昔話
閑話・銀嶺の死者
嫌だなあって思ったんだよ。ものもらいの時期でもあるまいし、子供でもないんだから泥手で目を擦った覚えも無い。それなのに眼がむくむく腫れる。さすがに怖かったから仕事帰りに病院寄って眼帯買って帰ってきたら電話がきてさ、そうしたらこの有り様だもの。もう三度目だ。
死人が出る度片眼が腫れるなんてろくでもない偶然だと思わないか。
うん、今のところは毎回なんだ。爺ちゃんが死んだ時は片眼を蚊に喰われてて葬式中お岩さんだったし、おどが死んだ時はものもらいだった。それで今度は結膜浮腫だもの。酷いだろうこれ。黒目がへこんで見えるんだよ。目の縁どころか眼窩ぎりぎりまでぼっこり腫れるんだよ。何で火の番が死人より死人らしい顔をしてるんだ。また坊主に笑われる。笑われたんだよ爺ちゃんの時。唱え終わって帰る間際にわざわざ聞きにきやがった。何なんだあの坊主髪あるし。寺持って妻有って子が居て髪があるなんてとんでもない生臭だ。俺の父さんより髪がある。
こいつも笑うだろうなあ。指さして笑うぞ……そういうことばっかしてたから早く死んだかね。同じ世代の親類で一番最初に死んだもの。殺されない限り死にそうに無かったのに。殺されそうではあったけれど。こいつ口悪いんだよ。すごく。
だってバチ当たるものこいつ。爺ちゃんの葬式の時なんか、火の番任せたら加減無くごんごんと線香焚いて部屋燻すし、寝ずの番で寝倒れて棺桶蹴るし。年下の癖にやることが怖いんだよ。怖がりの癖に無謀ってどういう神経してんだか。どうって――ああ、丁度いい話がある。聞けよ。
昔さ、こいつと寺に行ったんだ。墓参り。滅茶苦茶暑い日だった。わざわざ土道歩いて連れ出されたのに、大人は俺達の知らない先祖の墓の手入れをしてて、ちっとも構ってくれない。鬼ごっこでもしようかと思ったけど、墓場で転ぶとすごく怒られるから出来ない。かくれんぼも楽しいんだけど、前に卒塔婆を蹴飛ばしたから懲りてやらないことにした。誰がやったって、俺だよ。それは俺が蹴ったんだよ二本。しばらく怖い夢を見た。走っても走っても走っても墓場から出られないんだよ。今でも時々見る。
だからすることも何も無くて暇だ暇だって騒いだら、こいつが暇潰しに馬鹿を言い出した――地獄絵を見ようって。やっと十二を超えたくらいの子供に。
そこの寺はどっかの作家に所縁があって、地獄絵と後生車が売りだった。後生車は分かるか……そう、寺の庭に突っ立ってる柱に輪っかが嵌まり込んでるやつ。あいつは親からそれを聞いてたらしくて、どうしても見たいって聞かなかった。怖いから嫌だって俺は言ったよ。言ったのに、怖いから一人で行くのが嫌だって言い張るんだよ。何言ってるんだかさっぱり分からない。行かなきゃいいだけじゃねえかよ。違うか?
