傍にいる

 文庫本は壁際、図鑑の類は鏡台の傍、画集は後程下の洋間に移すので部屋の入口にとりあえずまとめておく。他本の下から出てきた紙片やら薄いケースやらを何故か部屋の片隅に転がっていた籐かごに押し込みながら、俺は立て続けに三回くしゃみをした。


「余程悪名轟いてるようじゃないか。どうだろう、厄除けにお参りでも。近所に神社があるんだ」

「駄目ですよ。今日は片付けるんだって言ったじゃないですか」

「私嫌だもの。楽しくない。お参りはどうだい」

「嫌です。俺だって別に片付けが好きって訳じゃないですよ。だけどこれじゃいつまでたってもこの部屋で寝られないじゃないですか」


 率直に言えば、当初の目的を思い出したのだ。事故物件から逃れ、怪奇現象に追われ、訳の分からない叔父に振り回されてはいたが、とりあえずの俺がこの家に住むにあたっての条件は部屋を片付けることだったはずだ。それがどうもなおざりになっていると気づいた以上は取り掛かるしかなかったので、病み上がりでいつもよりも減らず口の回転が鈍っている叔父を無理やりに付き合わせて、本で埋まっていた二階の八畳の部屋を片付けることに決めたのだ。

 本とはつまり財産であるので、普通の掃除のように邪魔なものを片端から捨てていけばいいという訳でもない。薄汚れてそこそこに痛んでいても、意外なことにそれなりの希少価値があったりするのが本である。俺には片付けをする義務と権利が与えられてはいるが、叔父の財産を毀傷するそれを与えられてはいない。なので、叔父が好き放題に読み散らかした本を片付ける際の峻別を彼に任せ、俺はよく動く手足になろうと考えたのだ。

 

「叔父さん、また武装島田倉庫出てきました。三冊目ですよ」

「ええ?そんなに買ってたっけか……文庫だろ?じゃあ壁際だ」

「エルフ・17」

「それは君の父さんが去年引っ張り出してきたんだ。階段傍の本棚」

「あれ地震来たらすごいことになると思うんですよ、絵本平家物語」

「画集。それすごくいいぞ、良かったら君読みなさい。読もう」


 片付け終わったら見ますというと、心底嫌そうな唸り声が返ってくる。昨日病院に担ぎ込まれたのを一応は借りだと認識しているらしく、大人しく分別を手伝ってくれてはいるが、まったく集中していないのが一目見て分かる。とはいえこの雑然として混沌とした状況を俺一人で始末できるとは到底思えないので、騙しだまし叔父が飽きたと部屋を飛び出すまではこの地道な分類作業を続ける必要があるのだ。


 次に、と手にした本の題名を読み上げようとしたその時、チャイムの音がした。


 次いでがらりと玄関の戸が引き開けられる音が続いて、郵便ですという嘘のように爽やかな大音声が聞こえてきた。鍵を掛けていないのかと驚くが、そういえば仁科さんも掛けてはいなかったし、そもそもこの家に着いた当日も鍵なんて掛かっていなかったことを思い出した。

 

「郵便だよ。受け取ってきてくれ。そうしないと上がって来るから」


 私はちゃんと分別しているよと微塵も信用できない事を言う叔父を見て、それでも家に上がられては面白くないと、俺は急いで階段を下りた。


※  ※  ※


 お取込み中でしたかと済まなそうに言う郵便屋は、大声で住人を呼びつけたことに対しての謝意はあるようだが、自分が扉に隔てられることなく室内に侵入できたことには何の疑問も持ってないようだった。玄関に鍵が掛かっていなかったことを不思議とも思っていないというのが、最早十分に俺にしてみれば恐ろしい。仁科さんが玄関を施錠しなかった時も驚いたが、この郵便屋の躊躇のなさから察するに、どうも叔父や仁科さんに限った話ではなく、この辺りの住民は日中もしくは在宅の際には玄関を施錠しないのが普通のことなのだろう。ということは、お化けも怖いが侵入してくる生身の人間にも怯えないといけないのかと暗澹とした気分になりながら、いやに姿勢よく立っている郵便屋を見る。

 だがその開け放した扉の向こう、その背後からひょいと覗いたものに脳を揺らされたような気分になった。

 

 目は機嫌の良い猫のようにきゅうと細まり、眉はどこか困ったような下がり眉。微笑む口元からは僅かに八重歯が覗く。頬は滑らかに白く、右だけえくぼができている。肩口で切り揃えられた髪は明るい栗色で、時折吹き付ける夏の風にさらさらと揺れる。服装も薄青のひらひらとした上着と何だか小洒落てゆったりとした黒いパンツという、総合してどこにでもいそうな可愛い少女だ。少女はするりと玄関から入り込んだかと思うと、そのまま郵便屋の腕にその白い腕を絡ませて、彼の顔を見上げている。


