても先回りをされている。向けられた背中と蝙蝠傘には容赦なく雨粒が叩きつけられているだろうに、それは微動だにせずただ背を向けて立ち尽くしているのだ。


 居間の電話は使えない。あんなものの傍に近寄りたくない。洋間の電話も使えない。ダイヤル式の使い方を知らない上にもう一度あの大窓に立たれたら今度こそ腰が抜ける。最早笑い始めた膝をがくがくとさせながら、俺はやっとスマートフォンが二階にあることを思い出す。通報しつつ、もし侵入されたとしても二階には鍵の掛る部屋がある以上は時間稼ぎくらいはできるはずだ。

 階段を登ろうとして、ぎくりとして躓く。手すりに取り縋るようにして、俺は一段目に膝を着く。


 段差のきつい階段。踊り場から数段、階段を登り切った先に大窓があるのだ。


 これまではまだいい。あの外套傘が洋間で俺を見て、俺が逃げる先を予測して居間の窓に走ったって同じ事ができる。何なら二人がかりだっていいのだ。それなら頭はおかしいかもしれなかろうが人間の仕業にできる。


 二階の大窓、そんなところから覗かれたら、


 ざあざあと降りしきる雨音。吹き付ける風が屋根を渡る。自身の心臓の音が轟々と耳元で鳴る。徐々に息がうまく吸えなくなって、俺はとうとう動けなくなる。

 どうしてこういう時に限ってあの人はいないんだといい歳をして涙ぐみそうになったその時、がらがあんと凄まじい音がして俺は今度こそ悲鳴を上げた。


※   ※   ※


「何事かと思っただろう。私だって豪傑って訳じゃないんだ」

「だって――だって今回はさすがに無理です。無理でしたよ。気絶はできませんでしたがもう一歩だったと思います」

「気絶は難しいよ。私だって経験があんまりない」


 ともかく無事で良かったけどねと言って、白々とした蛍光灯の明かりの下、手土産のロールケーキをまな板の上で切り分けながら叔父は少しだけ長くため息を吐いた。


 あの瞬間、俺の自制心に止めを刺した怪音。その正体は建てつけの悪い玄関を叔父がこじ開けたものだった。タクシーを降り雨の中を玄関へと歩き鍵を回し力任せに扉をこじ開けた途端に甥の悲鳴が響き渡ったものだから、流石の叔父も驚いたらしい。土足のまま家に上がり居間へと向かおうとしたところで階段の一段目に蹲っている俺を見つけた。階段から落ちでもしたのだろうかと慌てたのもつかの間、顔色がひどく悪い以外には特に外傷もないので、とりあえず身体的に無傷ならいいかと玄関に戻って靴を脱ぎ床の泥跡を始末してから、叔父は怯え切った俺が左腕にしがみついたままでお茶の用意を始めたのだ。


 叔父が入れた紅茶はいつものように煮立っていて香りも味わいも無いのだけれども、とりあえず温度のあるものを口にしたことで人心地が付く。流石にいつもの席――出窓のすぐ横なのだ――に座るのは憚られて、居間の入り口近くの席に座ったのだ。恐る恐る出窓の向こうを見れども激しい雨に濡れる畑が見えるばかりで、怪しいものの気配はどこにもなかった。

 切り分けられたロールケーキをちびちびと口に運びながら起こったことの一部始終を説明すると、叔父は黙って聞いてから、


「それは不審者なら通報したっていいけどね……どっちだと思う、それ」

「どちらでも怖かったのは確かです。心当たりとか無いんですか」

「無いね。そういうのはあまり縁が無いから、新館にいだてさんぐらいしか心当たりがないもの」


 新館さん雨の日は出歩かないからなあと困ったように言って、叔父はかりかりと頬を掻く。


「私が来た時外に誰か居たかっていったらね、予想しているだろうけど何もいなかったんだよ。タクシーの音で逃げたって言えばそれまでだけど」

「そんなことで逃げるような人間があんな気の触れたことをしますかね」

「そこはほら人によるから……人の家の軒先に立つだけなら、この辺玄関先に米とか置いたりするからね。微妙なとこなんだよそういうの」


 そもそも新館さんやロバが野放しになっている時点で分かり切った答えだ。生身の何がしかならば迂闊に手が出せないだろうし、そうでなければ手の施しようがないのだ。

 叔父はいつもよりかは三割増しで気の毒そうな顔をして、砂糖壺とはちみつ瓶をまとめて俺の前へと寄越す。恐らく彼なりに慰めようとしているのかもしれないが、慣れていないことをするせいで嫌がらせのような絵面になっているのが気の毒だと思った。


「いっそ君が二階で見ていたら断言ができたんだけどね。浮く人をちょっとこの辺じゃ知らないから」

「そんなの見たら多分俺気が狂うか階段から落ちて死んでましたね」

「それは嫌だな。ありがとう無事でいてくれて」


 ひとりにして悪かったねと済まなそうな声で言われて、俺はあまりの驚きにロールケーキにフォークを突き立てたままで硬直する。この人がこんな人間らしい物言いをするなんてやはり俺は死ぬんじゃないだろうかなどと嫌な未来を直感してその顔をまじまじと見る。だが叔父は照れるどころかいつものように揶揄う気配すらなく、純然たる謝意と心遣いを浮かべた表情をしていて、この人はこんな顔ができたのだなと衝撃を受けた。


「一応三村さんに相談ぐらいはしておくけどね。まあ――あまり無茶をしないでくれよ。明日からお盆なんだから」


 いよいよ人手がいるんだよと言う叔父の言葉に、俺は衝撃から立ち直れないまま黙って紅茶を啜る。流石に今回は負荷が高すぎた。いつも以上に難しいことが考えられない。どうせ行く先も逃げる術もないのだから、とりあえずは我が身の無事を喜ぶべきなのだろう。

 ──ここに来てからもうそんなに経ったのか。

 ぼんやりとそんなことを思いながら、俺はロールケーキの一欠けを口にした。

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