『柚』

ほてー。

先生の遺書



あの日___僕が高校を卒業した日___僕と先生が、初めて関係を持った日___涙を浮かべて教え子を送り出す彼女は、確かに美しかった。青っぽくて、まだ一人前の叡智を持ち合わせていない僕だったが、あの瞬間は確実に世界で一番美しいものを捉えていた自覚がある。そういうわけで、未熟な僕は、彼女の神聖な魅惑に陥落してしまったのだ。



丸くなった手紙を取り出し、渋々広げてみる。皺だらけで不格好な有様であるのは間違いないが、それがかえって華奢な字体を強調しているように感じる。それらは眩しいくらい鮮明に、僕の眼に焼き付いてくる。


これは、彼女の化身なのだ。


ふと、かつてこの手紙に筆を走らせていた彼女を思い浮かべてみた。彼女が考え、書き、触れ、読み直し、丁寧に折り、優しい指先でそっと撫でた、そんな手紙なのだと悟った。



___溜息を、深く吐き出した。



最後に先生と交わった夜を思い出していた。



いつものラヴホテルの前で、僕は先生を見つけた。

「…待たせた?」

寒そうに身を縮める彼女は、何も言わずに首を振った。ボタンの大きなコートを羽織って、マフラーを巻いていた。仕事帰りのようだった。



部屋に入ると、早速コンビニ弁当をレンジで温めた。僕が水とお酒と、夕飯を買ってくる代わりに、先生が宿泊代を持つことになっていた。どちらかが取り決めたわけでもなく、自然と定着したこのルールは、およそ一年も続くことになった。


「いつものグラタンじゃなくてよかったの?」

僕が夕飯を購入する前には決まって、先生は弁当の注文の連絡を寄越した。

好みが変わったのだと、ミートソースのパスタを混ぜながら彼女は云った。

「お酒はよかったの?」

土曜の明日も臨時で出勤しなければならないのだと告げると、彼女はペットボトルの水に手をつけた。珍しいことだった。彼女は比較的お酒に強い体質だったが、僕には特に詮索する理由もなかった。

「教師って、大変だね」

同情してやると、彼女はフォークに麺を絡ませがら、こくりと頷いた。


食事を終えると、先生にシャワーを浴びさせた。先に彼女、続いて僕、という順番も、僕たちの勝手なルールであった。その際、僕は先生の後に入る浴室の匂いが好きだった。先生は柑橘系の香水を付けていたが、それとは別に、先生本人から発せられるあの独特な甘い匂いが、僕の嗅覚と全身を刺激したのである。


あの夜、僕が部屋へ戻ると、先生は衣服を中途半端に纏ったまま、ベッドで本を読んでいた。

「何を読んでるの?」

僕が上裸のまま近づくと、彼女は紙のカバーを外して、本の正体を明らかにした。『柚』と、僕も知っているタイトルだったが、彼女が誇張したいのは著者の方であった。見覚えのある名前だった。彼女から教わった人物だと認識するまで、さほど時間がかからなかった。

「先生の同級生?」

そう、と笑顔で呟くと、カバーを元に戻して、本を鞄へ片付けた。先生は文学部出身であり、僕は同じ大学の文学部に通っている。つまり、先生とその著者は、僕にとっての先輩に当たるのだ。


照明を落としたのは、彼女の方であった。それに呼応するように、僕はベッドに入った。上から覆い被さるようにして、彼女の方からキスを仕掛けた。

あなたのキスは冷たい、彼女は時々そう云った。僕は逆に、彼女の唇が温かいと感じたことがなかった。

別にいいの、と不器用な笑顔を浮かべて、彼女は舌を潜り込ませた。そのまま自身の手のひらを僕の手のひらと絡ませようとするが、それには応じず、僕は両腕を、彼女の首に巻いた。左手で後頭部を支えながら、より深くキスをした。拒んだわけではなく、ただなんとなく、そうしたかったのである。


先生も僕も、何も言わず、ただ淡々と欲を満たしていた。広大なサバンナで2匹の虎がじゃれ合うように、僕たちは熱く交わった。



行為の際、避妊具はつけなかった。これも僕らの決まりごとのひとつであり、それはあの夜も例外ではなかった。彼女は生理痛に酷く悩まされていて、ピルを服用していたからである。

「性病のリスクもあるし……」

初めて交わった夜、不安げな僕に、あなたとしかしないから、と先生は深い微笑みで説得した。実際僕も、先生としか、したことがなかった。


それでも、僕は先生の腟内に射精するのを躊躇わざるを得なかった。浅い所や別の箇所に出してやると、先生は、遠慮しないで、と悲哀な眼を見せた。

だからあの日も、僕は先生の腟内に溢れるほどの射精をして、熱い愛情を注いだ。

「すごく気持ち良かったよ」と告げると、彼女は不敵な、サキュバスのような淫靡な微笑みを浮かべた。その微笑みに、僕は姦淫の自覚をした。僕たちの肉体関係は邪悪なものであり、この関係は永遠ではないという無常さを不憫に思った。同時に、罪悪感、背徳感が僕の全身を巡って、身悶えを呼び覚ます1歩手前にまで及んだが、それは先生の重たくて意識の遠のきそうなキスによって掻き消された。