 そんな少女を傍らに侍らせて、郵便屋はこちらに判子お願いしますと言って用紙を差し出した。


 真っ先に同伴出勤という単語が頭に浮かんで、郵便屋というのはそういう仕事ではないとすぐに打ち消す。指導中だろうかと考えて、こんなラフ過ぎる私服での勤務はクールビズが適用される範囲を超えているだろうと思う。そもそもこんなひらひらした格好で赤カブに乗る許可が出るとは思えない。転ぶどころか虫にぶち当たっただけでそれなりの怪我になるだろう。

 そんな雑然とした思考がぐるぐると回るが、とりあえずはこの配達員から郵便物を受け取らないといけないと腹を括って、判子の位置が分からないということに気づいた。


「……すみません、サインでいいですか」

「判子そこですよ。船の後ろ」


 言われた通りに靴箱の上を見れば、そこには誰が作ったか最早分からない帆布船の模型が乗っている。薄く埃の積もったガラスケースの裏を探れば郵便屋が言った通りに判子があって、なぜ住人でもない外部の人間が物の位置を把握しているのだろうと慄然とした。

 ともかく必要なものは見つかったので、キャップを外して捺印する。ことのほか綺麗に押せた気がしたが、持ち帰られてしまうのが残念だなと益体もないことを思った。


「お兄さん初めて見る人ですね。息子さん?」

「甥です。兄の息子です」

「ああそうか弟さんなんですよね。びっくりしましたよ知らない人出てくるんですもの」


 最近の泥棒は堂々と身内のふりをするそうですからと、チャイムも鳴らさずいきなり玄関を開けて入ってきた他人に言われてどう返すべきか分からなくなって、俺は曖昧な表情でそれらしい返答をしてみせる。郵便屋は気にした風もなく、それじゃよろしくお伝えくださいと一礼して背を向ける。その背には相変わらず少女が絡みついていて、そのまま二人揃って玄関を出て行った。

 閉まった玄関の向こうから聞こえる郵便バイクの排気音が遠ざかっていくのを聞きながら、田舎というのは恐ろしいなあとぼんやりと思った。


※  ※  ※


 封書が二つと小さな小包が一つ、抱えて階段を登る。今や発掘現場のような様相を呈している部屋に戻れば、予想外に掘り進んだらしく、押し入れの正面の畳が露わになっていた。その真ん前にぼんやりと座っていた叔父が、俺の気配に気づいたのかこちらを向く。未だ床に落ちている本を踏まないように近づいて、俺は抱えたそれを渡した。本に埋もれて座り込んだ叔父は受け取ってから少しだけ嬉しそうな表情をして、それから立ち尽くしたままの俺の顔を見て不思議そうな声で言った。


「何だ。また気になったのか。難儀なやつだね君は」

「俺はどちらかというと適当な方です。よくそうやって怒られました――頻度がおかしいんですよここ」


 ここら辺の郵便ってどうなってるんですかと聞けば、田舎だから届くのが遅いよと何の参考にもならない答えが返ってきた。


「今は夏だからそんなに遅れないがね。冬なんて可哀そうな話だよ。寒いし危ないのに届けないと叱られる」

「仕事でも堪えられる限度はありますね。俺の疑問はそれじゃありません。その、同伴出勤ってありなんですか」


 同伴出勤という単語に意表を突かれたのか、叔父は細めた目を二三度瞬かせてから手近な本の表紙をするりと指先で撫でて、


「ああ、ナカハラ君か。言いたいことは分かるけど、その言い方は止めなさい。そもそも出勤じゃなくて勤務中だしね」


 あれは趣味の賜物だからなあとどことなく恐ろしい前置きをして、叔父は立てていた膝を崩して胡坐を掻く。そのまま本を退かして空いた襖に寄りかかって、少しだけ思案するような間を取った。


「君が言いたいのはあれだろ。若い子とぺとぺとしながらお仕事するのはふしだらに破廉恥じゃないかってやつだろ。公序良俗的な」

「そこまで強い内容じゃないです。ただびっくりしたんです」


 電車や公共の場所でべたつく二人連れに対しての、色んな感情が一気に発現した挙句の見ていて居た堪れなくなる類のものではない。快活に仕事をこなす青年の背中に、ぺとぺとと女が纏わりついている。だが青年はそれをほんの少しも気にする様子はなく、まるで存在すら気づいていないかのように振る舞う。そんなものを見て羞恥や嫉妬や憎悪を感じる奴はいないだろう。およそ殆どの人間が、困惑と恐怖を抱くはずだ。


「とりあえずね、ナカハラ君にはお姉さんがいたよ。ナカハラ君が十とかその辺で亡くなったんじゃないかな。可哀そうだったなあ、わんわん泣くんだよね子供って」

「あれは幽霊なんですか」

「さあ」

「さあ?」


 お姉さんと同じ姿ではあるけどねと言って、叔父はぺたりと顔に触れる。この人がやたらと物を触るときは何がしかどうでもいいと忘れかけていたことを思い出そうとしているときなんじゃないかと、ここ数日の観察を経て俺は思い始めている。


「ええと――美容室のね、初井さん。駅前のトンネル入る手前にあるやつ」

「あるんですね。いるんですねそういう方が」

「いるんだ。そこの初井さんがね、そういうことができるんだって」

「そういうこと」

「だからナカハラ君のそれだよ。何をどうしたかは私はさっぱり――髪がどうだっけな――知らないけど、初井さんに頼んで一年後だったかな、ナカハラ君の後ろにああいうものが貼りつくようになって、ちゃんと仕事したんだな初井さんって話題になったっけ」


 小学校で事情を知らない子がいたせいで大騒ぎになったなあ、と言って叔父はかりかりと頬を掻く。その呑気な風に何となく苛立たしいような気分になって、俺は距離を詰める。


「結局幽霊なんですか」

「知らない。必要がないから聞いてもない」

「じゃああれなんなんですか」

「生身の人間じゃないのは確かだね」


 何しろ死んだのは事実だからと言って、叔父はじっと俺を見る。どうせいつものように、何に俺が怯えているのかを観察しようとするときの目だ。この人は同情も理解もしない癖に、気が向いたという理由で興味だけは持ちたがるのが厄介だと思う。


「だから趣味の賜物さ。彼はお姉さんに似たもの貼りつけて嬉しい、見た人はびっくりするけど見慣れれば可憐でよろしい、誰も困っちゃないじゃないか」

「嬉しいんですか。その……ナカハラさん、は」

「嬉しいだろ。居なくなったものの身代わりがいつでもついてきてくれるんだ。見えずともこんなに心強いことはないんじゃないの。期待を背負ってもう一人じゃない、みたいな感じだろ、こういうの」

「見えないんですか」

「ん?見えないよ。ナカハラ君は何にも見えてない」


 見えたら邪魔で仕方がないだろうと言って、叔父は何が面白いのか微かに笑う。俺は最早何が何だか分からなくなって、その場に座り込む。目線を合わせてみても、叔父の双眸から何かを読み取るような真似はできそうにない。


「ナカハラ君には何も見えない。それ以外の人には誰にだって見える。そういう仕組みなんだって聞いたよ」

「じゃああの人なんなんですか。見えてもないのに侍らせて、それは何が嬉しいんですか」

「だから趣味なんだろ」

「そんな――不毛じゃありませんか」

「有益な趣味ってのは仕事って言わないか」


 どうにもならないことをそんなに悩んでどうするんだ、と言って、叔父は珍しく俺の返答を待つようにこちらを見る。特段責める気も詰る気もない、ただ興味があるだけという顔だ。恐ろしいものにぶち当たった人間がどういう理屈で反応するのか、それを知りたいだけの表情。


「……そういうのは、可哀そうじゃありませんか。俺はそう思ってしまいます」

「どっちがだい」

「どちらも」


 叔父は珍しい蛾が網戸に貼りついているのを眺めるときのようにしげしげと俺を見つめて、


「返す返すも難儀なやつだね、君は」


 言って堪えきれなくなったように破顔する。その間もその黒々とした瞳は逸らされることもなく、測るように探るようにこちらを覗き込む。そういう顔をするとやはり父に似ているのだな、と俺は思った。


「考えるのは楽しいことだけどね、限度というものを決めないと首が締まるよ」


 飽きたからおやつにしよう、といって叔父は立ち上がり、そのまますたすたと部屋を出て行く。部屋には片付け切れていない部屋と俺だけが残されて、開け放した窓からはひやりとしたやませが吹き込む。俺は何となく悲しいような寂しいような、ひどく頼りない気分になる。見たものを哀れむのも恐れるのも、どれも俺の勝手でしかないのに、そのせいで自分が一番惑乱している。ただの自縄自縛だと分かっているのに、それでも考え込んでしまうのだ。離れ難いと泣いて惜しんで、手元に留めたその人の姿が、自分にだけは見えていないのだ。関わりのない俺のようなものにはっきりと見えるのに、それを欲した本人には髪の一筋すら見えない。浅ましいとも寂しいとも、恐ろしいともどこか違う。こういったものの分類の仕方を、俺は未だ誰にも教えてもらっていないのだ。


 お茶が入るよと思いのほか大きな声で叔父が呼ぶのが聞こえて、俺は慌てて立ち上がる。片付けはしばらくかかるだろうなと、とりあえず目の前の問題を見つめ直す。解決すべき問題が直近にあるのならば、それを見据えていれば道を外す問題はないだろう。

 今戻りますと返事をして、俺はゆっくり立ち上がる。もう一度強くやませが吹き込んで、首筋に伝った汗が冷たかった。

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