歩く踏む鳴く
何年ものかも分からない、すっかり日に焼けて退色したカーテンに夏の朝日が透ける。赤々と射し込むそれはどこか夕日にも似て、時計を見ればまだ五時にもなっていない。何故こんな時間に目が覚めたのかと考えて、耳鳴りのようにサイレンが鳴っているのに気付く。火事か何かだろうかと訝しみながらぼんやりと耳を澄ませば、割れ歪んだ音の中にわんわんと響く放送が混ざっているのが聞こえた。
「こちらは……す。先程四時……に、ロバが出たとの通報がありました。近隣の……出をお控え……、こちらは――」
田舎の放送特有の響きの重なりとひっきりなしに鳴っているサイレンのせいでろくに内容が聞こえないのに、よく分からないところだけはっきりと聞こえた。
ロバが出たとの通報――なんだそれは。
寝惚けた頭でどう考えてもどこかしら基本的なところで引っかかってしまって、状況が全く飲み込めない。いかにここが寂れた田舎町とはいえ、忽然とロバが出現するようなものだろうか。そもそもロバで大騒ぎになるのだろうか。熊や不審者の情報はたまに実家でも聞いたことがあったが、ロバという対象は初耳だ。熊は凶暴だし不審者は大体何がしかの凶器を持っている。だから危険だと放送が、警報が流れる。だがロバが出たという状況は、この早朝に喧しく町内放送を流すような重大なことなのか。何を言っているのかはきちんと分かるのに、なぜそうなるのかが何一つ分からない。
状況がひとつも理解できずにタオルケットを被っているうち、脳は理解よりも睡眠を選んだようで、うとうとと瞼が閉じかかる。ぐるぐると解決しようもなさそうな疑問を頭の中でこね回しているうちに、サイレンも放送も朝日の強さも、閉じた瞼の裏側に何もかも蕩けて消えてしまった。
* * *
とんでもない叩き起こされ方をしてから不自然な二度寝をしたせいで、微妙にすっとしない寝起きの頭を抱えてずるずると階下に向かえば、既に茶碗と昨日の残り物に併せて筋子を机の上に並べている叔父と目が合う。おはようございますと我ながら寝惚けた声で呼びかければ、ご飯が炊けたから座りなさいといつもと同じ調子の返事があった。
筋子に卵焼き、昨日の夕食の残り物と、インスタントの味噌汁。この人は本当に同じ内容の食事をくり返しても不満を感じない種類の人間なのだなとしみじみと思う。俺自身はこういったパターン化した食事は一定の質さえ保障されていれば面倒が無くていいとは思うが、人によっては――ことに俺の父などに言わせれば、食に執着が無いとは人間味に欠けるとでも罵倒するのだろう。ここに来てからそれなりに経ったが、朝食の内容はだいたいこれだ。殆ど代わり映えのしない内容の朝食を眺めながら、箸箱から各々の箸を取る。そうしてそれぞれ茶碗によそった飯に手を合わせて、頂きますの挨拶をした。
「朝のあれなんですか。ロバが出たぞってなんですか」
「ロバが出たんだろ。珍しいねこんな夏に」
「ロバが出て珍しくない時期ってあるんですか」
「この辺だと冬によく来るね。足跡があるんだよ」
足跡で分かるんですかと訊けば、そりゃ分かるよと当然のように返される。その答え方があまりに堂々としていて躊躇が無いので、やはり田舎だと家畜の類は見慣れるのだろうかと思った。
「誰だって分かるよ。指が三本でね、一本真横に付いてる。そんで踵が浮いてるから半月みたいになる」
「……それ、多分、ロバじゃないんじゃないですかね。いや俺もロバって生で見たことないですけど、それ何か違うんじゃないですかね」
「そうなの?じゃあ何だろう」
何だろうと言われても俺が分かる訳もない。あっという間に空になった叔父の茶碗とのっぺりとした顔を眺めながら、本当にここは油断がならないなと俺は自身を省みる。基本的には目立つところも抜きんでた点も無い鄙びた田舎町のくせに、うっかりすると妙なところから致命傷にはならない程度のけったいなものが飛んでくるのだ。手すりだと思って縋っていたのが長定規だとか、布団だと思って被っていたのが形見の半纏だったりするような、初対面の人間に従姉の仇だと横面を張り飛ばされるような理不尽で予想もできないようなことがそれなりの頻度で起きるのだ。腹を決めてかからないと、俺のような自他共に認める臆病者はうっかり気が触れかねない。