……うん、断れなかった。手ぇ引張られて、本堂に引き摺り込まれた。泣きたかったけど泣くどころじゃなかった。泣いたって諦める訳が無いもの。絶対引かないの。譲歩なんて言葉は無いよあいつには。してるつもりがあったとしても出来てないから一緒だろ。
本堂の中は驚くくらい暗かった。線香と蝋の焦げた匂いに混ざって、乾いた土の匂いがしてた。すべすべした畳の上をあいつの白い足が踏んでいく絵を何故だか今でも覚えているよ。
そんで、地獄絵を見たよ。あいつに手を引かれたままで。だから、少しも忘れられない。
打たれたり、刻まれたり、煮られたり刺されたり焼かれたり裂かれたり。無数の責めが描かれていて、炎も刃物も皆痛かった。生白い肌の亡者が際限無く苛められていて、血糊も炎も刃物もぐちゃぐちゃだった。
亡者は皆同じ顔をしていたのに、鬼は色んな姿だったのは何故なんだろうな。三つ目だったり、青かったり、格好だって皆違った。亡者を責めてるって所だけは同じだったけれど。
それにさ、これはその後気付いたんだけどさ。絵に描かれる血って乾いてるだろ。どんなに赤くても艶があっても、さらさらに乾いてるんだよ。けど、あの地獄絵の血は違うんだ。どろどろ粘って纏わりそうな、生臭い赤色だった。
嫌だったなあ。怖いよりも嫌だったよ。絶対地獄になんか落ちたくないって思ったね。良い子になろうと思ったもの。思っただけだけれど。だって今こうだもの。
とにかく絵から逃げ出したくて、信じがたいことに楽しそうに見入ってるあいつの手を無理やり引っ張って、本堂から逃げた。かっと照ったお日様の下に出た時は、ものすごく嬉しかった。
後生車をさ、必死で回した。あれ、回して手前に回って止まれば地獄に行かなくて済むから。逆回りになると地獄行きだけど。作家は何回回しても逆回りになったって言うけど、俺のはきちんと手前に回って止まった。手前に回したもの。地獄行きは嫌だったから。
あいつは半泣きの俺を見てから車輪に手を掛けて、思い切り逆回しにしやがった。
そういうことを平気でする癖に、お化けやら人殺しやらが怖いって言うんだから訳が分からない。理屈がおかしいだろ。自分から怖いことをしておいて怯えるんだもの。一体どういう了見なのかね。もう分からないけど。教えてももらえないけど。
そういや葬式の時もさ、一緒に番したんだよ。火の番。一人だと危ないからって、俺とこいつで。結局部屋燻されたけど。加減無しに気分でどんどん線香燃すの。だから部屋が真っ白になって、最後煙が目に沁みて二人で逃げ出すことになった。おばさんは――怒る気力も無かったから、とりあえず俺達を追い出した。俺完璧にとばっちりじゃないか。止めなかったのが悪いったってやる奴が一番悪いだろ。
あの時はなあ。まさかこんなに早く番するなんて思わなかったもの。しかもこいつの。だいたい十年しか経ってないのに。十年で人って死ねるんだぜ――いや、生まれた時から死ねるけどさ。死にそうに無いなんてのが当てにならないというかさあ。若くても死ぬんだぜ。たかだか二十もそこそこで。あの頃はそんなこと考えもしなかったのに、たった十年で不意を討たれたというかさ――駄目だ、訳が分からなくなる。俺は何を言いたいんだ。無限の可能性が、断たれたことに?哀悼の?……間違ってないけど不謹慎な気がするな。可能性が有っても無くてもこいつはこいつでしかないしなあ。けどあれからたった十年でこいつが死んだから、俺はこうして訳が分からなくなってる訳であってだ――ああもうきりが無い。
おまけにこんな雪だよ。嫌がらせとしか思えないタイミングだろ。只でさえ寒いところに地吹雪くんだから、焼き場に行くのが辛かった。車の外真っ白だもの。外出たら直に雪が当たるし。顔が痛いんだよ。雪が染みて足も寒いし。そうして苦労して会場入って焼いて煙になったから見送ろうと外に出たって雪に紛れて分からない。どこに行ったんだあいつ。どこ行けるんだあいつ。どこにだって行けないかもしれないし、どこに行けてもあいつのことだからどこにも行かないかもしれない。そういう性悪なんだよあいつ。お陰で今、その辺吹いてる気がしてしょうがないんだ。吹雪いてるだろ、外。轟々鳴ってる。
大笑いしてんじゃないか、あいつ。外から自分の葬式見て、泣くほど笑ってんじゃないか。きっと俺のことも。
