人のこと
枯れきって錆びた骨のようになった花束を花立から抜き取りながら、じゃあ君水場行って桶に水汲んできなさいと心なしか楽しそうな声音で叔父は言った。
空高く日は昇り、晴れ渡った空は爽やかに青い。蝉の声はじゃわじゃわと今を盛りに鳴り響き、時折吹く風は乾いた土の匂いがする。
そんな爽やかな夏の日に、俺は先日毟ったばかりの百合の花束を担ぎながら墓の群れの中でぼんやりとしている。
眩い日射しが惜しげなく反射している黒曜の墓石を眺めてから、俺はその前で花立に入っていた腐れ水をばたばたと足元に投げ捨てている叔父を見る。すっかり空にした花立を丁寧に戻してから、俺が背後に立ち尽くしたままだったことにやっと気付いたように叔父がこちらを振り向いた。
「何故まだいるの。私適当に草をむしるからその間に頼むよ」
「俺水場どこだか知りません」
「本堂の横に寺務所があって、その横に棚と水道があるよ」
「本堂ってことは来た道を戻らなきゃならないじゃないですか。なんで来るときに教えてくれなかったんですか」
「だって忘れてたんだから仕方ないだろ。ごめん」
いいから汲んできなさいと言って叔父はさっさと墓に向き直り、墓参りの細々としたものを詰めて持ってきた紙袋を邪魔にならないあたりにどけて、やはりどことなく浮かれたような様子で宣言通りに草をむしり始める。この暑い中でこんな肉体労働をしているというのに、この普段からどちらかと言えば室内派で親類からの伝聞や部屋の有様を考えれば確実に怠け者であろう叔父はへばるどころかいつもより生き生きしているとさえ言っていい。異様だとしか思えない。
とにかく言われた用事はこなすべきだろうと諦めて、俺はもう一度本堂まで戻ることにした。
※ ※ ※
伏せた木桶を引っくり返すのに、一瞬だけ躊躇する。
木桶に限った話ではなく、俺はこういう伏せられたものが少し怖い。茶碗でも洗面器でも段ボールでも、『中に何かが潜める空間』が有る状態で置かれたものが対象になる。そんなことが有る訳ないと分かっていながら、空間を暴いた途端にその中から虫や刃物や手首なんかが転がり出て来るんじゃないかという想像が浮かぶ。この妄想を以前父に話したが、「転がり出たから何だというんだ」と一蹴されて終わった。確かにその通りなのだけれど、そう端的に言い切られてしまうと何だか風情や何かが削り落とされてしまったような気分になったのを覚えている。
もちろん寺紋の入った木桶の中に何が入っているという訳も無く、だぱだぱとそれなりの量を注いで柄杓を入れてから持ち上げる。そのまま本堂の前を横切って墓地に戻れば、いくつかある真新しい墓がなかなか斬新な造りをしていてこれも流行なんだろうかと何となく妙な心持になりながら、ざりざりと土を踏んで叔父のもとへと歩く。
辿り着いた墓の前では叔父が明らかに嬉しげな顔で代々の戒名を眺めている。俺はあんなに朗らかな顔で墓石を見つめている人間を初めて見た。それだけでも恐ろしいというのに、それが自分の血縁であるのだからなおさらどうしようもない。
あまり近付きたくないのは山々だが、そうするとこの木桶になみなみと水を注いできたのがまるで無駄足になってしまうので、とにかく声を掛けた。
「何を楽しそうにしてるんですか」
「戒名とかね、うちにも面白いのがあるんだ」
見てみなさいと言われて目を向ける。黒曜の石面には六人分の戒名が刻まれているが、俺にはただお経のように漢字が並んでいるようにしか見えず、一体何がそんなに面白いのかが思い付かない。それでも話を振られた以上は返さなければならないので、とりあえず見て分かることを口に出した。
「いっぱい死んでるんですね。ひいばあちゃんとかですか?」
「ひいばあちゃんはよそにいるけどね。ひいばあちゃんの娘とか息子とかよく分からない人とかいるよ。一番新しいのがじいちゃんだけど」