個々の事象を怖いか怖くないかで問われれば、どちらともいえないと答えるべきだろう。俺のような怖がりにはそれなりに効果があるが、それなりに気の強い人間や大人ならば恐らく無かったことにできる程度なのが厄介だ。この煮え切らない匙加減のせいで、俺がこの地の異常性を声高に主張するには分が悪いと言わざるを得ない。
そんなことを考えながら、黙々と筋子飯を食べる。さすがにロバが出るとは思いもしなかったな、とあまりにも予想外の事柄に、俺の内心で恐怖よりも驚愕が勝った。珍しく湧いてきた好奇心と猜疑心を半々にしながら、叔父に質問を投げてみる。
「そもそも足跡だけで判断するんですか。どうなんですかそれ」
「だって姿を見ると踏まれるからね。脆いとぽきんと折れるからね」
うちが田んぼ貸してる人が何年か前にやられたなあと呟いて、叔父は漬物の数の子をこりこりと齧っている。
「やっぱりそれロバじゃないですよ。それ何かもっとこわいものですよ」
「じゃああれだ、熊みたいなもんだよ。危ないし」
けどこの辺じゃロバって言うんだと慰めるような口調で言われて、俺はどうにも返せずに情けない顔をしてみせるしかなかった。
叔父はそんな俺を眺めて、少しだけ面白がるような顔をしてから、
「とりあえず今日は用事があるよ。午前中は動きたくないから、夕方に買い物に行く」
君も付き合ってくれよと珍しいことを言われて、俺は頷きながらも問い返す。このひとは勝手に買い物に行ったり雨の日に俺を買い出しに行かせたりはするが、二人で出かけようとすることは墓参り以外ではほぼ無かった。居候の身である以上、指示に不満は無いが、どういう風の吹き回しでそんなことを指図するのかだけ、少し気になった。
「いいですけど……何か大物でも買うんですか」
「お盆だからね。客は大体来ないけど、一応ビール箱で買って、日本酒も買う。ついでに卵ひとり二パック買って、晩ご飯を買う」
誰も来なかったら私がひとりで呑むんだと言って、叔父は珍しく心底からうれしそうな顔をした。
「お盆だと大人は呑むんですか。俺未成年ですけどお茶でも飲んでればいいですか」
「じゃあ好きな清涼飲料水にしなさい。私は大人だから飲むんだ」
だってお盆だからねと言って、叔父はにっと笑ってみせた。
* * *
自宅から徒歩で十分ほどの距離、地元の人間しか利用しないようなスーパーからの帰り道。案の定俺に荷物の大半を持たせた叔父は、祖母の形見だろう妙に小洒落た柄の手押し車にビールの箱を積んで、時折ふらつきながらのろのろと歩を進めていた。
夕方になって幾分か日が陰っているとはいえ、やはり夏の盛りではある。日の落ちかかれど気温は一向に下がる気配は無く、その過酷さにあっさりと負けて、まだ道行きの半分にも達していないのに、叔父はげんなりした表情で手押し車に取り縋るようにして歩いている。使い方としては満点なのだろうけれどもいくらなんでも悲しくなるような有様だなあと眺めていると、息を切らしながら何やら喋り始めた。
「この辺はね、昔忍者が出たよ」
「昔。忍者が」
あまりの辛さにとうとう気が触れたのだろうかと叔父の顔を見るが、いつものように真っ白な顔には何の企みも浮き上がらない。冗談にしては話が唐突過ぎて笑いどころも見当たらず、軽い口調には馬鹿を言うなと怒るほどの深刻さもない。今年は燕が来ましたねとでもいうような調子で忍者の有無を言う人間を初めて見て、とりあえず忍者ってそんなにそこらに出没したりするようなものだろうかと困惑した。
叔父はそんな俺の疑念にすぐさま勘付いたようでぎろりと横目をこちらに向けて、
「君今私がとうとうおかしくなったと思ったろう」
「とうとうというか馬脚を現したというか、正しく言えばそっちですかね」
「良いねえ、そういう口を叩けるやつは好きだよ――君ちょっとこっちに寄りなさい」
