恋しいひと

 買い物に出かけますけど何かいるものありますかと布団に埋まった叔父に声をかけると、熱でぼんやり潤んだ目にぎっと力が籠って、


「アメリカンドッグが食べたい」


 と妙に通る声で返事があったものだから、この人はどうして素行どころか味覚まで普通にしていられないのだろうと思った。


「もうすこし考えて喋ってくださいよ。あんた一応風邪引きでしょう」

「食べたいんだよアメリカンドッグ。君病人の希望を無碍にするのか」


 そうやって弱った人間をいたぶると罰が当たるよと明らかに何かのバチが当たっていそうな叔父はいやに力強い声で言って、恨めし気な目でじっと俺を見るのだ。

 昨日の墓参りから一夜明けた途端に前兆もなく三十八度の熱を出した時点で、叔父には何がしかの罰が当たっているような気がしてならない。何の罰だと考えても、戒名にケチをつけた先祖か墓石に言及した他人か帰り際に構った無縁仏かと候補が多すぎてどうしようもない。そもそも昨日今日の罰とも限らない。そうして高熱で布団にひっくり返っている叔父の代わりに買い出しに出ようと御用伺いをした結果が、先程の正気を疑う要求だ。どうしてこの人は馬鹿げた要求をするときだけ人間らしくなるのだろうと考えて、いつもより熱のせいで血色の良くなった顔を眺めた。


「せめて油物は止めませんか。おにぎりとかどうです、しゃけの」

「オムライスのやつが食べたい」

「だからどうして方向性があさってなんですか。油物を止めろって言ってるんですよ俺は」

「食べたいのだから仕方ないだろ。病人だからこそ滋養とカロリーを取るべきだ」

「カロリーと油分は違うんですよ」


 埒が明かないと諦めてとりあえずそれらしいものを買ってきますと立ち上がると、ちょっと待ちなさいと往生際の悪いことを言い始めた。もっと馬鹿なことを言い出したらどうしようと身構えて、それでも俺は一応年長者への敬意を払って立ち止まり聞く姿勢を取った。


「玄関の棚のとこに回覧板あるの。それ、回してきて欲しいんだよ」

「いいですよ。近所ですか」

「三軒隣りの……仁科さんって、表札の家。あの……ミエルの方。庭にほら、石榴が植わってる」

「今の時期それ分からないですよ。周囲には同じ苗字は無いんですよね?」


 この辺りは殆ど高槻姓で埋まっているので、苗字が違うというだけで随分見分けるのが楽になるのだ。田舎によくあるあれと言ってしまえばそれだけだが、外で生活してきた人間が突然にそこで暮らすとなると中々に不便ではある。


「ないよ。うん……血筋が、遠すぎるって爺さん言ってたっけ、うん」


 熱が上がってきたのか、普段以上にとりとめのないことをふんわりと叔父は喋る。これ以上聞いてもどうしようもないなと――それに病人に延々と喋らせるのもかわいそうだと考えて、俺はいい加減切り上げて出かけることにした。


※   ※   ※


 午前の強烈な日射しに灼けてなお黒々とした門柱を抜けて、そのまま左折しざくざくと歩く。コンクリートの歩道をすたすたと歩けば一軒目は高槻姓、その隣も高槻姓と名前も作りも似たような雪国の住宅がそこそこの広さで続く。田舎だから土地が安いのだろう、ここらの一軒家は大体広大な庭と余裕のある玄関先を所有しているなと思いながら、余裕がないと雪に埋まるのかと気づく。そんなことを考えているうちに二軒目のコンクリ塀が途切れて、途端に見事に茂ったイチイの垣が続き、やがてぽかりと顎のように開いたところからずいと敷石の道が伸びる。その突き当りには、最早見慣れた二重玄関のガラス戸。

 その傍らに異様に馴染まない様子で吊るされた木の表札には、仁科とはっきり記してあった。


 呼び鈴を押そうとしても表札の近くにはそれらしいものが見当たらず、しばらく考えてからひょっとしたら叔父の家と同じ造りなんだろうかと思い当たる。案の定ガラス戸の向こうの木戸の横に取り付けてあるのが見えて、引けばガラス戸はがらがらと音を立てて開いた。


