85話 精神世界
「……そ、そっと……できるだけ……そっとでお願いいたします……」
「……」
螺旋階段を上がっていくペルゼン伯爵の背中が震えていた。
何か、これから恐ろしい魔物と対峙するかのような、そんな張り詰めた空気さえ感じる。何も言わずに私のあとをついてきてほしいって言われたけど、この先に一体何があるっていうんだろう……。
「――こ、こ、ここっ……ここでございます……」
ガクガクと震えながら伯爵が立ち止まり、一層弱々しい声を上げてみせた。そこは二階の廊下の突き当たりにある扉の前だった。
「ここ――?」
「――しーっ……」
「……」
目玉をギョロつかせて唇に人差し指を当てるペルゼン伯爵の顔は、正直ダンジョンの浅い階層にいるモンスターよりよっぽど恐ろしいものだった。
普通に喋っただけでこれだからね。この扉の向こう側に音に対して敏感な人がいるにしても、これはちょっとやりすぎなんじゃないかって思えるんだけど……。
伯爵の喉がぐるりと動いたあと、彼の手によってドアがほんの少しずつ、慎重に開かれていく。な、なんなんだ、この異常な緊迫感……。ダンジョンでもないのに、緊張を削除しなきゃ呼吸が苦しくなるほどだ。
――ようやくドアが開いた……って、あれ……。そこはなんの変哲もない、豪華なだけの部屋で、誰かが奥のベッドに横たわっているのがわかった。
「……け、け、けけけっ、決して……決して起こさぬよう、お願いいたします……」
「う、うん……」
か細い声でのやり取りだけど、伯爵の声はとにかくビブラートしまくってて、まるで本当に化け物でもいるかのような口振りだった。なんか、ダンジョンのボス部屋よりも重圧を感じちゃうんだけど……?
「――っ……」
ベッドで仰向けになっていたのは、黒い衣服に身を包んだ、死体のように青白い肌をした金髪の少女だった。寝ている、という風に形容しなかったのは、それだけ瞳をぱっちりと開けていたからだ。
「はぁ、はぁぁ……うぐっ……!」
「ペ、ペルゼンさん……? 大丈夫ですかっ……!?」
急にペルゼン伯爵が自身の口を両手で押さえ、勢いよくひざまずいたかと思うと、その場に額突いた。
「……に、逃げ……」
「逃げ……?」
意識を失ってしまったのか応答がない。い、一体何がどうなって――
「――はっ……」
僕の背後に何者かがいる……。
「ふふっ……」
こ、この笑い声は、女の子……?
「……えっ……?」
金縛りのようなものを感じながらもなんとか振り返ると、背後にはベッド上にいたはずの少女が立っていて、よく見ないとわからないほど薄い笑みを浮かべていた。しかも、ベッドのほうにも同じ容姿の子がいる。これは一体……。
「不思議だよねっ? おにーさん、ここはね、アリスの【精神世界】なの……」
「……せ、精神世界……?」
「そう。これはアリスのスキルで、近くにいる人を自分の【精神世界】へと招き入れることができるの」
「……つ、つまり……?」
「ふふっ。危機感に満ちたその表情……おにーさんは察しがいいみたいだねっ。つまりあなたは、アリスの【精神世界】に閉じ込められたっていうわけっ」
「……い、一体なんでこんなことを……」
ダメだ、まったく動けない。ここが既に彼女の精神世界だからか、スキルはおろかテクニックすら使えないんだ……。
「アリスね、この
「気が変わった……?」
「うん、もうこんなのいらないっ。【精神世界】にいる伯爵を通じてあなたを覗き込んだときね、新しいオモチャとしてよさそうかなって思って。だから、思わせぶりな仕草をして、最終的にここへ連れてこさせなさいって命令したの。最後のほうで逆らおうとしたから懲らしめてあげたけどっ」
「……なるほど」
それでペルゼン伯爵は、このアリスっていう子から解放されたいがために言われた通り僕をここまで誘導したけど、良心の呵責に苦しんで逃げろって言おうとしたわけなんだね。
「あ、そうそうっ。おにーさん、アリスの【精神世界】はね、オンオフの切り替えが可能でぇ、オンの間は現実世界と変わらないように見えて時間を気にしなくていいから、いつでも好きなだけ遊べちゃうよー? ふふっ……」
「……」
オンの間は気にしなくていいってことは、時間が経たないってことか。つまり僕のダストボックスの中にいるみたいなものかな。ペルゼン伯爵はオフの状態で僕に接してきたってことか。
それにしても、とんでもない化け物と遭遇する羽目になってしまった。これから僕は一体どうすればいいっていうんだろう……。
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