じいちゃんの戒名は普通だからなあと実の親の戒名にケチをつけるという罰当たりなのか何なのか前例が思い当たらずに判断に困る行為を成しながら、叔父は手際よく墓に水をかけ始める。器用に線香立てとその手前の台部分を避けて、つるつると滴る水が戒名も享年も真っ黒に濡らしたのを布で拭う。仕上げのように先ほど脇に退けていた紙袋からまんじゅうが四つぎちぎちと詰められた使い捨ての弁当箱を台の上に供えて、叔父は楽し気に解説を始めた。
「ぼんやりひいじいちゃんの姉さんだって聞いたけどね、この人。若いうちに死んだからかな、とても煌びやかなんだよ名前が。流行りに乗るよね。美しくて好きだけどね、けど戒名ってこんなに派手でいいのかなって聞いたらじいちゃんに怒られた」
指差された戒名を見るが、なるほど叔父の言っていることも分からなくはない。春や花やら、字義だけ取るなら非常な美女と読むべきだ。面白いかどうかはともかくとして、確かに華やかで派手やかな戒名だろう。
そう感じたことを告げるとそうだよねと珍しく感情溢れる人間的な返答があって、そのままつらつらと言葉が続く。
「あとね、ひいじいちゃんはそのまんまなんだよね。先生してたから育入ってるし、もう一人のお姉さんも寿命全うして健全に亡くなったから無難だしね。一人分からないのは童子だから子供なんだろうけどじいちゃん覚えないって言ってたから誰だか分からないんだよね。横にはじいちゃんのお兄さんがいるけど細かく書いてあって興味深いね。ほら戦死しちゃったから何処でとか何日とか細かく書けるんだよ」
戦争関係の人はお墓が面白くていいねと余り聞いたことのない感想を言って、叔父は唐突に歩き出す。あっけにとられて見ていると、しばらく行った先で止まって俺の名前を呼んだので慌てて後を追った。
「ここの墓さ、階級見れば分かるけど軍曹さんだから偉いんだよ。だからほら人型。立派だしこれはこれで味があると思うの私。墓だからって一律直方体ってのも寂しいと思うんだ。スタンダードにも確固たる美があるのは確かだけれどそれ専門ってのも幅がなくって要は多様性こそが進化の種でその乱立並列の過程を経て洗練された方への収束を以て結局定型に終結するからまた面白いんだけどさ」
まるで酔っ払いが観光名所でも解説するような調子で、叔父は陽気な身振りで他人の墓を示す。立派な軍人の姿に象られた墓石はよく磨かれていて、供花も新しい。遺族が丁寧に祀っているのだろうと予測が出来た。
実績のあるお墓には祀る方も気合が入るからねと殊更訳の分からないことを言って、叔父は今度は少しばかり哀れむような顔をしてみせる。いったいこの人は生身の血縁である俺に対して適当極まりない対応しかしないくせに、何故他所の家のものも含めて墓石相手にここまで豊かな感情表現ができるのかと不思議に思った。
しばらく傷ましいような羨むような微妙な表情でじっと軍人像を眺めてから、叔父はまた唐突に歩き始める。まだ墓場を徘徊するつもりだろうかとしばらく見ていると、自分の家の墓に戻っていった。慌てて俺も戻ると、どこからか取り出した使い切りのおしぼりできっちりと手を拭ってから、いつの間にか供えてあった赤飯まんじゅうを手に取って、墓石に向かい合ったまま食べ始めた。
「鴉が出るからね、ここお供え持って帰るとこだからさ。君も食べなさい一つ。私は二つ食べるから」
言っておしぼりと共に一つを差し出してきたので、有り難く受け取って食べ始める。しばらくして炎天下の中での赤飯はだいぶ喉に詰まるということに気付いた。
「叔父さん水筒とか持ってないですか」
「ん?喉詰まりならさっき水汲んだ所行ってきなさい。水道だから水が出るよ」
「……あれ多分飲用は想定されてないと思うんですよね」
