行き先知れず

 とうに七時を過ぎて、朝食の支度も終わったというのに、いつまで経っても叔父が起きてこない。いつもなら大体六時を回ったあたりには目を覚ましているらしく、俺が起きてくると机一杯に新聞を広げてのうのうと紅茶なんぞを啜っているのだけども、今朝に限っては米も炊けて玉子焼きもきれいに巻けたのに一向に起きてくる気配が無い。

 これはひょっとしたら死んでるんじゃないか、だとしたら同居人としては様子を見に行くのが普通なんじゃないだろうか、もし警察沙汰になったり葬式を挙げることになったらお盆と新仏ならどちらが優先になるのだろうか――。

 そんなことを心配してどきどきしながら仏間に行けば、真っ白な顔で寝息一つ立てずに死体のように布団に横たわる叔父がいた。

 とりあえず起こそうと枕元に座って、手を出す前に声をかけようと息を吸って、


「なして水コばけねかったの、兄さ」

 

 口を突いて出た言葉には覚えがない。そもそも何を言ったのかすら分からない。

 すると叔父は目すら開けないまま、


「未練さなるべし。あさましの」


 そう言って勢いよく起き上がる。あまりのことに後ずさって壁に強かに背中を打ち付けて、声も出せずにのたうち回る俺を見て、


「朝から大騒ぎをするんじゃないよ。びっくりするだろう」


 人の寝起きを覗いておいて飛んで逃げるとは失礼じゃないかと言って、叔父はぐしゃぐしゃと寝癖だらけの頭を掻き回してみせた。


「――今のなんですか」

「んん?方言だろ。こっちの言葉だ、君よく喋れたじゃないか」

「俺何を喋ったんですか」

「あれ……ああ、そういう。今日って何日だい」


 呆然としながら日付を答えると、叔父はごきりと首を鳴らしてから、


「いよいよお盆が近いなあ……やだね、店とか休みが多くなるんだ」 


 とりあえず朝ご飯を食べようじゃないかと言ってから、叔父は大きな欠伸を一つしたのだった。


※   ※   ※


「コーヒー豆を買ってきてくれ。明日から休業なんだよ」

「いいですけどどこで買うんです。あといくらです」

「おつかいだから交通費と豆代は出すよ……ここが吉祥寺なら一万くらいぽんと渡すけど、こんな田舎じゃそんなにやれないね」


 朝食を綺麗に食べ切ってから食後のお茶も飲み終わり、何をするでもなくぼんやりとしようとしているのに、朝の奇行を思い出して何となく落ち着かない。そんな俺の様子に配慮することは少しも無く、叔父はそんなことを言い出したのだ。よく分からないことを言いながら渡された財布を受け取って、どこにある店ですかと聞けば、君の大学と最寄り駅が同じだよとざっくりとした答えが返ってきた。


「凝橋駅の中央口から出て、駅を背中に右手に行ったらまっすぐ大通りに沿う。そろそろ迷ったんじゃないかなって思うくらい歩くと羽田珈琲って看板があるから、そこからまた覚悟を決めて道なりに歩く。いつの間にか着く」

「大通り沿いに歩いてれば迷わないんですよね」

「必要なのは根気だね、あれで迷うには才能がいるよ。どうせお盆明けたら学校だろ。通学路に慣れておきなさい」


 ここから駅に行く練習をしなさいと親のようなことを言うので、何だか妙な気分になった。この年で道に迷うのを心配するというのは、余程の心配性か相手を安く見ているかのどちらだろうかと考えて、恐らくこの人のことだからただの儀礼的な親切を考えなく口に出しただけなのだろうなと思った。


「そりゃタクシーで来ましたけどね。自転車でまっすぐ行くだけでしょう。迷うほど道の選択肢が無いじゃないですかこの辺」

「そう行って花買いに行って散々迷ったのにね」


 思い出したくもない痛いところを的確に突かれて、反論も出来ずに俺は短く唸る。自転車は納屋にあるから出してきなさいと言って、叔父は早く行けとでも言いたげにひらひらと二三回手を振ってみせた。


「ついでに朝のことだけどね」

「はい」

「気にしてもどうにもならないから気分転換してきなさい」


 お天道様に当たればだいたい何とかなるだろうといつもより一層どうしようもないことを言って、叔父はへらりと笑った。


※   ※   ※


 爽やかな夏風の吹き抜ける田んぼの傍、広く取られた道を自転車で走り抜ける。 

 人通りどころか車すら通らない道を悠々と行き、トンネルを迂回してクラシカルな造りの踏切を越えて着いたのは、あの夜に見た北猪池尾の駅舎だった。

 何の変哲もない駅舎は極端に古びても真新しくもなく、夏の日差しにのっぺりと白い壁を灼かれている。駅前にはタクシーが止まっているが、運転手は座席を倒して堂々と昼寝をしている。この駅にこの時間に来る人間もそうはいないだろうから、運転手の行動も別段責められることはないだろう。けれどもあまり見る機会のない状況だなと思いながら、俺は階段を登っていく。

