第22話

 ギュッと抱きしめた身体はとても小さかった。細くて骨と皮しかないような身体。まだ10歳ぐらいだろうか。この小さな身体で後ろにいる子ども達を必死に守ってきたのだと思うと涙が出そうだった。


「な、に、を」

「ごめんね」

「な……」

「今まで、誰も、あなたたちを守らなくてごめん」

「や……めろ……」

「こんな小さな背中に全てを背負わせて、ごめんなさい」


 私の身体を押し返していた腕の力がだんだん弱くなって、そして肩を震わせ始めた。必死に声を押し殺すけれど、次第にその泣き声は後ろにいた小さな子達にも広がっていく。

 この子達が今までどれほど苦労をしてきたか、辛い想いをしてきたか、私に推し量ることはできない。きっと私が味わったのの何倍も辛かったと思う。でも、だからこそ、この子達には今までの何倍も何十倍も幸せになって欲しいとそう思う。


「ねえ、あなた」

「……ライ」

「え?」

「あなたじゃない、ライだ。俺にもこいつらにもちゃんと名前がある」

「……そうよね、ライ。ごめんなさい」

「別に」


 素直に謝る私にライは毒気を抜かれたような表情を浮かべる。その表情がとても可愛くて、笑ってしまいそうになるのを必死に堪えた。

 でもライには気づかれてしまったようで耳を赤くすると、噛み付くように私に言う。


「それで! 俺たちを追い出すんじゃなければなんでここを綺麗にしようと思ったんだよ!」


 口調はキツいけれど、それが照れ隠しであることは一目瞭然だった。なので私は小さく微笑むとライに向き合った。どうしてなんて、決まってる。だって。


「私にできるのが、それだけだったから」

「……は?」

「本当はねご飯を作ってあげたり、服を新しくしてあげたり……住む場所を与えてあげたり、いろんなことをしてあげたかったの。でも、私にできるのはここを掃除することぐらいしかなかったの。……もっと、もっと私に力があれば……」

「……別に俺たちは施して欲しいわけでも恵んで欲しいわけでもない」


 あまりにも情けなくて俯いてしまう。けれどそんな私の言葉を遮るようにライは言う。顔を上げると、その目はまっすぐに私を見つめていた。曇りのない、前だけを見ている目。こんなところに暮らしていても心まで貧しいわけじゃないことを教えてくれているようだった。


「俺たちはちゃんと生きている。たしかに大変なこともあるし嫌なことを言われることもある。でも別に誰かに施してもらわないと死んでしまうようなそんな弱い奴はここにはいない」

「……うん、そうだよね。私、今すごく失礼なことを言った。ごめんなさい」


 頭を下げる私に――ライは狼狽えるように声を上げる。まさか大人が自分に対してそんなことをするなんて、といった表情を浮かべていた。今までこの子達はどれだけ大人に虐げられてきたのだろう。それを思うだけで胸が痛くなる。


「べ、別に謝らなくていいよ! それに……やっぱりこういうところで暮らしているとどうしても病気になったり具合が悪くなったりする奴が出てきちまう。環境が悪いんだってわかっていても俺たちにはどうすることもできなかった。だから、ここを綺麗にしてくれたことは……その、感謝してる」

「ホント……? なら、よかった」


 へへっと笑う私に、ライは不器用そうにニッと笑う。その笑顔がとても嬉しかった。

 それから私はライに案内してもらって長屋の中に向かう。一つ一つの部屋にクリーンをかけていくと、どの部屋も見違えるように綺麗になった。

 でも、先日ここを訪れたときに感じたあの暗くて重い空気が相変わらず辺りを覆っていた。これは一体何なんだろう。


「ねえ、ライ」


 私はクリス様に気づかれないようにこっそりライに話しかけた。

 ちなみにクリス様は意外と面倒見がよかったようで、ちっちゃい子達の顔を水で拭ってくれている。まだ外壁や舗装されていない地面はあるけれど、これだけここが綺麗になったならもう人さらいの心配もないだろうと言っていた。


「どうしたの?」

「あのね、ここ空気が悪いと思うんだけど何か知ってる?」


 私の言葉に、ライは少し考え込むような表情をしたあと「こっち」と私の手を握りしめて路地の奥へと向かった。

 どう見ても行き止まりのその壁をライが蹴ると、あら不思議。壁の一部分が向こう側に落ちた。


「え、これって……」

「アイリにだから教えるんだ。絶対に内緒だぞ」

「そ、それはいいけどどうしてこんな……」


 マラストは城塞都市だ。おそらくこの壁はマラストの外に繋がっているはず。こんなところから出入りができてしまえば街の入り口で検閲をしている意味がなくなってしまう。

 それに壁があるのは外にいるモンスターや獣たちから街の人を守るためでもある。そんなところに繋がる道がこんなところにあるんなんて……。

 

