斬鉄剣ノ士 斬鉄ノ剣士
明日key
第一章
志摩満の子孫
明治三十七年。日本海を航行する戦艦はロシアに向かう。
桜葉模様の長刀を差し、
「志摩兵曹!」
水兵が総員こめかみに手を当てて志摩に敬礼する。顔が若い者ばかり。
「報告いたします!」
伝達を欠かせない彼らは、日常に潜むわずかな歪みも見逃さない。天候は良好。風も波も穏やか。辺りに船舶の航行なし。そして、水兵の「以上であります!」の声を聞き済んだ。厳かな立ち振る舞いで志摩は、開けた海の地平を見渡す。
海風が微風であるうちに、海上から遥か遠くにある日本を眺める、志摩の心中で。
志摩の家は刀鍛治である。実家で紅い鋼鉄を打ち、火花を散らす。冬の日ですら鍛治場は猛烈な熱気だ。身体中から玉の汗が噴き出し、すすに塗れながら、その肌は鬼みたく赤くなる。一本の刀に命と銘を与えるのに刀鍛治は常に真剣だ。
志摩は、剣道の腕は良し、居合も良し、抜刀も良し、剣術においてさえ誰にも引けを取らない自信があった。刀を生み出す
しかしそんな光景はやがて忘れ去れるであろう。
桜葉模様の長刀を決して誇りには思わない。士官の地位を示すものではあるが、それは武士であることを示すものではない。
廃刀令があった過去など誰もが忘れている。かつて国に
腰の帯刀は抜けばそれはサーベルだ。「これは日本刀にあらず」という言葉を、彼は腹の中のみに留めている。ひとたびそれを口に出せば逆賊と言われることは必至である。
戦艦が北上する。日本から離れてゆくのを刻々と感じる。
はたして志摩はこの戦争から帰還し、あの酷暑の鍛治場で骨を埋めるのか。それとも戦乱の熱狂の中、異国の地で骸となるのか。神明のみがそれを知る。
武士として死ぬなら本望だ。しかしながらこの帯刀に武士の証はない。志摩は鉄砲で敵兵の喉笛を撃つ軍人として死ぬかもしれない。表向きにせずとも、彼は鉄砲をことさらに嫌う。
嫌気が差さないよう顎髭を撫でて威風を立て、甲板と海面をもう一度見やる。
欧米式の船員服に身を包む水兵たちは、日常に潜む僅かな歪みも察する。歪んだとき、そこから先は飢えた非日常が血を欲する。
戦争は常にそうである。日常を侵犯し、憎悪と正義心を駆り立てる。ともすればその両者を混同させ、自身が騙されている可能性すらも気づかせない。
「志摩兵曹! あれは……」
水兵の指差した先に、天候の良い空が白く光る。
とっさの判断で双眼鏡で覗く。それは紅蓮の炎を帯びていた。
炎は五つに分かれ、溶岩の色をした軌跡で、巨大な、まるで人の手になった。
巨大な掌が軍艦をめがけて落下する。海面の水が蒸発し、慣れているはずの熱気が志摩を襲った。
炎の形をした巨人の手は戦艦を握り潰すようにして、志摩を苦悶の内に苦しめた。
志摩だけでなく甲板にいる人間全員も苦しんだ。おそらくこの蒸気で全員気道に熱傷を負っている。このままでは艦内にいる人間も危うい。
志摩は倒れた水兵たちを気遣うが、無駄だった。普段、鍛治場の熱気に肌を晒したことのない人間ばかりだろう。多くは呼吸ができずに動かないでいる。
それでも志摩はまだ自分だけが動けるのがありがたい。水兵を、いや、仲間を助けたい。艦内に運び入れようと、志摩は仲間の一人をかつぎ艦内へ続く扉を開けようとするも、鉄扉は皮膚が爛れるほど焼けていた。それでも志摩は鉄扉を開けるべく力を込める。だが鉄扉の隙間に溶鉄が入り込んで固く密着していた。
万事休すだった。
せめて最後は武士として死にたい。その一心で桜葉模様の長刀を海に投げ捨てた。刀は白い熱気の向こうへ没した。
苦しみと死の境界を無駄に行き来するうちに、志摩は意識だけはハッキリさせておきたいと、そう思った。せめて心だけでも最後は武士でいたいと、痛く思った。
近くで人影がむくりと起き上がる。仲間が意識を取り戻したのだろうか。数人が志摩に向かい、歩み寄ってきた。
その身のこなしは礼儀に通ずるものがあった。剣道の所作に似ている。甲板にいた者たちは、いずれも武芸の嗜みもない人間ばかりだったはず。しかしこの熱く濃密な霧の中で、彼らはいた。
「貴様の心はその程度か」
上官に向かってその態度は何事かと怒りたくなる。だが、「我は上官だ」などと言う奢りを即座に棄てる。士官の肩書きよりも自分は武士の心でありたかった。
そのような考えが浮かぶと心なしか身体が軽くなった。もはやこれまでと諦めていたはずの身体を、楽に立ち上がらす。心境は清々しい気持ちに及んでいた。周囲の熱気も不可思議なことに少しも気にならなくなっていた。
戦艦は休むこともなく、なお動いていた。
しばらく後ほどに、陸が霧の向こう側から接近する。
着岸し、周回の人影が陸のほうへ走り出す。志摩にもこちらへ来いと促そうとするばかりに。
立ちこめていた霧が晴れる。背後にあった戦艦はどこかへ消え去った。ここは背ばかりが高い木々が生えていた。一目でわかる。ここはロシアではない。
ビルマかフィリピンあたりではないかと推察したが、志摩の予想はやがて外れることとなる。現地の人はビルマともフィリピンとも違う言葉で話をしていた。それは志摩がここを訪れ、相当後になってからわかった。
志摩はその後の生涯をこの場所に費やした。
◆
木造平屋の家。畳を引っぺがしたような板敷きの部屋がある。この国に
殺風景と言ってしまってはおしまいだが、使っていた人間はここをいたく気に入っていた。工夫をして床をこまめに磨いていた。だから床板は黒光りしていた。
この部屋に、床の間をいちおうに象った箇所が、部屋の隅に在った。
掛け軸には達筆で何かしら書かれている。おじいさまと慕っていた人が揮毫したものだ。なんと書いてあるかはわからない。もうこの書かれていることの意味を問うことも叶わなくなってしまった。
背丈の高い孫娘が掛け軸を正面にして格式を整えて座し、道着姿で手をあわせて拝んでいた。
「おじいさま」
目を伏して、心の中でいまは亡き祖父の姿を思い浮かべる。
この地で出逢ったおばあさまとの間に生まれた父に、剣術と刀鍛治と玉鋼作りを教えた。そして、おじいさまと父とで、いまの孫娘と、孫息子にその技術を叩き込んだ。
心静かにしながら、目を落とす。掛け軸の下におじいさまが作った刀が置かれている。抜けば鏡のように自分が映る銀色の刀だ。
「
その直後、爆発音が轟く。
虚を突かれたが彼女は、とっさにその場で立ち上がり、何が起こったのか察知した。
「みつる!」
玉鋼を作る
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