行為を終えて、僕は先生を揶揄ってみた。

「貧乳は親譲りなのかな」

彼女はそうね、とぶっきらぼうにいってから、赤ちゃんは大きい方が吸いやすいのかしら、と不満げに呟いて、僕の身体を撫でた。

同時に、あなたは大きい方が好きなのかと、額を密着させて、目を合わせながら、そのような旨を問うてきた。

「どっちでもいいよ」

何気なく返すと、透き通った眼が一瞬揺らいだように見えたが、そう、と苦笑いをして、彼女は顔を離した。




先生が交通事故で亡くなったのは、その三ヶ月後であった。



詳細は知らないが、出勤中に交差点で大型トラックと衝突したらしい。

先生のピンク色の軽自動車に乗ったことがあるが、彼女の運転は実に丁寧で、心地の良いものであった。きっと、相手に過失があるのだろうと勝手に決めつけていた。



僕が先生の両親と会ったのはその一ヶ月後で、一通の手紙を受け取った。彼女の遺品を整理していたら出てきたのだと、先生の父は云った。



僕はその手紙を、近所の河川敷で読み始めた。

しかし、すぐ側の草野球が煩わしかったので、ずいぶん下流の方へ移動して、腰を下ろした。向こう岸までは、五十メートル程あるように思える。水辺には、悲しげな静寂が広がっている。



先生からの手紙に目を通してみると、それはまるで自殺者の遺書のように感じた。



大切な人と出逢えたことへの感謝。

教え子と関係を持ってしまったことへの懺悔。

そして、ピルを服用しているといったのは嘘だという謝罪文が記されていた。


僕は一瞬狼狽したが、禍々しいオーラを放つその手紙を、取り敢えず読み進めることにした。



実は僕に好意を抱いていたこと、その姦邪たる思念は、関係を持ってからではなく、在学中に発生したものであること、しかしそれは単なる片想いであり、倫理に背く悪事である自覚があったため、胸の奥に押し潰していたのだと自白していた。

だが、関係を持ち、交わる度に、その惨憺たる灰色の恋心は巨大化していき、手がつけられなくなってしまった、そこまで読んだところで、僕は強い悪寒を感じた。


胸の中で暑く苦しいものが沸騰する感覚を抱き、気が付くと涙が溢れていた。果たして、それらが何処から現れたものかは分からない。ただ猛烈に、どこかが痛く、発狂してしまいたい衝動に駆られた。


僕は、乱暴にその手紙を丸めて、ポケットにしまった。



僕は、あの日の___卒業式の先生の顔を、瞼の裏で描いてみた。女神のような___いや、悪魔のような___あの儚げな表情である。




___溜息を、深く吐き出した。




続きを読むか否か、手を震わせながら熟考した。長い間、目を瞑っていた。

そこで僕は、ひとつの決心を固めた。


のだと結論を下したうえで、僕は大きく、大きく息を吸った。不思議なことに、それは人生で最も心地の良い呼吸であった。

河川敷の斜面で、そっと立ち上がる。

味をしめた僕は、目を瞑り、風に打たれながら、もう一度深呼吸を試みた。

全身に、甘くて苦いものが走る。

乾ききった僕の喉は、あっという間に潤った。

目を見開く。

僕は日が暮れかかっていることを認識した。


川のすぐ傍へ下り、小刻みに震える手で、僕は手紙を滅茶苦茶に引き裂いた。

僕は、暴れ回った。

暴れながら、手紙を木っ端微塵に破いていた。

気が付くと、発狂していた。

手元から、最後の紙片が消えた。

僕は頭を抱えながら膝をつくと、可憐な字体が、静かな水面に浮かんでいることを知った。

彼女が、漂っているのだ。

ゆらゆらと、下流へと運ばれてゆく。

呑気なものだと、僕は奥歯を噛み締めた。


夕陽が反射して、水面は神々しく輝いている。その光線は、僕の足元を漂う紙片ひとつひとつにも例外なく及んでいて、それらは鬱陶しいほどに眩しく、激しく頭痛がした。


ふたつの紙片に、目がいった。この世で最も美麗な字体で、

『愛し』『てます』


僕がそれらを捉えると、


迷 わ ず 、僕 は そ こ へ 飛 び 込 ん だ 。


水 は 、 温 か い 。


彼 女 が 、 僕 を 川 底 へ と 導 く 。


僕はそこで、彼女の香りを感じた。


柑橘の香水ではない。


ラヴホテルの浴室で僕を魅了した、


あの独特な、


甘 い 香 り で あ る 。


ふと僕は、太宰治の心中を思い描いた。僕は彼女と、死ぬのだろうか__


気 が 付 く と 、僕 は 溺 れ て い た 。



僕 は、彼 女 と 唇 を 交 わ し た 。



激 し く 、 深 く 、 温 か い キ ス で あ る。

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『柚』 ほてー。 @hote-

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