お好きなように
結局叔父の熱は下がらなかった。その上悪寒が抜けないらしく、早朝から遠慮も無く照りつける焦げるような日射しのせいで室温計が二十五度を超えている室内で、晩秋に着るような厚めの長袖を着て朝食が要らないというものだから、これは風邪ではなく熱中症で死ぬんじゃないかと俺は恐怖を覚えたのだ。すぐさま壁に貼ってあったタクシー会社の連絡先に電話を掛ければ三十分でお迎えに上がりますとありがたい返事があった。いつにもまして覇気も生気も無くぐったりとしている叔父に手を貸して、何とか最低限人前に出られる程度の身繕いを済ませてやれば、丁度玄関先に車の入って来る音が聞こえた。そのまま引きずるようにタクシーに叔父を運び入れてから戸締りを終え、ようやく近所の猪池尾会病院に担ぎこんだのだ。
お盆を控えた休日であるせいで、病院内にはほとんど人がいない。このあたりの年寄りは暇つぶしに病院に来ないんだろうかと何だか珍しいものを見ているような気分になっているうちに叔父の名が呼ばれて、付き添いとして俺も診察室に入る。医者は、叔父を見てから俺を見てひどく驚いたような顔をして、叔父の診察に取り掛かってから、
「とりあえず点滴でも打ちましょうか」
と不安になるくらいにあっさりとした指示を出して、そのまま処置室へと俺たちは移動した。
そうして大人しくベッドに横になった叔父の腕に看護師が点滴の処置を終えた途端、あろうことか先程の医者はどっかりと傍らの椅子に腰を下ろして
「災難でしたね、ぼっちゃん」
そう言ってにこにことこちらを見るものだから、俺はどういう反応を返すべきか分からなくなって叔父を見る。すると明らかに体調不良とは違う種類の凶悪な表情を浮かべているものだから、そちらにも驚くことになった。
「熱出した時点で病院に来いっていつも言ってるでしょう。イツキさんはちゃんと二週間ごとに来てたんですからそういうところを見習って下さい」
「そういうこと言われるから嫌なんです。食欲はあったしいいでしょうよ」
「八度超えたら危ないんですよ。ことにあなた肺も片方ないんだからそういうのがあっさり悪化するんですよ」
「……うるせえな。兄さんに言いつけるぞ敏夫」
「その歳でそういうことを言わないでくださいよ。悲しくなるじゃないですか」
病人と医者の会話とは思えない。そもそも年上の成人の会話とも思いたくない。それでも話を聞くにおそらくこの医者は俺の父親と同級生か何かで縁があったのだろうなと考えながら、とりあえず一番引っかかったことを聞くことにした。
「叔父さん、肺無いんですか」
「うん?ああ……片方ね、昔失くしたよ」
「どうして言わないんですか」
「叔父の肺の有無が甥にどう関係するっていうんだ」
「心配するじゃないですか」
何を言ってるんだこいつと声に出さないだけであからさまに告げてくるような視線を向けて、叔父は長々とした溜息をついた。その様子を面白そうに見て、医者は短い笑い声を上げた。
「甥っ子さん随分まともじゃないですか。ぼっちゃん君の言ってることはとても真っ当です。理不尽に怖気づいてはいけませんよ」
「ありがとうございます」
「お礼も言える。偉いじゃないですか。なんでこんなまともな子があなたみたいな人のところにいるんですか」
「みたいなとはなんだ。経済的にも倫理的にも破綻した覚えはないぞ。立派な成人だ」
部屋を本で埋め尽くしたりする時点でその主張はだいぶ破綻しているんじゃないかと思いながら、そういえばこの人はどうやって食い扶持を得ているのだろうとふと疑問を覚える。その瞬間叔父がじろりと目線をこちらに向けて君何か失礼なことを考えているなと分かり易く棘のある声で言った。
「荷風や太宰なんかと一緒にするなよ。世の中には地代収入というものがあるんだ」
「叔父さん地主ですか」
「あの家残して住む代わりに私が爺さんから引き継いだんだ。兄さんは――君の父さんは冗談じゃないと一蹴して大喧嘩したからね、適任で次点候補だったんだ、私は」
