八月(後半)

似たもの同士

「なンも気にせしな。そこ通っただけだべ。そんでねばもっとどしもなねな」

「んだべ。だばってうちのわらしコおっかながってまるのサ。ままたき任せてらばって居ねぐなれば困てまるのよ。コ追ンだされてまったはで、また追ン出すのもかわいそんだねし」

「んだの……すげの、この時期ン施餓鬼棚作ってらの。せばあれだの、煮物作ってきゅうり買てけばいでばし」

「きゅうりだっきゃもう買にったもの。買い物任せられるはんでたげ助かるの」


 買い物から戻ってくれば、仏間で見慣れた叔父と見慣れないチンピラが訳の分からない言葉でやりとりをしているので、俺は買い物袋を提げたまま、果たして通報するべきか逃げ出すべきかその両方をすべきか悩んで靴も脱げずに上がり框の前に立ち尽くしていた。


「何だ君、帰ったんなら普通に上がって来なさい。そう玄関にのうっと立たれると紛らわしいだろ」

「お――お客さんですか」


 一応いつでも通報できるように買い物袋からスマートフォンを取り出して、電話画面を出しておく。叔父はそんな俺の姿を怪訝そうに見て、そうだからちゃんと上がって来なさいと言った。


「君が甥っ子くんか。えらいじゃん、よくちゃんと片付けたね。トウモロコシきみあげるよ」


 だからお茶でも飲もうよと何かの勧誘のような馴れ馴れしい誘いを投げかけて、ちんぴらは意外にも小市民じみて無害そうな笑顔を向けてきたのだ。


*   *   *


 背が高い。髪が逆立っている。歯並びが悪い。顔色も悪い。その上がりがりに痩せている。総合して印象がちんぴらでしかない。

 そのちんぴらはお名前を厚宮あつみやさんというそうで、おまけに町役場勤めの公務員なのだという。関係はと訊けば、叔父の友人なのだと堂々と述べた。


「叔父さん友達いるんですか」

「不思議なことにいるんだよ」


 悪いことはできない奴だから安心しなさいと、トウモロコシを茹でながら叔父は言った。

 厚宮さんはそれを否定するでも肯定するでもなく曖昧な顔をしてから、


「人のこと言えた義理じゃないだろうにね、そう思わない?」


 よろしくな甥っ子くんと言って先程と同じ小市民めいた無害な笑顔を向けてきたので、この人は恐らくいい人なのだろうなと思った。

 叔父が厚宮さんの手土産であるトウモロコシを茹でている間はお客の話相手をしなければならないのだが、注いだ麦茶のグラスを配り終えた時点で、最早することが何もない。小粋な会話のひとつでもできれば接待役として上々なのだろうが、いかんせん初対面な上に俺はそれほど話が上手いという訳ではない。共通の話題と言えば叔父か土地の話しか手持ちが無いのだが、どちらもろくな種になりそうにない。観念して天気か気温の話でもしようかと腹を括った途端、


「こないだ来たばっかなのに色んな目に遭ったって聞いたよ。運が無いね」


 そう相手から切り出されたので、礼儀や間合いのあれこれを思い悩むのが面倒になった。


「運が無いというか――この辺おかしかないですか」

「普通じゃない?田舎だけど」

「田舎ってこんなにおっかないんですか」

「いやあ慣れだよ慣れ。都会のあれ、スクランブル交差点だってみんなちゃんと渡れてるじゃん、そんな感じだよ」


 そんなにひどい目に遭っているのと訊かれて頷き返せば、厚宮さんは少しだけ眉根を寄せて、


「それはそれで可哀そうではあるけどね、ある程度はどこでだってあるもんだから。慣れよう」

「慣れるんですかね。俺は普通に生活してるんですけど」

「俺だって普通に生きてるよ。でもたまにはぶち当たるよ」

「ぶち当たったんですか」

「多分ね。逃げたから元気だけど」


 大したことないんだけどねと言って、厚宮さんは麦茶のグラスを手に取る。ぐいと半分ほど開けてから、ぱちぱちと二回瞬きをして語り始めた。


*   *   *


 勤め先の町役場、その業務の外回りからの帰りのこと。出先で預かった書類を提げて戻ろうと駅の近くを通りかかったときに、それに出遭ったのだ。


 風にゆらゆらと揺れるポニーテールが、狐の尾のようだと思った。

 後ろ姿しか見えないが、恐らくは女性だろう。艶々とした黒髪はきっちりとまとめられ、皺一つないリクルートスーツは深い紺色。手に提げた鞄は角ばった黒で、ああこの人は就活生なんだなと一目で納得できるような姿だった。

 

 2、3メートル程を厚宮に先行して、女性は歩道を歩いている。ちょうど二人の歩く速度が同じくらいでもあるのか、一向に距離は縮まらない。こつこつとヒールの音を立てて、女性は日射しの照り付けるアスファルトの上を軽やかに歩いている。追い抜くのも避けるのもあからさまな気がして、厚宮はぼんやりとしながら無心に足を動かす。距離を詰めるでもなく離れるのでもなく、現状の間合いを続けられるような速度だ。


 一瞬雲がかかったのか、日差しがふわりと陰った。静かな駅前には、女性の靴音だけが規則正しく響いている。


 ふと不安感のようなものを感じて、左足が上がり切らずに地面を擦る。少しつんのめってから足元を確かめて、擦れた靴先をじっと見る。理由は分からないが何だかひどく落ち着かないような気分になって、厚宮は周囲を見回す。

 いつもと同じ商店街だ。田舎の真昼間の常として人通りは自分と目の前の女性以外に無く、商店も普段通りにひと気が無い。天気はさんさんと照り付ける真夏の日差しが眩いばかりで、目の前の女性の足元から真っ黒な影が伸びているのが見えた。

 瞬間、ぎくりとして足が止まる。

 深々と黒い影の先、艶の無いパンプスの低い踵から、ほっそりとした脚に視線が行く。


 網タイツだ。しかも目の大きいダイヤ型の、肌の露出が大きいもの。髪型も服装も靴も鞄も何もかもがマニュアル通りの就活生そのものといった装いで統一されているのに、脚だけが網タイツで覆われているのだ。


 不釣り合いで、場違いで、異様だ。一瞬そういうお店のひとかとも思ったが、この駅前にそんな尖った店は無い上にそもそも今は平日の真昼間だ。それ以前にそういうシチュエーションを設定するなら尚更網タイツは履かせないだろう。世界観がブレる。

 ではこの女性は何だろう。そもそもこの格好でどこに行くのだ。厚宮の前を歩いているということは行き先が同じだということなのかもしれない。だが厚宮が向かっているのは町役場だ。部署が違えば確かに情報は入ってこないが、それでも面接の有り無しが噂になるくらいには狭い職場だ。


 厚宮の内心を見透かすように、こつりと足音が止む。ぎくりとして厚宮は立ち止まり女を見る。距離は先程と変わらず、その気になればすぐに駆け寄れるような間合いだ。ぴたりと揃えられたパンプスの踵、その左脚がゆっくりと動く。そのまま左爪先が真横を向いていき、網タイツに覆われたくるぶしが妙にはっきりと見えた。足の動きにつられるようにゆるゆると上半身もこちらを向き始めて、勢いの余韻にポニーテールがゆらりと揺れた。


*   *   *


「そこからどうしたんです」

「そんままねえ、道路横断して逃げた。車が走ってなくて助かったよあれで跳ねられても俺車に文句言えないもん。悪いの俺だからね」

「じゃあ何だったんですか」

「リクルートスーツの網タイツのお姉さん」


 それ以外は何だか分かんないねと言って、厚宮さんは麦茶を啜る。空になったそれに傍の薬缶からお代わりを注ぐついでにもう少し言いようは無いのかと問い詰めようとして、確かにそれ以外に言いようはないなと納得する。

 何せ女性は何もしていない。刃物を向けてきたわけでも、奇態な叫び声を上げて迫ってきた訳でも、角が生えていた訳でも、あからさまな傷跡や血痕や異常があった訳でもない。ただ歩いていて、立ち止まって、振り向こうとしただけだ。


「どちらかと言えば俺に不備があるからね。向こうからしてみれば、後ろから歩いてた奴がいきなり泡食って逃げ出すんだもの。不安になるよ。逆だったら俺想像すると何かこう、ざわざわするもん」

「まあ……そうですね。立ち止まっただけですもんね。まだ何もしてない」

「けどねえ、俺は逃げたよ。ものすごく怖かったから。何で怖いかって説明しろっていうとできない。だって何にもないから」

「何かあったら手遅れになるだろ」


 君たちは初対面の分際で随分喋るねと不思議がるような口調で言いながら、叔父は茹で上がったトウモロコシの乗った大皿を机の真ん中に置いた。


「予感だけに頼るのは馬鹿以外の何物でもないけどね、だからって予感を蔑ろにしていい訳じゃない。見栄張って話し合いに応じて滅多刺しなんてよく聞く話だろう」

「いきなり物騒な話を放り込んできますよね……すみません厚宮さん、頂きます」


 配られた取り皿に二つほどを乗せ、トウモロコシに齧りつきながら、叔父の物言いについて考える。

 大体言いたいことは分かるのだ。つまるところ、たまたま遭遇した行きずりの相手への対応の仕方の話なのだ。

 相手の敵意や善意の有無を測る手段が無く、知識や経験での対応策も見当たらない。相手の手札が見えない状況で、とにかく自分の身を護ることを優先するのであれば、仕掛けられる前に逃げるのが最善手ではあるだろう。人間的に常識的に考えれば大変に失礼であり無礼で無作法な話だが、今回の話にはそれをひっくり返すほどの予感が――恐怖が存在しているのだ。厚宮さんの恐慌故の女性への振る舞いの是非を、住まいの上階が事故物件になっただけで逃げだした俺にはどうこう言う資格などある筈も無いのだ。


「ただのセンスが突飛なお姉さんだったら俺が失礼だったって話、何かしらおっかないものだったらまあ……」


 それなりに思うところはあるのだろう。ぼんやりと語尾を濁して、厚宮さんは黙々とトウモロコシを齧る。みるみるうちに芯だけになったそれを手元の皿に置いてから、注ぎ直した麦茶に口を付けて、ふっと息をついてみせた。


「言い訳がましい話だけどね、確かに予感なんだよ。殆ど確信みたいなやつ。俺はそんとき『このお姉さんがこっちを向いたら多分すごく怖い目に遭う』って思ったの。何でか全然分かんないけど。網タイツにトラウマとかないけど」


 何だったんだろうねと言われて、俺も見当どころか理解も及ばずに分かりませんねと答える。分からない同士で見つめ合ってから、互いに首を傾げてみせた。


「それいつの話だ」


 いつの間にかトウモロコシの芯をごろごろと手元の皿に転がして、口元を拭いながら叔父が言った。


「ううん?……一昨日。昼べかべかに晴れてたろ」

「駅前だろ。役場行くったら大通りだろお前が通るの」

「そうね。二時過ぎぐらい。俺帰ったらちょうどお茶飲んでたもんみんな」

「じゃあお前逃げて良かったよ。振り向けばいけない奴だ、それは」


 今後も勘を大切にしなさいと言って、叔父はふらりと席を立つ。そのまま机の上の諸々をまとめて台所の洗い場に行ったかと思うと、いつものように水音を立てて後始末を始めた。

 その後ろ姿をしばらく眺めてから、俺たちは内緒話を始める。


「何だろ、知ってんのかなあいつ。教える気がなさそうだけど」

「厚宮さんは心当たりとか無いんですか。地元でしょう」

「違うよ俺隣村の出だもの。小中は一緒だったけど」


 あいつ時々怖いこと言うよなとまさしく自分の考えを代弁するようなことを言われて一瞬嬉しくなるが、そんなことが証明されても自分には何の得にもならないことに気づいて、そうですよねと曖昧な相槌を返すに留める。厚宮さんは特段何かを気にした風もなく、また空になった麦茶のグラスを両手で抱えたまま続けた。


「振り向けばこの世滅びる音のする、なら俺分かるんだよ。好きだもん芝居とか」

「そういうのは芝居で観るからいいんでしょう。実体験するとろくなことにならないんじゃないですか」

「まあね。身の安全が保障されない娯楽って、楽しいけど高くつくもんなあ」


 賢いこと言うじゃないの甥っ子君と破顔して、厚宮さんはのっそりと立ち上がった。


「じゃあこの辺で失礼するかね。また来るからあんまりこの子に迷惑かけるなよ、高槻」


 あんまり困ったら役場においでと実行していいのか悪いのかそれなりに判断に困る一言を置いて、すたすたと厚宮さんは玄関へと向かう。すると一旦片付けの手を止めて叔父がその後を追ったので、礼儀として見送りぐらいはするべきだろうと俺も続いた。


「持ってきてくれたから持って帰れ。マナコさんによろしく」

「お前これせんべい……お徳用二パックはどうだろう。貰うけどさ。おいしいからねすりごま」


 いつの間に用意していたのだろう、人間らしく手土産を手渡しながら、叔父はいつもと同じ表情に乏しい顔のままぶんぶんと手を振る。そのまま、


「今度は茄子を持ってきてくれ。天ぷらにする」


 と要求していたので、乱暴な言動にああやっぱりこの人はろくでもない人だと俺は安堵した。

 厚宮さんはそのまま手土産の入った大袋を提げたまま玄関を出て、翳り始めて尚凶暴な夏の日差しを浴びながらすたすたと黒木の門を抜けて、右に曲がって見えなくなってしまった。


「叔父さん」

「何。きみなら残ってるから晩にも食べられるよ」

「そうじゃないです。今気づいたんですけど」


 玄関を抜けてから黒木の門まで、コンクリートを燦々と焼く夏の日差しを浴びて歩き去った厚宮さんの足元には、影が無かった。


 あの人ちゃんと人間ですか、と叔父に聞けば、


「あれだよ、倉科さんと一緒だよ。そういう人なんだよ」


 影踏みできないのは残念だねとどうでもいいことを言って、叔父はしみじみと頷いた。

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