※ ※ ※
ネイル、パールブルーの。塗ってたんです。その日、試験だったので。そうすると上手くいくんです。選択当たったり、ヤマが出たり。姉のです。姉、自分じゃ滅多にやらない癖に沢山持ってたんで借りました。私は一つも持ってません。まだ買わせてもらえません。だから姉が貸してくれる度、お礼を言いました。けれど今回は、まだなんです。
礼を言う前に死ぬなんて勝手にも程があります。
峠も山も無くあっさり死んだから、みんなあっけに取られてました。ぽかんと間が空いてしまって、困りました。驚き終わるまで悲しめない。状況の波が激し過ぎると、気持が付いていかないんです。私もまだよく分かりません。夜も良く眠れますし、食欲もあります。通夜のオードブルも飲めないからとても食べました。一皿半分明けました。それでも悲しむと思います。もうしばらくすれば、きっと。
姉はそういう人間でした。波の激しい女でした。
何か一つの兆しも無しに荒れるかと思うと、不意にすとんと凪いでしまう。気分屋です。扱い難い女です。面倒な人です。
自分でも自覚はあったんだと思います。何が気に障るか分からないから、あんまり何かに関わろうとはしませんでした。きっと怖がりだったんです。他人がとても怖いから、皆癇に障るんですよ。弱いものは過剰です。色んなものが。徹底して抗うか、容れるかの二択しかありませんから。曖昧な事を許せるほど、余裕なんか無いんです。いつだって必死なんです。だって脆いから。
はい、良く言われます。似てないでしょう。姉は、刃物で刻んだような二重です。私は筆で撫でたような一重です。背だって姉が小さくて、私より余程年下に見えました。姉はそれなりに賢かったですが、私は馬鹿です。私、父に似たんです。姉は母に似ました。母の家系に、と言った方がしっくりくるかもしれません。従兄が二人、良く似ています。実の妹の私より、一目で血の繋がりが分かるくらいに。私も――そうですから。父の血筋の顔なんです。曾祖母の若い頃に、私は生き写しなんだそうです。勿論会ったこともありません。生まれる随分前に死んでます。けれど、同じ顔です。あっちじゃ良くあることです。同じ血を同じ場所でずっと重ねるばかりだから、どんどん濃くなっていくんです。そうして互いに骨も血も固まってしまうから、急に外の血を混ぜてみても両方分かれてしまうんです。
よく喧嘩しました。お互い散々罵って、言葉が尽きると手が出ました。手を出すのは私です。姉は口が良く回りましたから。一番言われたくないことを容赦無く衝くから、私も加減無く殴りました。さっき見たら肩に青痣ありました。私のだと思います。姉良く怪我していましたけれど、肩口殴るのは私だけです。痣残るほど殴っても、怯まず罵りました。手を出せば怒られるからいつも私が負けます。どれだけ殴られても、姉は絶対手は出さないんです。恐ろしいことを言うのに。加減が無いのは同じです。そこだけ二人が同じです。
雪、ひどいままですね。びゅうびゅう吹いてる。むこうの寒さは膚を切りますが、こっちの寒さは骨に染みます。大学でよそに出て、初めて知りました。むこうは指が白くなるくらいで済みますが、こっちは節が動かなくなります。丸まったきり、開けなくなります。ゆっくり温めると、じわじわ血が戻ってきます。そうやってしばれた指が温まるのは、とてもあづましいものです。
……下手ですね。駄目です、やっぱり。音が抜けてしまうんです。あんづまし、も違うんです。聞こえた通りに喋ろうとしても、出来ないんです。こっちの人は皆、すらっと喋れるんです。私は、出来ないんです。だから私はきっとこっちじゃ死ねません。
姉は、上手かったんです。こっちの言葉を喋るの、不自由してませんでした。私にはこっちの人の言葉が外国の言葉で歌ってるようにしか聞こえないのに、姉は同じように歌うんです。何ででしょうね。同じようにここで生まれたはずなのに。四つ年が違うったって、それだけです。血も家も同じなのに、何でこんなに違ったんだろう。何がそんなに違うんでしょう。血が、繋がってるのに。こっちとあっちに分かれても、血は繋がったままなのに。
なんで、ここで死んだんですかね。そんなに嫌だったんでしょうか……嫌だったんだろうな。そうに決まってます。