「ここから外に出て野兎や鳥を狩りに行くんだ。そうじゃないと飯が食えない」

「あ……」


 教会の週に2回の食事では到底足りないだろうと思ってはいたけれど、こうやって自分たちで狩りをすることで生活していたんだ。

 でも……。


「危なく、ないの?」

「危ないに決まってるだろ」


 私の問いかけに、ライは何を馬鹿なことを言ってるんだと言わんばかりに鼻をならす。そりゃそうだ。子どもだけでこんなふうに城壁の向こうに行くんだもん。危なくないわけがない。


「でも、さ。こうしないとあいつらが死んじゃうだろ。もう俺、そんなの嫌なんだ」


 その言葉に、以前何があったのか、わかる気がした。ライはこの小さな背中に、どれだけの重荷を背負って生きているんだろう。

 なんとかしてあげたい。でも、何もできない自分が歯がゆい。


「ここだよ」


 そう言ってライが指し示したのは、城壁のすぐそばにある古い井戸のような何かだった。

 近寄らなくてもわかる。そこから臭気というか何かよくないものが湧き出しているようなそんな気配がする。そしてそれは、貧困街を包んでいたあの重く苦しい空気とよく似ていた。ただこちらの方が数倍濃く、ここが発生源なのだと


「前はこんな真っ黒じゃなかったんだ。それこそ飲めるような水で……。なのにいつの間にかこんなになっちまって。……一度、それでもって飲んだ奴がいたんだけどその日の夜に……」


 ぎゅっと拳を握りしめるライの手は震えていた。私はその手をギュッと握りしめる。嫌なことを、辛いことを思い出させてしまった。

 なんとかしてあげたい。でも、私になんとかできるのだろうか。


「クリーン」


 ためしにクリーンをかけてみるけれど、綺麗になるのは井戸の表面だけで中は変わらずだった。何か、何か方法はないの。

 必死に今まで見た本に書いてあったことを思い出す。水を綺麗にする魔法、は水属性の魔法が使えない私には無理だ。そもそもこれは水が汚れているとかそういう問題なんだろうか。

 なんというかこう、禍々しい何かを感じる。


「ねえ、ライ。この井戸には近づいちゃ駄目」

「……うん」

「何かこれをどうにかするいい方法がないか調べてみるから少しだけ私に時間をくれる?」

「わかった」


 頷くライに私は小指を差し出す。ライは意味がわからないようで小首をかしげた。


「ライも小指を出して」

「……こう?」


 おずおずと差し出した小指に私は自分の小指を絡める。


「これはね、絶対に約束だよっていうおまじない」

「絶対に、約束」

「そう。私もこの井戸をなんとかする方法を見つけるから、ライも絶対にここには近づかない。約束できる?」

「うん」


 頷くライの頭を撫でる。

 そして私たちは手を繋いで元の路地へと戻った。



 その日から、私はクリス様の時間が許す限り何度も貧困街へと向かった。最初こそ、綺麗にしたはずの路地が元通りまでとは言わないけれど汚れたりゴミを置かれたりしたこともあった。でも、そのたびに綺麗にしていると子ども達も片付ける方法や綺麗な状態をキープすることを覚えていく。

 そして、貧困街の近くに衛兵の屯所ができることになった。

 これはきっとクリス様だ。すぐ近くに衛兵がいることで今まで子ども達によからぬことを企んでいた大人も手が出せなくなった。

 そして私は――。


「アイリ姉ちゃん、これは?」

「待てよ、俺が先だ。ねえ、俺の名前はどうやって書くの?」

「あーん、順番抜かされたー!」


 子ども達に読み書きを教えるようになった。この国ではよほどのことがない限りほぼ全員が文字の読み書きができるらしい。識字率は90%を超えるそうだ。平民の子も貴族の子もみんな学校に行くことができるから。

 でも、この子達はその10%の中にいる。親のいないこの子達は学校に通うことができない。そうなると文字の読み書きや簡単な計算すらすることができない。

 結果――将来、職に就くこともできなくなる。

 それでは悪循環になってしまう。だから私はお城からこっそり紙とペンを持ち出して子ども達に文字を教えた。手始めに自分の名前を。それができたらこの国の名前や最低限の知識。私もこの国の学校に通ったわけじゃないから何か勉学が教えられるわけじゃない。でも異世界転移の恩恵を受けたのか文字の読み書きは不自由なくできるから。

 せめてこの子達が、いつか大人になったとき最低限の読み書きができるように。その手助けができればとそう思って――。

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