流石に墓場の水道を(というか仏様に使うために設置されている水を)飲むというのは心情的に嫌だったので、喉の詰まりを何とかこらえることにした。少し固めに炊かれた赤飯はそれなりに甘く、これを緑茶なんかと一緒に食べれば二個三個とするする食い続けられるような代物なのに、それでも耐え難いどころか生命に関わりかねない窒息感から、ちびちびと齧ってようやく一つ片付ける。叔父はといえばやはり平然とした顔で黙々と二つ目に手を付けるところであり、あまりその様子が水羊羹でも飲んでいるかのように自然なものであったので、俺はこの人は喉に何か仕掛けでもあるんじゃないだろうかと全く意味のないことを想像した。
瞬く間に墓前のまんじゅうを片付けた叔父は満足そうな顔をして、また周囲の墓の戒名や墓碑銘なんかを心底楽しそうに眺めている。放っておくと一日中でも眺めていそうな様子に呆れて、とりあえず人間を連れてきていることを思い出してもらおうと声を掛けた。
「お墓好きなんですか」
「好きだね。嫌いな奴だって死んで墓入ったらそいつの墓はきっと好きになるね」
「つまりお墓の中身に興味がある訳じゃないんですね」
「中身に興味があったら気味が悪いじゃないか」
だって骨だよと叔父は肩を竦めてみせる。俺からすればその気味の悪さの境目がどこにあるのかが見当もつかない。中身があるからこそ墓石はただの石ではなく墓として存在するわけであって、中に誰もいない状態であるのならば、それはどれ程正しく分かり易い墓の形をしていたとしても、墓石ではなく石でしかないと思う。つまり墓と死人とは分離不可能なものであり、そう考えると叔父のこの物言いにはとても道理が通らないように俺には思える。
「骨だよったってその骨がなきゃ墓だって石じゃないですか。下に死人が埋まってるから石じゃなくて墓なんでしょう」
「それはたまに例外もあるけどだいたいその通りだね……じゃああれだ表現を変えよう。死人本体に興味があるんじゃなくて、その死人をどう表現したかに執着があるんだ私は」
麗子より麗子像の方が高値が付くだろうと心底から失礼な上に分かるような分からないようなことを言って、叔父は空になった容器をぺきぺきと捩じった。そのまま傍らの紙袋に押し込んで、訝し気な顔でこちらを見た。
「けど一体何でそんな事を言う。君まさか墓が怖いのかい」
「どちらかと言えばそりゃ怖いです。戒名とか卒塔婆とか死亡歴とかあんまりわくわくするものではないです」
「それが良いのに。そもそも石は怖かないだろ。いろいろ書いてある石だよ。それが死人のことばっかりなだけだろ、いいとこカルテとどう違う」
「カルテは裏返しても骨出てこないじゃないですか」
「うん――ああそういう怖がり方をしてるのか君」
不意を突かれたような顔をして、叔父が俺のことをじっと見る。その視線には珍しく興味深げな色があって、これまでの経緯のせいかそんな視線を向けられている自分が墓石になったような気分がしてきて、大変に居心地が悪かった。
「つまりあれか、うっかり蜘蛛を叩いた新聞が何だかおぞましいものになったような気がして、エタノール撒いてからゴミ袋の底に押し込んでしまいたくなるようなあれか」
「そんな面倒くさいことしてるんですか」
「蜘蛛怖いんだよ。昔怖い本を読んだんだ」
そうか君死人が怖いのかとおよそ墓場で言うには最高に不釣り合いなことを呟いて、叔父は何故かわくわくとした表情をしてみせる。さっきからこの人は墓場で罰当たりかどうかはさておいて違和感のある表情ばかりをしていることに気付いて、どうしてこの人はこんなに世間の評価ややり口なんかに興味のない人になってしまったのかと興味なのか憐憫なのかが分かり辛いような気分になってしまった。
「蜘蛛はほら、ものによったら実害があるだろ。その点死体は何にもしない。焼いたらもっと安全だ」
「お化けはどうなんです」
相手によるねと叔父は片足を外柵の階段に乗せる。そのまま体操で腱を伸ばすときのような仕草をしながら答えた。
「目的とか対処の仕方が分かってるんならどうでもいいんだ。自分に関わりのないものに口を出すのは失礼だろう」