 呼び鈴を押せばはあいと少し低いがよく通る声が聞こえて、ばたばたと足音が近づいてきたかと思った矢先に、からりと勢いよく玄関が開いた。


「こんにちは、仁科ですけどあれ……見ない人だけども」


 回覧板持ってらってことは高槻先生の家の人かねと言って、その人は困惑した笑顔を見せた。


 それだけで俺は目を逸らせなくなってしまった。


 寄せられた眉根は麗しく、小首を傾げる仕草はひどく可憐だ。浮かべた笑みは穏やかでありながらもどことはなく蠱惑的で、ぱちぱちと瞬く瞳は静かな情感を湛えて美しい。こんなに心惹かれる容貌の人を、俺はこれまでの短い人生の中で見たことがなかった。

 あっけにとられて見惚れているとどちらさまかねと流石に怪訝そうな問いが投げかけられて、俺は慌てて答える。


「あ――甥、です。叔父のところに今、世話になっています」

「そうなの、じゃあこれからご近所さんだなあ」


 わざわざ届けてくれてありがとうねと言ってにこりと微笑みながら、受け取った回覧板を抱える。優雅な手先がその表紙に添えられて、壽日野の町名すら華やかに見えた。

 そのまま仁科さんは一礼して一歩引いたかと思うと、からからと軽やかな音を立てて目の前で扉が閉まった。そのまま足音が遠ざかっていくのが聞こえて、あんなに綺麗なひとでも鍵を掛けないんだとぼんやりと思った。

 しばらくあの嫋やかな手と滑らかな声を思い出して去り難く立ち尽くしていた。騒ぐ心を抑えながら何ができるでもなく煩悶していると、不意に背後からぶうんとバイクの排気音が聞こえた。冗談抜きに心臓が止まりそうな驚きと共に振り返れば、イチイの茂みの傍らに郵便屋のバイクが止まったのが見えた。それに気づいた瞬間、疚しいわけでも後ろめたいわけでもないけれども無性に恥ずかしいような気になって、俺は慌てて玄関口から逃げ出した。


※   ※   ※


「おにぎりじゃない」

「済みません。買いそびれました」

「何しに行ってきたの君」

「回覧板は回してきました」


 ひと眠りしたせいで元気になったのだろう、そっちの用は後付けだろうにと茶碗によそった貝味噌粥を食べながら、叔父は怪訝そうな目で俺を見た。

 動揺していたのだろう。仁科さんの玄関先を出てすぐその後の予定も何もかもをすっかり忘れて家に帰って、ぼんやりと台所の冷えた床に蹲って見たものの衝撃に浸っていたのだ。どれくらいそうしていたのかはよく覚えていないが、窓の外から風鈴の音と共に時報のチャイムが聞こえてきて、はたと我に返った。いつもの叔父はきっちり時刻を決めて昼食をとるひとであるから、例え熱を出していようがその習慣は崩さないだろうと考え、俺はすっかり青くなった。とりあえず作れるものを作ろうと冷蔵庫に残ったものと常備してある貝殻で病人食らしいものを作ったのだが、結局いつもより食事時間がそれなりにずれ込んだ叔父は怒りはしなかったがどういった理由があるのかだけは気になったらしい。だるそうに食卓に着いて、説明をしなさいといつもより掠れた声で言った。


「あの……仁科さんに、回覧板を回してきて、」

「それは偉い。迷わなかったろ、出て左行って真っ直ぐ」

「はい。イチイの垣が立派でした」

「あそこの庭秋になるとすごいからなあ。で?」

「渡しました」


 すごく魅力的な方ですねと絞り出すように呟けば、叔父はしばらくじっと俺の顔を眺めてからはたと何かに思い当たったように二三度頷いてみせた。


「ああ――ああ、そう。へえ」

「済みません……何かもう、あの、夢中になってしまって、あの」

「どう見えたの」

「はい?」

「魅力的だったんだろ。どう魅力的だったかってね、説明」


 じっと見つめられたままそんなことを要求されて、この人は熱が頭に回ってしまったのだろうかとふと思ったが、聞かれたことには答えなければならないと思い直して、俺は先程の面影を辿る。


「あのすごく可憐で、儚い感じなのにその艶、みたいなものがあって、でも嫋やかで、しとやかで、品があって、」

「色は」

「緑の半袖着てました。こう、胸元にアザラシと熊が」

「服の話じゃないよ。そうだね、とりあえず色白か色黒かって聞こうじゃないか」


 言われて仁科さんの顔を思い浮かべようとして、思考がどうにも回らないことに気づく。印象と、雰囲気と、声、それら全ては強烈に記憶されているのに、目、耳、鼻、口などの細かな造作になると一つも思い出せないのだ。