檻にね、似てるって言うんです。
私の住んでいるとこ、は山が近いんです。こっちみたいに高い山ひとつにどこまでも平たい地面が続くんじゃなくて、四方八方ぐるりを山が囲んでるんです。あっちの土地に居る限り、どこを見てもどこに行っても、どこまでも山があるんです。
それが嫌だって、来るたび姉は言ってました。息苦しいって。父も母も言ってました。両親はこっちの人ですから。平たい場所で育った人ですから。
けど私、そうじゃないんです。私、不安になるんです。山が無いと、囲んでいる山が無いとどこに行っていいか分からなくなるんです。平らな地面の向うを見ていると、広過ぎて怖くなるんです。あっちのひとは皆そうです。けどこの家では私だけです。
――馬鹿な事を考えました。葬式の間中、ずっと考えてました。
私がネイルを塗ったから、姉は死んだんじゃないかって。私にとっての吉兆が、姉にとっての凶兆になったんじゃないかって。蝶が羽搏けば地震も起きます。なら私の爪の色が姉を死なせたって別段不思議な事は無いでしょう。だって血が繋がっているんです。呪うんだったら身内が一番確実です。
ひどい女です。本当にひどい女です――私も、姉も。
※ ※ ※
朝にまずコーヒーをひっくり返してね。指の端引っ掛けて爪は欠けるし、茶碗洗ってたら二年ぶりくらいに皿を割るし、洗濯物畳んでたら欠けた爪が引っかかって靴下がほつれるし。落ち着かない日ってあるだろ。理由もないのに気が逸るとか、意味もないのに苛つくとかそういう。普段何事もなくつらつらとできることが、妙に失敗する日。
そういう日はだいたい人から呼び出しを喰らう。基本ロクなことじゃない。ご不幸な案件ばっかりだ。誰か死んだり担ぎ込まれたりぶっ倒れたり。
そう同僚。もう違うけどね。親戚ったら確かにそうだけど、そもそもここいら少し世代を辿ればどいつもこいつも血縁みたいなところだけどね。そうあれは兄さん。似てないだろう。ただ私と兄さんを何となく混ぜると――な、似てるだろう。妹さんより似てる。血のつながりっておっかないだろ。ここだとすぐ死ぬからすぐ生んですぐ増えるけどやっぱりすぐ死ぬ。躊躇するとすぐ絶えるからね、しんどい話だろ。
同僚って町役場だよ、そう駅前の。あの人はわざわざ県外から帰ってきたけど、元を辿ればこっちの血縁だからね、雑に言えば地元に元鞘だよ。本人もこっちのほうが性に合うとは言ってたね……私にはあんまり分からないけどね。せっかく外に出られたのに、わざわざ自分の意思で出戻る理由なんて何があるのか。一回聞いておいてもよかったんだけど、まあどうでもいいことだろうし――もう聞けないしね。そもそも話してくれるかも分からない。説明が苦手な人だったなあ、全然伝わらないの。語彙も表現力もあるのに何一つ分からない。何だろうね、論理の根っこが既に別種だったんだろうか。普通のひとの形をしていたけどね。見て分からないものが一番面倒だ。違うかい。
いや、注がなくていい。病院帰りでね、そう労災案件。やっと退院して家帰った途端さっきの大騒ぎだもの。ミサキならもう少し穏やかな方がいい……うん?ミサキってあれさ、あるだろあの綺麗な顔した子役の映画。前触れとか先触れとかそういう、本隊前の露払いだ。虫の知らせとかそういうのさ。何の虫が知らせてるのか知らないけどね。あの人はそういうの詳しかったな、十字路での忌事とか、おっかない踏切とか危ない大通りとか、そういうものには見分け方があるんだって色々教えてくれたけど――もっともあの人は見分けても避けないんだけどね。
うん、外回りで組まされることがあったからね、そういう技術は重宝した。穴が見えるんなら落ちないように避けて歩けばいいだろう?私はそっちの方が向いているからね、厄介ごととか面倒ごとは最低限でいいんだ。艱難辛苦は人を珠にするとかそんなことを言うかもしれないけど、程度ってものがあるだろ大抵のことには。磨く前に削れて割れたら取り返しようがないじゃないか。私はそうやって言ったんだけどね、先輩だものあの人。聞く耳なんか持っちゃくれなかったなあ。何でか呆れたような顔をするんだよ。別に私が正論だとは言わないけどそこまで馬鹿なことを言っているつもりもないからね、納得がいかなかったなあ。
