忘れようにも

「布団せめて……せめてこっちに頭向けたらどうですか。これ北枕でしょう」

「涼しいんだよ。そっち向けると朝眩しいだろ。嫌だよ私日の出とともに目を覚ますとかしたくないもの」


 この人は本当に怖いものがないのだろうか。それとも最早諸々に対して捨て鉢なのだろうか。

 仏間でご先祖の遺影に囲まれた上に北枕で寝るなんて、肝試しや度胸試しの類だろう。こんなことをしろと言われたら俺は多分気が狂う。少しも自慢にならないが、何せ俺は住処の上階が事故物件になっただけで泣きながら引っ越した人間だ。わざわざ自分から曰くを呼び込むような真似をするなんて、考えただけで身が竦む。

 叔父は案の定俺のそういった恐怖心が理解できないらしく、不思議そうな口調で、


「別に仏壇と遺影があるだけだろう。広くて風通しが良いんだ」

「去年も同じこと言ってましたね。そう言って溜まり場にして本を積むから怒られたんですよ」

「だから今年は積んでない――その上こうしてお盆の準備をしようっていうんじゃないか」


 今回は落ち度がないだろうと言って、叔父はのたのたと布団を畳んでいる。俺は以前よりはマシとはいえ、寝床の周辺にしぶとく転がっている二三冊の本をまとめて、とりあえず作業の邪魔にならないところにまとめておくことにした。


 そこそこに盛大で立派な仏壇の横、元の白色から日焼けして変色した襖を引き開ければ、真っ先に目的の盆行灯が目に入る。ちまちました花が描かれ、両端に飾り房のついたこれを飾って施餓鬼棚を立てるのがこの家のざっくりとした盆の支度で、今日の俺の仕事だ。どうせ家に来るような親類はおよそ寝たきりか死に絶えているので、とりあえず先祖をお迎えし歓待する儀式をやった形跡さえあればいい。無事にお盆を迎えるのに最低限必要なのがこれら物品のセッティングであるのだが、去年はこれができない程に部屋が埋まっていたのが父の誤算で逆鱗だったのだ。

 部屋の隅に立て掛けられていた木製の文机を仏壇の前に置き、敷布を被せ供物机として体裁を整えてから、その左右に行灯を置く同じく押し入れに収まっていた延長コードにつなげて電源を確保する。コードを邪魔にならないように壁際に寄せて、きちんと物を踏まずに歩ける領域を確保する。これでスイッチを入れればくるくると光源が回転し、行灯に淡い光が灯る。接続不良やコードの紛失なども無く、この設置が滞りなく終わったので、非常にあっけないが俺の仕事は終わりである。さすがに何か手伝おうと、施餓鬼棚の組み立てを任せた叔父の方を見れば、意外なことにてきぱきとほぼ組み立てを終えていた。この人は本当に整理整頓や危機察知といった生きていくのに必要な能力が致命的に無いだけで、それ以外のことは何となくできてしまうのだなと、驚くと同時に残念な気持ちになった。高校の時の漢文にそんなような話があったなと思い出そうとして、思い出したところで得るものが無いなと諦めた。

 叔父はそんな俺の考えなど知る由もなく、普段の様子からは予想のつかない要領と手際の良さを存分に発揮して施餓鬼棚の脚を立て終えたようで、


「紐を張るのを手伝いなさい。麻紐玄関にあるから」


 と俺を呼んだ。

 二人がかりでならそう難しいことでもない。立てた脚の上側を玄関から持ってきた麻紐で留め紐がずり落ちないように固定してやれば、あとは幾つか飾り供物を結びつけるだけだ。盆とうろうという紛らわしい名前のついたこの飾り菓子は様々な形と色で華やかに彩られていて、昔からこれをぶら下げるのは楽しくて俺は好きだった。背のそれ程高くない叔父には一杯に手を挙げて行うこの作業はそこそこ辛いようで、一つつけてはぐるぐると肩を回して怠さを誤魔化しているのがおかしかった。


「そういや葬式の支度はここでやりましたね。そこに爺ちゃん置いて」

「寝かせてとか安置してとか言いなさい。身内を物扱いするのはかわいそうだ」


 言われて確かに今の俺の言い方は人間味に欠けるかもしれないと気づいて、それをこの叔父に指摘されたことに少なからず驚く。この人の倫理観の基準は相変わらずよく分からない。肝心の祖父の葬式の時は珍しく普通に諸々を手伝おうとして邪魔だと父に叱られていたのだけども、それ以外は記憶に残っていないから恐らく大人しくしていたのだろう。

 祖父の葬式に参加したのは中学に入ったばかりの頃だっただろうか。正直祖父を送ったすぐ後に祖母も亡くなってしまったので、あの年はやたらと人が死んだなとその二人の葬式については色んな記憶が曖昧になっている。