「目は幾つだった」

「……優しそうな、あの、惹きつけられる……」


 普通なら答えられる筈のことすら記憶に残っていないことに愕然とする。眼帯だろうが隻眼だろうが三つ目だろうが一つ目だろうが目の個数なんてものは普段意識せずとも覚えられる他人の容貌だろうに、それすらぼんやりとして思い出せない。


「君ふわふわした話しか言わないじゃないか。具体的な褒めが一つもない。垂れ目とか唇が薄いとか首が細いとか、そういう物理的な記憶が何にもない」

「……叔父さん」


 また何か怖い目に遭わせたんですかと言えば忘れてたけどここまでなるとは思わなかったよと珍しくばつの悪そうな口調で返された。


「仁科さんは何ですか」

「普通の人間」

「この状況でまだ適当を言うんですか」

「だって本当に普通の人だもの。夕方とかミエルで買い物してたりするもの」


 強いて言うなら問題は君にあるんだよと叔父は食べ終わった食器を横に退けて、湯呑の緑茶を啜ってみせた。


「何て言えばいいのかね。あばたもえくぼとか、面面の楊貴妃とか、茨も花とか」

「最後なんか違いませんか」

「うん――とにかくそういうやつだよ。あるだろそういうこと。どう見ても欠点なのに、見ようによっては美点になるやつ」

「……ありますね。具体例は差し控えますけど」

「体質なのかなあ。見た人が一番好ましく感じるように見えるんだって。誰にでもそう見えるって訳じゃないけど、なんかそうなっちゃう人がいるんだって前に聞いたよ」


 私は喫茶店のウエイトレスに泣きながら縋りつかれてるのを見たことがあるよと言って、叔父はお茶の熱さに涙の滲んだ目元を拭う。男女問わずなんですかというとそうなんじゃないかなと適当な答えが返ってきた。


「強弱があるんだけどね。何となく懐かしいなあってくらいに見えるひともいるし、それこそ君みたいに買い物を忘れるくらいに舞い上がるような理想の人が見えるひともいる」

「みんな違う人に見えてるってことですか」

「そうだね、顔の説明すると抽象的なくせに食い違って面白いよ」


 人によって好みって違うからねという叔父の言葉に、俺は思わず耳が熱くなるのが分かった。つまり先程の会話で俺は自身ののろけ話を叔父に延々としていたということである。大変に恥ずかしい。友人ならまだしもこの叔父だ。しかも風邪まで引いている。


「……質問をしてもいいですか」

「いいよ。思いもよらず語彙があったからね君。面白かった分ご褒美をあげよう」

「仁科さんは人によって見え方が違うんですよね」

「そうだね。見る人の状況や体調によっても変わったりするよ」


 じゃあどうやって恒常的に見分けるんですかと聞くと叔父は平然として、


「手を見るんだよ。ええと――左手だ」

「指輪でもあるんですか」

「指が六本あるから」


 それだけは誰が見ても変わらないんだよねと言って、叔父は一息ついてから喉を逸らせて湯呑を空にする。俺はあの回覧板に添えられた優雅な指先を思い出そうとして、その時町名の文字に抱いた嫉妬を思い出して殊更に顔が赤くなる。誰が見ても変わらないはずの指の本数すら分からない程に夢中になっていたという事実が無性に恥ずかしくなると同時に恐ろしくて、ついに俺は頭を抱えた。

 叔父はそんな俺の様子をしばらく面白そうに眺めていたが、


「病人だからね。口漱いでから寝るよ」


 お粥ありがとうねと言って席を立つと、そのまま洗面所に向かってのそのそと歩こうとし始めた。


「叔父さん」

「何。寝るんだよ、病人だよ私は」

「叔父さんにはどう見えてるんですか」


 せめてもの仕返しに同じ弱みを握ろうと問いかけたが、叔父はほんの少し困ったような顔をして、


「見えないんだよね」

「は?」

「仁科さんの顔だろ。私は見えないの。何にも。印象すらない」


 だからいつも手を見て話をするなあとひどいのか優しいのか判断に困ることをさらりと言って、叔父は今度こそ居間から出て行ってしまった。

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