シノギの行方は


 シノギが蹈鞴から逃げ出して三十日が経った。村のどこにもいないから、逃げ隠れもせず退散したのだろう。情けないと思いながら、情けがなかったのは盈ではないかと彼自身恥じる節を村人に見せていた。

 そもそも村人にとってシノギは悪そのものという認識だから、彼らにとってみればシノギが逃げたことで万々歳とも言うべきところだろう。けれど、盈はどうにも腑に落ちない。

 湿気ぽい空気で迎えた朝を迎え、この昼に太陽は厚い雲に覆われていた。雷光が光を放って漏れ出てきそうなほど、炭の色をしていた。

 懊悩としながら盈は、蹈鞴のある屋内でじっと鉧を見ていた。三十日前にシノギが作り上げた鉧である。あと少し辛抱すれば彼もこの鉧を見て、心の底から感動したろう。シノギは腕は未熟だが言葉尻から勉強熱心さを感じてはいたから。

 ムシャが蹈鞴場の中に入って、盈の隣に座り込んだ。

「盈」

「ああ、ムシャか」

 じっとしている盈を見ていられなかったのだろう。鉧を取り出すために壊した炉の名残の場所に目を移す。

「あの馬鹿野郎が」

 もう一度鉧のほうに視線を移す。風に晒しゆっくりと空冷した頃合いに、刀の玉鋼になるか見てはみたが。残念ながら一応に使えるものではなかった。

 この未完成品をシノギに見せてやろうと思ったのに。

 だがふと思った。もしかしたら彼は姑息にも玉鋼の出来を早い段階で悟っていたのではなかろうか。そうであれば説明がつく。失敗作ができたと嘆いて悲鳴を上げるくらいなら、この場から逃げてなかったことにするのが傷つかずに済むから。

 ただ一番に傷ついたのは、この置いていかれた鉧だろう。

「ふざけんなよ、シノギ」

 彼にそう言ってやるのが一番だと盈は感じていた。玉鋼作りは勝ち負けなんかじゃない。負けたとき、どう反省し次にどう生かすか。いや、それだけでなく、負けに直面してそれを素直に受け入れ、その悔しさをバネにすることも肝心なのだ。少なくとも盈はそう思っている。

 その失敗すら認めないというのならば、ふざけんなと言えるのも頷ける。

 まして、いきなり完成ということができるほうがおかしい。そこまで業を舐められたら、それこそ許せない。それはどんな仕事でも同じだ。はじめこそは自分の失敗を受け入れることが、初学者の務めだ。そうでなくてはならない。

「まったく、それこそふざけんなと言ってやりてえよ」

 盈だって幼少から有無を言わさず叩き込まれた。三日三晩眠らないで玉鋼を作る。この地獄のような特訓を何度も繰り返した。

 そもそも玉鋼なんか作りたくなかった。そこに意味を見いだせない。刀や剣術にも当初は興味なんてなかった。けれど繰り返し鍛錬していくうちに、その秘奥に触れる瞬間があった。そのときが一番幸せで。だからこそ盈は玉鋼作りをやめない。そう決めたのだ。

 村下として、いや、村下を名乗るにしてもまだまだな部分はたくさんある。それでも、おじいさまと父親から吸収するだけ吸収して、二人の教えは盈自身の身体から指先までしっかりと染みこんだ。

 まずこの初回で失敗するなというのが無理な話だ。玉鋼が未完成で出てくること、そんなことは盈がすでに想定していた。

 失敗作で包丁にすら使えない玉鋼ができたのであれば、盈に謝らなければならない? いや、玉鋼にまず謝るべきだ。そうシノギに教え込むつもりだった。

 失敗は実利にはならない。だが、バネにしてもう一度作るための肥やしとなる。そして、そう思ったらもちろんのこと、また作るという義務も生じる。

 失敗作として死んだ玉鋼に報いるためにも、もう一度作る義務はあるのだ。

 取り出されたあの鉧が重々しく屋内の隅っこで寂しそうに腰を下ろしていた。シノギに対して何か語りたいであろう。泣きながらいっぱいシノギと話をしたいと、想像すらしてしまう。だから鉧は寂しそうだった。

 ふと雨音がしてきた。降りしきる雨が屋根を打つ。

「あいつがここを襲撃してきたときも、雨が降ってきたな」

 もしかしたらシノギは戻ってくるだろうか。そうしたら叱責の限りを尽くして、もう一度玉鋼を作らせるつもりである。盈は頑なだった。

「帰ってくる、きっと」

 ムシャがそう答えると、盈は静かになる。だが強く押し黙った状態で不器用に願った。

 雨雲で外は暗みを帯びていたが、外からほんのわずかな光が差し入る。

 ちりが光の中を泳ぐさまが目の前に浮かび上がっていた。

 ムシャの金髪が一際きれいに見える。盈はドキッとして、顔を背けた。

 だけどムシャの顔もまたどこかしら寂しそうな笑顔をしている。

 笑顔だったから、ムシャはおそらく盈の行動を責めたりしてはいない。

「盈がやったこと、多分間違ってない」

「ああ、そっか」

 自分は心の存在しない雨雲になれただろうか。そんな不安を伴っていたけれど、ムシャと同じ笑みを真似るように笑顔を浮かべた。

 そう、間違ってはいない。

 だがいっそ自分が間違っていたという道理があったほうが、盈にとって受け入れやすいのが道理だった。それこそ模範として反省し悔しがることができるから。

 そこに慢心はあるか? いっそ自分の慢心ごと粉々にできたらどれだけ救われるだろう。

 盈は思う.自分もまだ未熟なのかもしれない、と。

 ムシャの控えめな笑顔で接してくる、ただそれだけのことが盈の心を安定させてくれる。

 それにしても、雨脚が強くなってきた。屋根を叩く音がひとしお強くなる。まるで、扉を無理強いに叩き、出てこい盈とでも叫びでもしそうなほど強く強く。

 なぜか無性に気が気でなく盈は嫌な予感がしてきた。

 炎の灯っていない蹈鞴の屋内は涼しい。普段から炉の熱気で汗と煤で塗れるから、この涼しさは心地よかった。

 本来、鉧ができたら蹈鞴は地下構造ごと取り壊すのが決まりである。ときすでに三十日、鉧を出すために炉の壁を壊した以外には、何ひとつ片付けをしてはいない。

 シノギが戻ってくるかもしれない。そんなことを考えながら、まだここは取り壊しをしないという風に決めていた。

 しかし涼しさが一際涼しくなる。ここまで来ると寒くて、鳥肌が素肌に上がってきた。外で降りしきる雫はきっと氷の雨だ。

 泥水を跳ねる音がちょっとした間に聞こえてくる。気にする素振りもなかったが、それがどんどん近づいてくるのが気になって、盈は耳を澄ませる。

 それは足音だった。まさかシノギが帰ってくるためにここまで走りに来ているのだろうか。

 一縷の望みに盈はすっと立ち上がり、扉のほうを見た。

 開け放たれた扉の外のほうで人影が近づいてくる。

「シノギか?」

 だが、人影はたった一人ではなかった。複数人の者がこちらに駆け足で向かってくる。

 八人ほどが中に入り込み、雨に打たれた濡れ鼠同然の姿で、御佩刀教の紫衣の男たちが泥に塗れた足で入ってきた。

「なんだよ、おい」

 無礼に土足で駆け込み、思わず盈はぶっきらぼうに口走った。

 それが気にくわなかったのか、男は盈の襟首を掴んで、外に放り出した。

 背中から氷雨で濡れて、濡れネズミ同然の惨めな思いをする。

「てめえら、いったい何事だ!」

 こんな無礼を働くのだから、それ相応のことを盈がしたのだろう。それを問い詰める姿勢で、彼はこの八人の男を睨みつけた。

「お前が何かしたのではないのか?」

「……は?」

 しごきまくった報復として、このような手ひどい扱いをしたと最初は思った。しかし、それならそうと論破論駁ろんばくする反論はきちんと考えていたのだが。

「シノギ様をどこへやった!」

 それを聞いて「あ?」と言って盈は訝しげな顔をする。御佩刀教団のところへ戻ったのではないのか。

 逃げたのだから、盈はそうとばかり思っていた。だが彼らの様子がどうも変だ。

「あいつなら逃げた、お前らが望む情報はせいぜいそれだけだ」

「貴様、シノギ様になんたる無礼な言葉だ!」

「事実を述べたまでだ、あいつは修行が辛くて逃げたんだよ」

 だが矢継ぎ早に出てくる同じようなことを何度も繰り返していくうちに、疑惑は確信へと変わる。

 シノギは行方をくらませたのだ。

「おい、どういうことだよ。シノギはお前らのところに戻ってる。そうとばかり思っていたのに」

 とてつもなく考えにくいことだった。いくら厳しくしたからといって、御佩刀教からも逃げ出す理由などないからだ。

 そのことを信者たちに報告してこっちに来るというのであれば、それこそ本望だったのに。

 まさかシノギは、あの聖剣様に顔向けできないと思ったのだろうか。

 そんな考えが盈の頭に浮かんだが、適当な考えだったが、反芻してみるとその恐れは大いにあると悟る。

 行方がわからなくなったシノギのその後が心配だ。別に無事であってくれなんて思ってもいない。けれど、死んだら死んだとわかったときは、盈の胸のつかえが一生取れないような気がした。

 彼の身に何かあっただろうか。

「聖剣様に会わせろ」

「な、何を言ってる。お前みたいな分際の人間が気安くまた聖剣様と」

「バカか、俺は村下だ。説明する責任がある。会わせろ、いや俺が会わなくてはならないんだよ」

「この小僧が、相変わらず何を考えていやがる」

 まるでおもちゃのように定まった口ぶりを何回も何回も繰り返す平信徒たち。

「この責任のすべては俺にあるのは間違いない。それとも、いまここで俺の首を刎ねるか?」

「んだと……」

「首を刎ねるなら、俺を裁くときにしろ。俺はそのために聖剣様に説明をする義務がある」

 舌打ちする平信徒たち。

「仕方ない、小僧を都まで送っていくぞ!」

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