結局趣味だったんだろうね、妙なものを目ざとく見つけてそっちに向かって突っ込んでいく。それで危ない目にあって満足して帰って来る。おかしいだろそんなの。危ないって分かってて触りにいくんだからなあ、もう動機も心理も何にも分からない。せっかく利く目と良い鼻を貰ってるのに、使い方が破滅的だったもの。本人楽しそうだったから私がどうこう言える義理がないんだけどね。死んだ以上はそれで上がりだよ。どこまで行ったって他人事ではあるんだけど、まあ……思うところは多少はあるね。多少は因縁のある相手だ。ここにいる奴らはみんなそうだけども。先天後天の差はあるけど、あとは個人の裁量だ。倫理と程度を弁えてるなら、そこに口を出すのは行儀の良いことじゃない。
何、どうせ一か月半はそこらにいるんだろう。あの人はしぶといからもっといるかもしれない。それはそれで面白いかもしれないけど、やっぱりそんなことをする動機が予想できない。説明くらいはしてもらいたいけど……そうだね、死んじまったからね。勝ち逃げみたいなもんだよねえ、これ。好き放題に暴れてあっさり死んで、あとはそれきり。おそろしい話だ――少しだけは羨ましくもあるけどね。きっとあの人、楽しかったのは間違いないから。
※ ※ ※
因果だねえ。私より先に死ぬのだもの。けれどこの家じゃあそれが普通だったからね。私とあの人が例外だっただけなんだろうね。五十超えてもまだ生きてられる。
一番目の子は長生きできないんだよ。私の姉もあの人の兄も、みんな直ぐ死んだもの。
死に方も色々あったよ。私の姉は病死だし、あの人の兄さんは戦争から帰ってこなかった。叔父の長男は轢かれて死んで、本家の長男も溺れて死んだ。最も本家はその後も何やかんやで皆死んだから、結局誰も残らなかったけどねえ。因果なものだよ。
何の因果かなんて私が知るもんですか。心当たりなんて山のようにあるもの。分かるだけでも指が足りないんだから、知らないものが幾つあることか。膨大なのよ。そんなものを考えようなんて、無謀なことだと思いますけどねえ。
旧い土地だもの。因縁なんて幾つもあるのよ。余所受けしそうなやつにしたって、苛め殺された妾に井戸に落ちた子供に写真も遺してもらえなかった御長男に従姉弟心中に一つ目子――まだ山程ある。全部が本当で、きちんと因果に報いるとしたら、とっくの昔にこの土地には誰もいなくなってるんじゃないかしらね。全部が嘘じゃあないけれど。例えば一つ目子の話なら、私の従兄のことだもの。叔父さまの子がね、一つ目だったの。
最初に叔父さま、妹さんのいる娘さんと結婚したの。けれど最初の奥様、子を産まずにすぐに死んだのね。それで周りに勧められて、奥様の妹さんと叔父さまは再婚したの。今度の奥様はすぐに孕んで、十月十日で子を産んだ。生まれた子は眼が一つきりしか無くて、泣きもせずにすぐ死んだの。先妻の怨みだ祟りだって散々言われて騒がれて、後妻の妹さんも。綺麗な人だったのにねえ。優しい人だったのよ。構ってくれたり、お菓子くれたり。巡り合わせが悪かったのよ。妹さんのせいでも、ましてやお姉さんのせいでもないでしょうに。叔父さまはずっとそう言ってたのに。
例え嘘でも本当でも、これだけ妙な事が重なれば、累が淵なんて目じゃ無いくらいの返しがあっても不思議じゃないだろうに。あんまり悪いことをすると、子孫に累が及ぶってお坊さんから聞くでしょう。顔も知らない先祖のせいで、今現在を邪魔されたんじゃあ――遣る瀬無いわねえ。けど、そっちの方がましかしら。
最近どころかずっと流行りでしょう、御先祖や前世や家系が悪いっていう話。要するに自分以外が皆悪いんじゃない。そうよね? 人任せが好きなのよねえ、皆。結果だけ欲しいのよ楽だから。良いことも恵んでもらった方が嬉しいし、悪いことは人の所為にした方が悲しくないもの。だから適当な繋がりをつけるんだろうね。卵と鶏じゃあないけれど、そこにあるから兆しが来るのか、兆しがあるからそこに来たのかなんて私らに分かる訳が無いじゃない。随分違うことなのにねえ。原因も結果も良くすり替わるのよ。二つの見分けも付かないで、それを適当に誤魔化して信じて頼って喜んだり悲しんだりして、平気な顔で生きてるのよ。間抜けな話じゃない。盲が象を語るようなものでしょ。本当に分かっている人からしたらきっととんでもなく間抜けな事を得意げに喋っているんでしょうね。おかしいねえ……そうね、お坊さんなんて人騙して生活してることになってしまうね。けど皆誰か騙してるんだから、お坊さんだけ悪いってことも無いでしょうに。いいじゃない。信じてるうちは安心できるんだから。疑い出すと生き難いのよ。全部疑えるもの。全部怖くなるもの。