一義さんは優しい方ですからねと医者が俺の父の名前をしみじみとした様子でいうものだから、叔父はあからさまに機嫌を悪くして点滴まだ終わらないのかと聞いたこともないような荒い口調で言う。遭遇した状況に俺は驚くべきか宥めるべきか困ってしまって、とりあえず居たたまれなくなってその場から逃げ出したのだ。
※ ※ ※
清潔なリノリウムの床が真っ直ぐに続く、誰もいない八月の病院。処置室から追い出された俺はその光景を眺めて、世界の終わりってこんな感じなのだろうかと不穏なことを思った。
誰にもすれ違わない上に、看護師の姿すら見当たらないのが驚きではあるが、考えてみれば病院とはいえ今日は土曜の休日なのだから、利用者も従業員も少ないのは当然ではあるのだろう。入院病棟の方ならば人もいるのだろうが、こちらは外来だからだろう。静まり返った廊下に射す光さえ淡々として、清冽だからこそ引き立つ禍々しさは、ここが病院だということを見せつけるようだ。
一階をうろつき終わって二階へ登ろうと、階段に足を掛ける。金属製の手すりはどこか生ぬるく、直前まで人が触れていたかのような気さえしてくる。病院の癖にそれなりに急な階段をとんとんと登り終えて廊下に出れば、一階とさして変わらない構造のフロアだった。整然と並んだ診察室の扉と一定の間隔で置かれた長椅子があるばかりで、廊下の突き当りにある大きなガラス戸の先は狭いベランダのようになっているのだろうか。鉢らしきものが置かれているように見えた。
背後からぱたぱたと足音が駆け寄ってきて、そのまま何か華やかなものが俺の横を通り過ぎた。
ぎょっとした俺の目に、ぴんと背筋の伸びた少女の後ろ姿が映る。うろついた階下では見なかった筈だ。上階から下りてきたのだろうか、と思いながらその背中を見る。紺のハイソックスに深緑のチェックスカート、クリーム色のニットベストの腰当りにはスカートと同じ色のラインが入っていて、おそらく制服なのだろうなと予想がついた。
そのまま彼女はあっという間に廊下の突き当りまで進んで、ガラス戸を開いたかと思うとベランダの手すりから飛び降りてしまった。
あまりの事に声も出せず、反射的にベランダに向かって走る。空きっぱなしのガラス戸の向こうにごちゃごちゃと置かれた植木鉢には見慣れない黄色い花がわらわらと咲いていて、こんな状況なのに蹴り飛ばすのに躊躇する。それでもなんとか隙間を探りながらじわじわと歩き、ベランダの手すりに恐る恐る近寄った。
出来れば無惨なものは見たくない、けども万一息があったら、もし見捨てたせいで手遅れにでもなったら――
「おい」
背後から掛けられた声に今度こそ飛び上がる。そのままごつごつとした手に肩を掴まれて、ぐいと廊下まで戻される。勢い余ってそのまま尻餅をついて、肩を掴んだ手の主を見上げる格好になった。
「暇なのは分かりますがね、飛び降りは勘弁してください。今うち人いないんですよ」
こういうことするあたりやっぱりあの人の血縁ですねと言って、医者は深々と溜息をついてみせた。
※ ※ ※
それから叔父の処置室まで俺も連れ戻され、医者には何であんなことをしていたんですと至極当たり前な質問をされた。人が飛び降りたんですという我ながら正気を失っているとしか思えない発言をひとしきり聞いてから、医者は、
「確認してきますからじっとしていてください」
と紙コップになみなみと麦茶を注いで渡してから、部屋を出て行ってしまった。俺は先程見たものをなるべく思い出すまいと考えて、ゆっくりと紙コップに口を付ける。叔父はうとうととしているのか、いつものように訳の分からないことを言い出したりはしなかったので大変助かった。
紙コップの中身が半分ほどになった頃、ひどく困惑した顔をして医者が戻ってきた。どうでしたかと聞けば、ううんと欠伸と唸り声の混ざったような返事があった。
案の定というべきか、ベランダの真下には何もなかったそうだ。死体どころか怪我人ひとり、血のひとしずくどころか髪の一本すら落ちていなかった。
「田舎ですけど仮にも病院ですからね。人が死んでないとかそういう嘘は言いませんけど、そんな若い子がそうやって死んだってのは覚えがないですね」
「最近じゃないかもしれないじゃないですか」