 そんな記憶の中で比較的覚えているのが、祖父の葬式での出来事だ。

 死者のために六文銭を紙で作る必要があったのだけども、果たして六文で足りるだろうか、賂とかはいらないんだろうかとふと気になって俺は考え込んでいたのだ。すると手が止まっているのを見つけたのか、するすると寄ってきた大叔父がどうしたんだ小僧と――多分祖母の弟という遠い親戚の彼は俺の名前を憶えていないのだ――暇つぶしがてらに興味深そうに声をかけてきたので、年長者なら分かるかと疑問をぶつけてみたのだ。すると彼は少し考えてから、


「小切手書け小切手。億ぐらいのやつ。見本俺が描いてやるから」

「豪気じゃありませんか」

「いいんだよ三途の川ぐらいクルーザー借り切って渡れば。コンパニオン乗せたって良いくらいだ」

「さすがに煩悩の問題があるんじゃないでしょうか。それに龍とか出るんじゃないんですか」

「そうなの?じゃあ勝てるように尚更いい船に乗せよう」


 そういって古式ゆかしい六文銭と大叔父がさらさらとそれらしい書式で描いてくれた随分な桁が書かれた小切手を量産したのだけども、それを背後から父が理解しがたいものを見る目で眺めていたのを思い出した。

 結局その新旧織り交ぜた持参金は、喪主たる祖母がその出来と思い付きを大変気に入ったので、特に排除されることもなくそのまま棺に入って燃されたのだと思うけれど、火葬場でお骨の焼き上がりを待っている間に善人は橋を渡るんじゃなかったかとどこかで齧った説話を思い出した。すると一応御法に触れるような真似も人に疎まれるような真似もせずにひたすら真面目に善良に生きていた祖父は橋を渡るのだろうけども、あの世なら船だって橋の上くらいは走ってくれるだろうと考えて、改めてちゃんと成仏できるといいなと思ったのだ。


 そうして順調にこの仏間には遺影が増え、壁の一辺を左端からずらりと埋めるように並べられている。祖父母の分が増えた今となっては最早隙間も無くみっちりと並べられているので、いっそ総観とさえ言える数が揃っている。

 我が家はそこそこ早死にばかりだったので、俺はこの写真の人物の殆どに実際会ったことがない。祖父母が何とか生身で会えた親族になるのだけれども、曾祖父も父方の祖父の兄妹にも殆ど会ったことがない。親類の話をすると父が途端に不機嫌になるので全くしたことがないし、叔父はこんな人であるので論外だろう。つまり俺は自分の係累について殆ど何も知らないのだ。


「叔父さん。叔父さんはこれらが誰だか分かるんですか」

「これらって言うのを止めなさい。君はどうも死人への敬意が足りない」


 墓石の戒名をあれほど楽しそうに解説していた人にだけは言われたくないのだけども、確かに俺にも非がある。気を付けますと答えれば、そうした方が無難だよと人並みな台詞が返ってきてぎょっとした。


「まあ私も君のことを言えるほどじゃないけどね……とりあえず左端は君の高祖母のなんやかんやで、そこから大伯父と、知らない人と、曾祖母と、高祖父と、寒いところで先生やってた人と、曾祖父と、大叔母と、爺ちゃんと、婆ちゃん」

「知らない人ってなんですか」

「知らない人。爺さんは知ってたけど教えてくれなかったから」


 私も興味が無かったしねと言って、叔父はぺたりと頬を撫でる。知らない人は白黒でも分かるくらいに綺麗な顔をしていて、一体何の縁があってここに並べられることになったのだろうと、意外に雑な遺影の内訳に呆然としながら俺はそんなことを思った。


「こういうのって親類というか……血縁を並べるものじゃないんですか」

「この辺りそういうのはあんまりこだわらないしなあ。そもそもちょっと遡ればみんな薄っすら血が繋がってるような具合だしね。四捨五入すれば身内だよこの人もきっと」

「そういうものなんですか」

「母さん――君の婆ちゃんが前言ってたよ。昔はよく貰ったしあげたって」

「何をですか」

「こども。すぐ生まれるしすぐ死ぬからね、寒いって嫌だよ」


 夕飯のおかずを融通するような口調で言う叔父に、何となくぞっとするような感覚を抱く。それと同時に、これまでの諸々が少しだけ納得がいったような気がした。

 薄々思ってはいたが、どうも生死の扱いが良くも悪くも軽いのだ。個人のものというよりこの土地の芸風のようなものなのか否かは俺には判断できないが、どうもそんな気がする。見縊っているとか蔑んでいるとかそういうことではない。倫理的には下手をすれば俺より厳格で真面目に考えているだろう。それなのに、日常というものに対しての生死の切り分けがどうにも雑なのだ。むしろ分類が単純なのだとも言えるだろう。恐ろしいとか素晴らしいとか、悍ましい悲しい悔しい喜ばしい、そう言った好悪の判断より先に実利が主導権を握っている。つまり、それが生死に関わるかどうかが判定の基底に深く根ざしているのだ。死なないのならばそれは別段大したものではなく、生きているならば問題はない。例えば窓に映る影が新館さんだろうがよく分からないものだろうが、実害が出ない限りはその存在については干渉しようとしない。器が広いというよりは器の底が抜けているというべきだろう。