生まれた時から外道行き、長じて後は左道踏み、人と一緒に歩かれないからいつまでたってもひとりきり――お芝居の文句だったかしら。盲の中に片眼がひとりじゃ、まともじゃやってけないわよねえ。無恥なほどに愚鈍か無謀なほどに反骨でもなきゃ、人の目玉を哀れむ前に自分の目玉を恨まなきゃならないものね。知らぬが仏って、真理よ。何十年も生きるほど、身に染みて思うわ。
知ってしまえば怖くない、幽霊の正体見たり枯れ尾花――なんてね、嘘よ。全く嘘ってわけでもないけど、完璧に正しい訳でもない。だって少し考えれば分かるじゃない。自分を殺すものが近くにあるってわかっても、それをどうあしらえばいいか分からなかったらただ怖いことを増やすだけよ。そもそも知らないものが怖いのだって、どうしていいか分からないから怖いのだもの。対抗とか、解決とかね。それを知らなきゃ、意味が無いもの。そういうことが分からないなら、いっそ気付かない方が気楽なものよ。知らないうちに後ろから一突きに殺される方が、振り返って取っ組みあって喉を裂かれるより楽じゃないかしら。『うしろを見るな』って、ブラウンさんも言ってるのにね。
だから死んだかねえ、あの子。怖がりだったから。残念だけど妙な事だけ頭も回ったから。考えちゃったらおしまいだもの。キリがないから。自分のせいか人のせいかが曖昧で、誰もそれを仕分けてくれないから、自分で決めなきゃならない。全部逃げられないって気付いて、周りの全部を自分の責任にしてしまったら、それこそ息も出来なくなる。皆それに薄々気付いているから、無理やり忘れているのよねえ。けど忘れることも怖いから、因果なんて名前を付けて引き摺っているのよ。それらしい名前を付けて納得したようなふりをして、あまつさえ自分たちでどうにか出来るようなことまで言い始めて。鰯の頭も神様にはなれるのかもしれないけど、薄っぺらい夢や嘘を幾ら重ねたって現実を覆い切れる訳が無いじゃない。
だから私もあの子も因果の裔よ。けれど、あなただってそうじゃない。あなたも因果を背負っているのよ。知らないだけで、気付かないだけで、忘れているだけで、皆同じ。ここに存在するということ自体が何かの結果なのだと信じて楽々と生きてる。皆応報されてるの。連続する結果は互いに繋がって、いつか私達には追い切れない先へと伸びていく。そんな得体の知れないものに、私達は吊り下がっているのよねえ。嫌な話。怖い話。酷い話。
私? 私は怖くないもの。だってもうこれだけ生きたら、そんなことはどうでもいいもの。お若いあなたと違って、私はもう何もかも諦めているのです。何の責任を取る必要も無いから、何が起きてもそんなに怖くない。痛いのは嫌だけどねえ。
……そうね。もう、怖がらなくてもいいものね。死んでしまったから、あの子は何にも怖くないわねえ。きっと、幸せでしょうねえ。今度はあの子が因果になる番で、応報するもされるのも私達の役目だもの。あなただってそうよ。何かをあの子に結び付けるのは、あの子を知ってるあなたや私の役目だもの。死人はそんな仕事はしないの。見分けるのも区別するのも、死んでしまえば必要の無いことだものね。
けれど私達が覚えてさえいれば、あの子はずっとここにいられる。何にこじつけてでも縛り付けても、そうしている限り、あの子の影は遺っていられる。それはあの子じゃないけれど、あの子が在ったことを証してくれるから。せめてあと四十年は遺さないと、全然足りないじゃない。
ねえ、あなた。憐れむくらいなら、恨んでやってね。愛したことは忘れても、憎んだことは血に沁み込んで忘れられないものだから。そうやって、因果は続くんだから。
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