鳴くもの

「今日は片付けはしないよ」


 それが叔父の今朝の第一声だった。

 あまりにはっきりと言い切られたのと、少なくとも二階の部屋に関しては、本に埋まった部屋から本の酷く散らかった部屋へとほんの少しでも前進したのは確かであるので、ここで強行して完全に抵抗されるようになってしまうよりは現状を維持した方がマシだろう。そもそも家主の機嫌を損ねて追い出されては堪ったものではない。ここもそれなりに訳の分からないことが多くあるが、それでも叔父がいる間は最低限の避け方だけは保障されているのを、ここ数日で体験している。立地上の利点と経済的利点を考えれば、俺はここに居候を続ける努力をすべきだろう。どちらに住んでも恐ろしい目に遭う可能性が有るのなら、少なくとも食と住が保証されるのは大きなアドバンテージだろう。

 分かりましたと俺が素直に答えれば、叔父はすぐに機嫌よく食卓に着く。そうしていつものように卵焼きと昨晩の残り物をおかずとした手間の一つもかかっていない朝食を食べ終わり、食後の緑茶をいつもの湯呑に注いでからはまったくこちらに構う気がないようだった。それでも居候という立場をわきまえた俺が、食器を片付けてから何かすることはないだろうかと御用伺いをすれば、


「無いから鳥でも眺めてなさい」


 と人によっては聞いた途端に怒り出すようなことをさらりと言って、そのまま空になった湯呑とお茶が一杯に入った薬缶を持ってすうと二階に上がっていってしまった。

 そのふらふらと階段を登る背中に向けて、片付けなくてもいいから散らかさないでくださいよと無駄だと知りつつ呼びかけて、仕方がないので表に出て言われた通りに鳥を眺めることにしたのだ。


 爽やかな夏の朝。八時を少し回ったぐらいの今の時刻ならば、凶暴な太陽も未だ穏やかなふりをしていてくれる。日射しに徹底して追いやられた影は溜まりに濃く蹲り、白く明るい庭先にはぢぢぢぢとかしましい小鳥の群れが遊んでいる。

 とりあえず玄関先の石段に座り込んでぼんやり鳥を眺めているのだけども、これがなかなか面白いのだ。この庭でよく見かけるのは雀と、何だか白黒のぎぎぎと妙に濁った声で鳴く鳥だ。こいつらはちまちまと小さなものたちがわらわらと群れているのが可愛らしい。群れて何事かを小声で鳴き交わしては、時々思い出したようにげぎぎと鋭く鳴き出してはまた一斉に静かになって日向でじっとしている。

 それも鴉がくると一斉に散るのが面白い。散々に散っていく小鳥たちとは対照的に鴉は悠々として、何が面白いのか屋根のへりに留まってじっとしている。見事な艶の黒翼を眺めながら、こんな意匠の何かを見たことがあるなとしばらく考えて、ああガーゴイルだと合点がいった。古めかしい瓦屋根に白壁、真正面に掲げられた家紋瓦の傍らに鴉が留まっているというのは不吉な具合にしっくりきていて、こういう絵面はポーか横溝だなと思った。


 俺が座り込んでいる石段は日向とはいえ屋根のあるせいでひんやりとしていて、そこで難しいことを考えずに軽やかで清々しい朝の光にじっと射られていると、現状や実状はともかくとして自分がとても許されたような穏やかな気分になってくるのだから気楽なものである。


 燦々と明るい庭と鳴き騒ぐ小鳥たちの羽音や囀り。その中にぐぐうと、鳩の鳴き声が聞こえた。


 鳩は妙に好きだ。あの鳥類特有のてんとして丸い目も、布のように柔らかな羽毛のふくふくとした様子も愛らしいと思う。ぎとぎととした艶のある緑の首も薄紅の脚も鮮やかで華やかなのに、それでいてどてどてとしたあののどかな動きなのがものすごく好きだ。高校の頃に好きが嵩じて、帰り道にある城公園に寄り道してはわらわらといる鳩を暗くなるまで眺めているというのを二週間ほど続けたことがある。すると観光地であるそこで解説員として働いていたご老人が、さてこの小僧を連日見かけているような気がするが、いつも独りベンチに腰掛けてぼんやり虚空を眺めているというのは不穏であるから、恐らくこの子供はなんだか思春期特有の下劣だが繊細な悩みを持って黄昏ているのではないのかと大いなる勘違いをしてくれたおかげですごく厄介なことになってしまった。次の週からは公園に溜まるのは止めて、帰り道に流れるそれなりに大きな川の岸辺に座り込んで、電車の間隔がいやにあるせいで時間潰しをする必要がある友人と、二人で鴨と鳩の鳴き合いを眺めることになったのだ。

 この家に来てから、明烏や日がな窓辺で囀る雀や基本的に延々と鳴いている蝉の声はあれど、鳩が鳴いていたり飛んでいたりするのを見た覚えがない。あまり見ないものだから、やはりこんな近所の表札がほとんど同じ苗字であるような、町を詐称している実質的な村よりも、電車で行けて立派なお城のある市の方が餌の実入りが違うのだろう。見かけないのを少しだけ残念に思っていたのだけど、いるのならば大変に嬉しい。


 ぐぐうぐぐうと鳴く声が、あちこちと動き回ってからこちらに近づいてくる。急に動いて驚かすのも可哀そうだと、俺はじっと身動きせずに目だけを動かして鳴き声の主を探す。突然ぐうう、と鳴き声がすぐ傍らで聞こえて、目線を向けると、


※   ※   ※


 手にしていた茶碗の中にある飯が見たこともないほど真っ赤になっていて、なぜ俺は筋子をバラすというより潰してしまったのだろうと驚いていると、


「おや目が戻ったな。朝になったら連れて行こうかと思ったけど」


 味噌汁白子だからそれも食べなさいと俺のとは対照的に丁寧にバラされ紅いビーズを満遍なく蒔いたようになっている筋子飯を丼で食べながら、叔父はいつもよりほんの少しだけ気づかわしげな視線を向けてきた。


「これ昼ごはんですか」

「晩だよ。テレビと窓を見なさい」


 言われて見たテレビの画面ではローカル放送のアナウンサーがニュースを読み上げていて、その左上には18:30の数字があった。続けて向いた窓にはあの眩い日差しの気配すらなく、窓ガラスには仄かに熱の名残を帯びた紫色の夜闇が滲み始めている。


「……俺、今日の覚えがありません」

「だろうね。あれで覚えがあったらこないだのSF小説みたいだ」


 叔父が筋子飯と煮立って湯気がもうもうと上がる白子の味噌汁を食べながら話してくれたことには、叔父は朝食のあと、上がった二階で極力散らかさないように努力しながら読んでいた本に一区切りがついたのは随分経ってからだった。そう言えばそろそろチャイムが鳴るから昼食を食べようと二階から下りて来たところ、俺が今の椅子の上で膝を抱えて座っていたのだそうだ。具合でも悪いのかと聞けば首を振ったのでそれならと焼きうどんを作らせたのだけども、その最中も食事中も一言も喋らずにいるものだから、連日の疲れでも出たのだろうかと考えたのだそうだ。その結果、大変そうだから気が済むまで放っておこう、そしてまた本の続きを読もうと考えて二階に上がったのが午後の一時くらいからだそうだ。そこから日が陰り始めるまで本を読んでは時折うとうととしつつ、昨日届いた新しい本の中ほどまでを睡魔と一緒に読み終わったあたりで夕焼け小焼けの放送が聞こえてきたので、夕飯の支度をしようと下りて来た。するとやはり俺が明かりも点けずにぼんやり座り込んでいるから、これはひょっとして病院に連れて行かないといけないかなあと思いながらも、もう夜だし暴れる様子はないから明日でいいかと考えた。取り合えず楽に作れるものを、と筋子と白子の味噌汁と目玉焼きを二人分食卓に出したところ、うろんな目をした俺は叔父がもくもくと丼飯を食べ始めるのをぼんやりと見てから、律義に手を合わせて執拗にご飯茶碗に入れた筋子をねり潰し始めたのだという。叔父はそれを止めようとするでもなく、ただ面白がって眺めていたのだ。すると俺が急に自分の茶碗を見て驚き始めたものだから、ああ正気に戻ったんだなと納得したのだそうだ。


 叔父の説明を聞いて、とりあえず色んなことに気付くタイミングを尋常ではない回数でこの人は見逃していないだろうかと思いながら、俺は劇的な赤色になってしまった筋子飯を噛む。卵が潰れているせいで食感なんてものはなくなってしまっているのだけど、それでも旨いのは変わりない。


「君午前中どこかに行ったのかい。私好きにしていいって言ったから、出かけたかと思ってたよ」

「庭先で鳥を見てました」

「いっぱいくるからね。秋はなぜか鴨も来るよ。去年は蛇にとられてしまったけど」


 蛇は最近たまに軒で日に当たっているよと言って、叔父はさくさくと食事を平らげていく。この人の食事は質も頻度も別段飛びぬけておかしなところは無いけれども、速度だけは明らかに速い。食事に興味が無いようでいてそれなりに好き嫌いはあるようで、以前揚げ出し豆腐を買ってきたところ、ひどく残念そうな顔をされたのを覚えている。

 叔父は口の端に付いた米粒を拭って、じっと俺を見た。


「鳥を見てて倒れたか。熱中症なら危ないから今からでも水を飲みなさい。うかうかすると意外と死ぬよ」

「熱中症というか――雀と小さい鳥見てて、多分、鳩を見たと思うんですよ」

「曖昧」


 ばっさりと言われて考え込む。あの爽やかな日差しも群れていた鳥もまばらな車の音もぐぐぐと喉を詰めたような声も覚えているのに、その鳴き声から先の記憶――鳴き声の主に視線を向けた先の動作から、記憶が全て抜け落ちている。


「鳩がいたはずなんですけど、鳩を見た覚えがありません」

「禅問答か何かかいそれ……珍しいね、あの庭で鳩見たことないや」

「鳴き声から判断しました。見たはずなのに見ていません」

「鳩を見て倒れたのか」

「記憶が切れたのはきっとそこからです。どうしてかは分かりませんし、ひょっとしたらそのタイミングでほら……襲われたりとか……ほら……」


 言いながら頭を撫でまわしてみるが、傷はおろか瘤一つ無い。指先にはしっかりと固い頭蓋骨の感触があるばかりだ。叔父はくらげの中華和えをパックごと手前に置いてごりごりと摘まみながら俺の一連の動作を眺めて、


「襲われたんなら警察だけど、どうもそうじゃないんだろ」

「はい。いつもと同じ頭です」

「じゃあ鳩だね。見たら倒れたんだろ」

「そんな雑な」


 だってそうだろと言いながら見る間に三分の一程を食べ切られたくらげの容器を食卓の中央へと押しやって、


「こないだの犬と同じだよ。君がのほほんと鳥を眺めていて、鳩がどっかで鳴いて、そっちを見たら今の今までぶっ飛んでたんだろう。じゃあきっかけが鳩だよ」

「熱射病とかどうなんですか。天気よかったじゃないですか」

「具合は」

「……とても良いです」


 喉の渇きも、頭痛も、倦怠感も何もない。強いて言うなら空腹だが、食欲がある時点で病状としては論外だろう。

 納得のいかないのが顔に出ていたのだろう。叔父は心なしか少しだけ優し気な声音で言う。


「まあ、平和でいいじゃないか。鳩見て倒れたんなら、次は鳩見なきゃいいんだ」

「地元で鳩見たときは何ともなかったんですよ。ほら城があって公園があって鳩がわらわらと」

「じゃあここの鳩が悪いんだろ。もしくは鳩じゃないんだろ」


 そもそも君何で鳩だと思ったのと言われて、鳴き声がしたからですと俺は答える。ぐぐうぐぐうとのどかな土鳩の鳴き声は、その穏やかな雰囲気とは裏腹に、人が喉を詰まらせて息を洩らす音によく似ている。以前父が盛大にそうめんに噎せて死に損なった時の喉音が鳴るのを鳩のようだなと呑気に眺めていて、母に叱られたのだ。


「土鳩の声か」

「はい。ぐっぐって締まったような声が聞こえたので、鳩だと」

「見てないのだろ」

「だから見た後の覚えがないんですってば」

「それ忘れたんじゃないのか」


 綺麗に空になった食器をまとめ、氷の融けきった麦茶を一啜りして、叔父は言う。


「君は声でずっと鳩だ鳩だと言ってるけど、同じように鳴くものったら他にいたっておかしくないだろ。君なんか鳩みたいな声の、おっかないものでも見たんじゃないのか」


 言われてはたと思い当たる。

 確かにあの声が鳩のものだという確たる証拠は何もない。判断材料は鳴き声だけで、俺が聞いたそれを鳩の声だと判断したのは、今まで聞いたことのあるものでよく似ていたのがそれだったというだけのことだ。

 頼りになるものが俺の知覚と記憶だけでしかない以上、果たしてそれが鳩だったのかというのは、途端に頼りないものになってしまう。何せ姿を見ていないのだ。


「そういうのいるんですか、このあたり」

「いるんじゃないの。君見たんだろ」

「叔父さんは見たことないんですか」

「無いね。けど私見たことないからっていないってことにならないだろ」


 そもそも私の見た見ないがどうして君の目に関係するのと不思議そうに言って、叔父は食器を持って流し台に移動する。そのままいくつか空になった鍋も流しに放り込んで、水音を立てて食器を洗い始めた。

 身も蓋もないが言っていることは間違っていないし、これ以上だだを捏ねるようにこの人を質問責めにしてもどうしようもないということを、この一週間のここでの生活で俺は何となく悟ってもいた。しばらく黙って、ようやく人が普通に飲める温度に冷めた味噌汁を啜りながら、俺はとりあえず一つだけ聞くことにした。


「叔父さん、俺、何見たんでしょう」

「覚えてないなら思い出さない方がいいんじゃないの」


 きっとそっちの方が楽なんだよと返して、叔父はがしゃがしゃと食器を洗っている。その妙に姿勢よく食器を洗う姿を見ながら、とりあえずもう一杯潰れていない筋子で飯を食おうと、俺は炊飯器の蓋を開けた。

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