通行の邪魔になるからと言われて、ぐいと空いたままだった右腕を引かれる。予想外の動きに少しだけたたらを踏んで、俺は歩道の右端に寄る。途端姦しかった蝉の声の中に、それまで気づかなかった、一定の間隔で鳴る音が冴え冴えと聞こえる。
ぺたぺたと歩くような速さでアスファルトに叩きつけられる手のひらはごつごつと骨張っていて、指先の角張った爪が艶々と夏の夕陽に光っているのがいやに目についた。
逆立ちをした人間がアスファルトにその平手を突いて、ずんずんとこちらに迫ってくる。
指先から手のひら、手のひらから前腕へ、肘から肩へ。倒立した人体の部位を確認するように見る。けれども目で追うのはそこまでが限界で、俺が目を逸らすのとそれが横を通り過ぎていくのはほぼ同時だった。
背後からしばらくはべたべたとあの大きな手が歩道を叩く音が聞こえていたが、それも段々遠ざかっていく。入れ替わるようにに自棄でも起こしたように騒々しい蝉の声が聞こえてきて、俺はいつの間にか止めていた息を吐いた。
「おじさん、叔父さん」
「ね、忍者だろう」
ぶつからなくて良かったねと呑気なことを言って笑う叔父の言葉に今度こそ正気を疑いながら、今のは何ですかとここに来てから使う頻度がやたらと上がった問いを投げる。叔父は切れた息を整えるように二三度ゆっくりと呼吸をしてから、
「手がね、熱いよね生身なら」
何なら振り返ってみるかいと恐ろしいことを提案してきたので、俺は力いっぱい首を振る。叔父は少しだけ愉快そうに目を細めてから、またのろのろと歩き始める。俺は置いていかれまいと掴まれた腕を挟み込んで、引き摺られながら縋りつくような恰好でその後を追う。
「どうしてあれを忍者って言うんですか」
「普通のひとは逆立ちして歩かないじゃない。見世物小屋じゃあるまいし」
「忍者も……忍者も逆立ちして歩かないと思うんですよね、俺」
「そうなの?」
全く純粋らしい疑問を向けられて、俺はかえって困惑する。別に俺だって忍者に詳しい訳では無い。生で忍者を見たことも勿論無いし、強いて言うなら時代劇で暗がりを走っているのを見たような気がするくらいだ。その乏しい知識でさえ、忍者が倒立のまま動き回ったりするような存在ではないと断言まではいかないが主張できる。少なくとも優れた身体能力は忍者に必要ではあるだろうが、その異能をそんな馬鹿げた使い方をする必要は無いだろう。
「忍者ってそもそもそういうことするんですか。諜報員でしょう、職務内容的には」
「ほら、折り畳んだりできるだろ、忍者。千両箱に入ったりする」
「それはあれですよね、山田風太郎を基準に考えるのは止めておきましょうよ。あれは忍者というか妖怪変化か何かですよ」
じゃああれ何だろうねと言われて、俺は当たり前に答えに窮する。生身なら変質者なのだろうが、叔父の口ぶりだと昔から変わらずにあのようなことをしているのだから最早それは生身化生の類を問わずにとにかく何かしらこわいものだろうとも思う。生身だろうが妖物だろうが、あんな常軌をそれなりに逸したことを、周辺の風物詩になるくらい続けているその執念は何であろうと恐ろしい。
そんなことを考えながら帰路をとろとろと進めば、やがて見慣れた黒木の塀とむやみに立派な門柱が見えてくる。根拠は無いがここまでくれば安心だと――少なくとも叔父の住処である以上は衝突事故のようなことは起きないだろうと自身に言い聞かせて、俺は万が一のときには道連れにしてやろうと叔父の片腕を捕まえたまま、のしのしと歩を進める。
門をくぐろうとしたその瞬間に叔父はぐいと後ろを振り返って、赤々と射す夕陽に眩しそうに目を瞬いて、
「昔はあんなにはっきり、見えなかったんだけどね」
何かあったのかねえと聞かれるが、俺は最早答える気も術も無い。長年暮らしたこのひとが分からないことが、どうして数日前に来たばかりの俺に分かるものか。何がしか理屈を考えて弁解するのも主張するのも空しくなって、俺は黙って首を振った。
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