 入ってすぐに整然と並んだ長椅子が目に入り、出入り口が待合室に直結しているという大胆な造りに驚く。真正面には券売機と上下線の時刻表が設置されていて、時刻表の20時以降が真っ白になっているのに慄然とした。

 向かって右手には喫茶室とも図書室ともつかない広めの部屋があり、ガラスの開き戸が開け放しになっている。左手にはなぜか四台も並んだ清涼飲料水とアイスの自販機がすっぽりと置かれていて、果たして冬に雪が死因になるようなこの土地でアイスの自販機を置いて採算が取れるのだろうかと、俺は他人事ながら心配になった。

 どうやら券売機の裏に駅員室が設置されているようで、見慣れたプラ板で仕切られた窓口が見えた。驚いたのはそこから直ぐにホームに出られる造りになっていることだ。特に遮るものも設置されていない、引き戸が全開になったその様子を眺めながら改札とかどうやるんだと考える。有人改札なんだろうと思ったが、こんなものその気になればいくらでも突破できるだろう。それくらいに簡素な造りである――何せ一切の足止めになるようなものが無いのだ。

 乗客のことを全面的に信頼しているのか、それともまともに商売をする気が無いのか、はたまたこの改札を突破したところで特に得るものがないとでも言いたいのか。いくつか予想は浮かぶがどれもこれも馬鹿らしい理由でしかないので、これはすごい構造の改札だなあと、一周回って素直な感動を覚えるに至った。

 改札からまっすぐに見えるのは、さんさんと陽の射すプラットホーム。通勤時間帯を過ぎている上に、お盆前とはいえ平日である。当然のように誰もいない。


 無人の線路にひっそりと停車している二両編成の車両は、客を待つように昇降口をぽかりと開けていた。


 周囲にも車内にも人の気配はなく、夏の日差しに灼かれる車両は黒々とした影をホームに落としている。開け放たれた扉からは誰一人降りてこない。そもそも人が乗っているのかどうかがよく分からない。どの窓もびったりとカーテンが下ろされていて、開いた昇降口から見える車内もいやに薄暗いのだ。


 さてどちらだろうか、と判断が付かずに俺は迷う。都会の連中には通じないことだが、田舎の路線では発車時刻の二十分前に到着した電車が乗り換えやなんやで停車していることがままある。乗ってぼうっとしていれば基本的には時刻通りに出発するのだけども、だからこそうっかり乗り間違えるようなことも多々ある。向かいの番線に、発着時刻近辺に止まっていた逆方向の電車に乗った結果最悪県外まで運ばれてしまったりするのだから恐ろしい。

 そうして乗るべきかどうかを躊躇して無人の改札で立ち尽くしていると、


「お客さん、切符そっちじゃないですよ」


 突然にかけられた声に完全に不意を討たれて、俺は跳ねるように後ろを向く。声を掛けてきた男は、服装からして駅員だろう。新館にいだてと書かれた名札には見慣れた鉄道会社のロゴがある。にこにこと親し気な笑みを浮かべながら、見ない顔だから高槻さんの甥御さんですかと矛盾しているくせに部分的に正確な事を言いながら、駅員はすいと俺の傍へ寄った。


「次の電車は三十分後ですよ。ラッシュ過ぎてるからあんまり本数無いんです」

「止まっているのは、あれ」


 駅員はちらりと電車の方に視線を向けてから、


「あれはね、ええと甥御さん、君どちらに行きたいのです」


 凝橋ですと答えるとあの電車は多分そっちには行きませんねえと返される。そうして駅員は何かを思い出そうとするように、かりかりと頬を掻いてみせた。


「電車じゃないんですか」

「少なくともうちの路線で今走ってる車両じゃないんですよね、型があんまり古いから」


 国鉄の頃とかのだって聞きましたよという駅員の言葉に、ああこれが現れたのはこれが初めてじゃないんだなと気付いて、対処をしないのかできないのかと考える。すぐさまどちらでも恐ろしさの種類が変わるだけだなと絶望的なことに気づいて、俺は息がうまく吸えずにしゃっくりのような声を立ててから続けた。


「あ――あれ何ですか」

「電車に見えますね」

「電車ではないんですか」

「運行予定には無いですね。あそこに停まるはずのやつなら、今の時間なら小沙弥のあたりだと思いますが」


 そもそも到着してるの気付きませんでしたしねと駅員としてあるまじきことを言われ、一瞬この人と列車のどちらに非があるのか混乱する。どちらもあまりあり得ないことだが、現実としては列車計画に無い列車が運行していて大騒ぎにならない方がおかしいのだろう。そんなことが起きたら大事故につながりかねないというのは、鉄道に対して殆ど興味のない俺でも分かることだ。こののらくらとした駅員が業務をサボって到着を見逃したというのもあり得なくはなさそうだが、どれほどの職業適性に欠けた駅員だとしても、この状況が重大インシデントになりうるのを見逃すような馬鹿ではないだろう。

 それが慌てもせず連絡をするでもなくひたすらに見て見ぬふりを薦めてくるということは、恐らくあれはまともなものではないのだろう。


「危ないんじゃないですか」

「放っておけばいつの間にか出発してるんで大丈夫です。ただ乗っちゃいけませんよ」

「乗るとどうなりますか」

「私の先輩に、乗ったお客を見送った人がいましたけどね。お帰りを出迎えられないまま今年の春先に定年退職しました」


 乗車駅も降車駅もここの人だったんですけどねと言って、駅員は微笑とも苦笑ともつかない曖昧な表情を浮かべてみせる。俺は早速どんな顔をしていいのかが分からなくなって、とりあえず敵意が無いことを示そうと微笑みめいた表情を作ろうとした。


「いつ頃からかは知りませんがね、とにかくああいうものが来るんです。私たち駅員が気付くこともありますし、たまたま居合わせたお客様が目撃されることもあります。由来も仕業も聞きませんが、会社からは『お客様を乗せないように』とだけ指示があります」


 実際乗らなければいつの間にかいなくなりますからと、最近どこかで聞いたような対応を口にする。異様なものが奇妙な現れ方をしようとも、列車の運行や乗客の安全への実害が出ないのならば対抗をしようともせず、黙って通り過ぎていくのを待つという穏便で受動的で消極的なやり口だ。この土地の人間はどいつもこいつもそうなのかと暗澹とした気持ちになる。これを異様だと思ううちは俺はよそ者で、気にしなくなるころには戻れなくなってしまうのだろうか。


「こう……検査とか捜査とか、なさらないんですか」

「マニュアルに対応が載っているので、した方はいらっしゃるんだと思います」

「それ以上のことはなさったりは」


 そうですねえと言って駅員は少しだけ考え込むような素振りをして、


「あれが到着した時点でひどいことになるとか、積極的に我々駅員やお客様を乗せようとなんやかんやを始めたりとか、そういうことを始めたら考えますがね。今のところは放っておけば放っておいてくれるので、それなら現状維持でいいでしょう」

「そういうものですか」

「むしろ下手に触っておかしなことが起きない保証が有りませんし――電車は発車、遺体は用捨、列車は去り行く死体は残る、みたいなことにならない保証がないでしょう」

「はあ。……あの、何で今、韻を踏んだんですか」

「̪詩才があるんです」


 笑みも浮かべず普通の会話のようにさらりと言われたので、この人は頭がおかしいのだろうかと思ったが、どうも本当にただ言いたかっただけのようだ。その証拠に何一つ直前の会話の残滓を引き摺ることなく、


「とりあえず次の電車が着くまでしばらくかかるから、椅子かあちらの資料室でお待ちください」


 時間になったらお呼びしますよと言って、駅員はくるりと背を向ける。そのまますたすたと俺の視界から歩み去り、駅員室にでも引っ込んだのだろう、がちゃんとドアの閉まる音がした。


 それきり夏の静かな駅構内には、喧しい蝉の声とアナログ時計の秒針の音以外は何一つ聞こえなくなる。

 俺は途方にくれたような気分で、とりあえずここは駅なのだから駅員の指示に従おうと考える。恐らく先程の広い部屋のことだろうと見当をつけ、資料室に向かおうと歩き始めた。


 振り返れば列車は炎天に照らされてなお暗い車内を剥き出しにして、待ち構えるように昇降口を開け放っている。


 その黒々と陰る車内をあまり長く見ていると、今度こそとんでもないものを見るなと確信に近い予感がして、俺は勢いよく背を向ける。そのまま小走りに資料室へと飛び込んで、勢いのまま後ろ手で扉を思い切り閉めた。


 真夏なのに背筋がびっしりと冷たい汗に濡れているのに気付いたのは、それからしばらく後のことだった。

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