「……あんまりよそで言うと怒られるやつじゃないですかね、そういうの」

「そうかもね。寿産院やってるわけでもないから疚しいことは何にもないけどね」

「寿産院って何ですか」

「お金とこども貰ってこどもを殺せば丸儲けだろ?そういうのをやった人がいたんだよ」


 例えば私が君を殺して兄さんに黙っておくのと一緒だよと叔父が言って、俺は納得すると同時に自分の立場を再確認する。なるほど血縁を頼りに預かられた他人の子だ。ついでにこの人に殺意があったら俺は返り討ちにする以外にはどうにもできないということも思いつくが、この人がわざわざ殺人なんて面倒な真似をするかということを考えれば、そこまでの興味を持っていないだろうなという我ながら確実性の高い結論が出た。


「しかし何か……遺影の順番どうなってるんですか。世代順にしても条件合わない気がします」

「適当だよそんなの。婆ちゃんと並べ直したときに背の順とかやりたかったけどね、享年は記録に残るけど身長ってあんまり残らないんだよね」

「爺ちゃん大きかったですもんね。そう考えると叔父さん普通ですね」

「君の父さんだって人のことを言えるほどすくすく伸びてないだろ。むしろ君がどうしてそんなに伸びたんだ」

「母方の祖母が大きかったらしいです。早く死んだので覚えがありませんけど」


 そんな益体もないことを、遺影を眺めながらだらだらと喋る。仕事がさくさくと済んだ分、今日中にやるべきことというのが残っていないのは気分がいい。俺は気が小さい質であるので、何がしか仕事を放っておいて他のことに取り掛かるというのがどうも難しいのだ。気になってどうも落ち着かない。それを踏まえて父に任されたお盆の準備という仕事の一部が順調に完了していくというのは、大変喜ばしいことだ。


 そうして晴れやかに背を向けた仏壇から、懺悔の如く伸びやかにお鈴が鳴った。


「叔父さん」

「風鈴じゃないと思うよ。そもそも風鈴はちりんちりんって鳴る」


 そもそも位置が仏壇じゃないかと言って、遺影を見上げたまま叔父は笑う。この状況で笑うあたりこの人は本当に馬鹿じゃないのかと俺は思う。

 もう一度りいんと長々と余韻を残して、思い切りの良いとでもいいたくなるように晴れ晴れとしたお鈴の音が鳴り響く。今度こそ叔父が躊躇なく背後を振り向くのを視界の端で見て、俺は咄嗟に地面に伏せる。膝をしたたかに畳にぶつけるがそれどころではない。そしてそのまま意地でも何も見ないように背を丸めた。


「思い切りいったじゃないか。膝痛めるだろ。大丈夫かい」

「何かいても言わなくていいですからね。俺は逃げますよ」

「そのまま進むと多分壁に突っ込むよ」

「嫌です。俺は絶対に目を開けませんからね」


 そのまま頑なにだんご虫のように丸まっていると、困った子だねと心底から呆れた声がした。詰られるのかと身を固くすればそのままハーフパンツの腰を掴まれて、ずりずりと畳の上を引き摺られた。またその力が予想よりは強くて、俺は驚いてより一層縮こまる。


「部屋の出口までは持ってってやるからあとは好きにしなさい。支度も済んだしね、ご苦労様」

「いないんですよね、いないって言って下さい」

「それだと回答が一種類しか許されない……何も見えないよ。だけどこの状況だとそっちの方が怖くないか。誰かいて鳴らした方がまだありえるだろ」


 どうして自分から首を絞めようとするんだと投げ掛けられた叔父の問いに、反論する理由が無くて、俺は固く目を瞑ったまま畳の上を引き摺られる。叔父はいつものようにこちらの様子には一切の頓着無く、ゆっくりと入口に向けて俺を引き摺っていく。

 ずるずると投げ出した脚が畳を擦る感覚に、俺は妙なことを思いつく。遺棄される死体もこんな具合なんだろうかと、ますます首の絞まるようなことを考えて、つま先のひんやりと冷たくなるような心持ちになった。

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