「失礼っていうのも……斬新な、うん」
「よしんば死人が墓にいるとして、じゃあそこにいるから何だっていうんだ。何がいようがどうしていようが、こっちに厄介を掛けないならどうだっていい話だろう」
余計なちょっかいを出さなきゃいいだけだろうと言って、叔父はこちらをじっと見る。俺はうわ言なのか倫理なのかを分類しかねて、この人はたまに線の繋がったようにまともなことを言うのだなと驚いた。そんな俺の様子を気にした風もなく、叔父は言を続ける。
「牡丹灯籠だって当事者なら大騒ぎだけどね、眺める立場なら面白いばっかりじゃないか。ひょっとしたらお金も貰える」
「それ伴蔵でしょう、巻き込まれて罰が当たるやつじゃないですか。最近の訳ありバイトとどう違います」
「やるって選んだのは本人だろ。罰が当たるまでは順風満帆なんだからいいじゃないか。どうせ酷い目に遭うならそれまでの過程は幸せな方がいい」
叔父はいつもの平然とした顔で、悲観的とも前向きともとり難いことを言って俺を見る。ひどく人間的なことを言っているなと思う反面、けれど結局は万物を面白がっているだけなんじゃないかと疑う。積極的な悪意は無いけれども絶対的な善意も持たない類の人間っていうのは悪辣だなあと思った。どうやって生きてきたらこんなに適当なことをすらすらと話せる人間が出来上がるのだろうと考えて、そういえばこの人の血縁である俺の父親も余計な弁が立つ類の人間だったと思い出した。つまるところ一族揃ってろくでもないのだなと乱暴な結論に達して、俺は墓石に視線を向ける。誰も彼も早死にだったせいでこの墓に入っている人物の中で面識があるのは祖父だけだが、その息子がどれもこれもこんなことになっているのだから、きっと墓の中でも肩身が狭いのではないかと思った。
叔父はそんな俺の複雑な心境を斟酌する気などさらさらないようで、来た時と同じくらいにてきぱきとした手順で墓参りに使った様々なものを紙袋に取りまとめて、
「じゃあ暑いから帰ろう。帰ったらお茶を淹れるから残してきた赤飯を食べよう」
そう言って空になった桶と紙袋を片手に、すたすたと墓地の入り口に向かって歩き始めた。この人はどうして一々の動作に連続性が無いのだろうと考えて、思いついたことを実行するのに躊躇や思慮というものが無いせいだと思い当たった。反射で動く分経路が短いのだろう。
そんなことを考えて眺めていた叔父がびたりと足を止めて、そのまましゃがみ込んだものだから遂にバチでも当たったのだろうかと俺は慌てて駆け寄った。
「何ですか。担ぎますか」
「違うよお参りだよ」
言われて叔父の目線を追えば、彫られた仏の姿もすり減ってぼんやりとしてしまった小さな墓石がいくつか並んでいて、手前に掘られた溝に線香や細かく刻まれた胡瓜がぱらぱらと置かれていた。
「これは誰のお墓なんです」
「無縁さん。何だろうね、同村のよしみみたいなものだろ多分」
いつの間にか持っていた朝顔を供えて、気が済んだのかそのまま直ぐに立ち上がる。朝顔なんて可憐なものをどうして持っていたんだろうと聞けば、墓に生えてたから毟ったんだよという案の定聞いた方が悲しくなる類の答えが返ってきた。
さすがにそんな人と並び立って歩くのが躊躇われて、立ち上がっても歩き出せずに足元の無縁仏と叔父の背中を見比べる。苔むした墓前にぽつんと供えられた朝顔を見てこれは無闇なちょっかいにならないんだろうかと考えてしまう。放っておけばお互い不干渉ですむものを、僅かな善意や悪意を向けることで繋がる縁というものがあるのではないだろうか。
仄かな胸騒ぎじみたものを反芻していると、何してるんだとやる気のない呼び声が飛んできた。この人は本当に墓場だと元気になるなとしみじみ思って、俺は慌てて後を追った。
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