「ベストにチェックスカートって言ったでしょう、君。それ確かに近くの中学の制服ですけどね、二年前に変わったばっかりなんですよ。二年間でそういう死人はここじゃ出ていません」
何だったんですかねえと言って医者は腕を組む。何だか分からないのは俺も同じなので、返す言葉も見つけられずにそうですねえと間抜けな相槌を打った。
「まあ……お盆ですからね。色んな人が帰ってきてるんじゃないですか」
「俺の悪ふざけとは思わないんですか」
「ガラス戸開けてましたからねえ。その時点で超常してるから……気づきませんでした?一応ベランダに出られると危ないからシリンダー付けてるんですよあの戸」
鍵は今日は僕が持ってますと言って、白衣の胸ポケットをとんとんと叩いてみせた。
「君が手癖が悪いっていうならともかく、ちゃんと今持ってますからね。そもそも開院前に水やって僕が締めて、それを師長立ち会いで確認してますから。開いてたとしたら僕と彼女の不手際になってしまいますので。だから本来なら開いてない筈なんですよあの窓」
そうだとしても何にも落ちてませんからねと言って、医者はもう一度首をひねって見せた。俺も何とも答えようがなくて、黙って残った麦茶に口を付けた。
「じゃああれですか、通りすがりの露出癖に付き合わされたようなものですか」
そんな感じですかねと医者がぼんやりした相槌を打つ。通りすがりで目の前で墜落ショーをされてたまるかというのが顔に出たのか、医者は少し間を置いて、
「生身の人間だって面当てに死にますからね。リスク背負ったってやる奴はやるんですから、そんなの死人がやらない訳がないでしょう。ノーリスクでインパクトって、その手の連中には垂涎ものですからね。僕には価値が分かりませんけど」
どの道ゆきずりの女は忘れてこそでしょうとさらりとひどいことを言って、医者はちらりと叔父を見る。
叔父はうとうととしたまま微動だにしない。いびきどころか寝息すら聞こえないので、この人は本当に死体のように眠るのだなと思った。
「点滴あと二十分ぐらいで終わるんで、看護師が外しに来ます。そしたら会計して薬受けとったら帰っていいですよ」
「ありがとうございます」
「君も災難でしたね、こんな人を担ぎ込んだり妙なものを見たり」
「だいぶ慣れました。もう少し慣れようと思います」
俺の返答を聞いた医者が無理をしちゃいけませんよと本心から憐れむような声で言うものだから、俺は笑うべきなのか嘆くべきなのか分からなくなってしまった。そんな俺の葛藤など知る様子もなく、それじゃあお大事にとの一言を残して、医者はそのまま処置室を出て行った。
「……君ね、あんまり関わっちゃいけないって言ったろうに、懲りないじゃないか」
「起きたんですか。具合どうですか」
「それなりにはマシだよ。熱よりあいつの方がよっぽどしんどい」
何か見たんだろうと聞くので、見ましたと素直に答える。そういうこともあるだろうなとまだ少し怠そうな声で言って、叔父は半眼のまま天井を睨んだ。
「親切にできるのも結構だけどね、場合によっちゃ巻き込まれておしまいってのもあるんだから気を付けなさいよ」
「叔父さんにそれを言われるのはとても心外です」
「私がやるのはいいんだよ。血縁だろ」
あまりにも勝手なことを言われたので、この数日で起こったことを思い出して反論してやろうと思った気力が一気に失せた。こういう人間には何を言ってもどうにもならないのだろうということが分からない程、俺は勘が鈍いわけではない。
「昼はお粥にしますけどね、晩ご飯どうします。食べてくれないと薬が飲めないんですよ」
「うどん」
「……分かりました」
意外とまともな希望を出されて、俺は驚く。どうせこの人のことだから、唐揚げとかオムライスとかそういう無茶を言われると思っていたのだ。
「麺は冷凍庫に入ってるから、適当に茹でてよ。私天ぷら乗せて食べるから」
「天ぷら」
「あのほら、丸いやつ。袋に入ってるやつが冷蔵庫にあるからね、それ」
天かすも乗せようと嗄れた声を弾ませて言う叔父を見て、この人は本当にどうしようもない人なのだなと俺は改めて思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます