第10話

 ちょっと早かったが6時過ぎくらいから、北海街の街の電気屋さんみたいになっている店の辺りをうろうろしながら待ってみた。いくら何でも来るはずなんて無いよなと思っていた。


 30分も待っただろうか、ネイサン通り方面から妻の則子にそっくりな老女が歩いて来た。私は開いた口が塞がらなかった。則子が来たと一瞬思った。だが則子は亡くなっている。と言うことは則麗だ。


 髪はグレーで前髪辺りを紫色にしている。服装は地味と言うかシックで、濃茶に紫と濃い緑が混じった複雑な色合いだ。見た目は妻と比べるとやや派手目だ。


 私が茫然自失の体で則麗をまじまじと見ていると、微笑みながら近づいて来て、


「私はあなたのノリコじゃ無いわよ」


 と、開口一番言った。挨拶無しだ。久しぶりも何もなかった。


 私はその一言で、あ!この人、則麗だと確信した。つい先程別れたばかりなのに一気に彼女は年老いたなーと思っていたら、あなたパスポートの歳とった写真と同じねと言った途端、泣き顔になったと思ったらいきなり抱きついて来た。


 レストランに入って席に着くまで、私は終始言葉が出なかった。則麗も同じだった。


「まさかあそこに現れると思わなかったよ」


「そうね、でも私は今日が近づくにつれて何となくあなたに会える様な気がしてたの。だって、この日を55年間ずっと待っていたんだもの」


 則麗の目には涙は浮かんでいた。


「あなた、突然いなくなっちゃたんだもの。でもきっと2019年に帰ったんだと思ったわ。だから2019年になったら会えると思っていたの。あの後に「渡船街」を行ったり来たりしたわ。あなたの後を追って行きたかったの」


則麗は出て来た料理を取り分けてくれながら続けた。


「でも気が付いたの。私が2019年に行けたとしても、あなたは76歳で私はきっとあのままで20歳よね。で、行くのは諦めたの。それに……」


則麗はそこで大きく息をしてから続けた。


「You have a son(あなたに男の子がいるの)」


 私は則麗が何を言っているのか理解が出来ず、「いや僕には女の子しかいないよ」と答えた。


 則麗は微笑みながらも真剣な眼差しで私の目をじっと見ながら、何かを促す様な、同意を得ようとする様な雰囲気を醸し出していた。


「え?あの時の?」


 則麗は満足そうにうなずいた。


「……」


 私は再び言葉が出なかった。あの時とは、西貢の漁村のバンガローでの事だ。バンガローの部屋で休んでいた時に……。


「ごめんなさい」


 私はそれしか言えなかった。


「ノー、ノー。私は感謝しているの。本当に!あなたがそばにいるのをいつも感じてたわ。名前はあなたと同じケンと言うの」


 則麗は手を伸ばして、私の手を摩りながら続けた。


「あなたがいなくなってから少しして妊娠したのに気付いたの。正直嬉しかった。あなたを追って行きたいと言う気持ちは、お腹に子供が出来た事ですっかり無くなったわ。時空を飛んだらお腹の子がどうなってしまうかわからないものね。


 結局親に気づかれたの。当然よね。父親は怒らなかったけど、香港には置いておけないので、ロンドンにいる父の妹の所に行くようにって」


 則麗は、「イギリスの中華料理とは矢張り比べ物にならないわね」と、美味しそうに料理を突っつきながら、話を進めた。


「ロンドンでケンを産んだわ。あなたに本当によく似ているわよ。ケンを産んだ後、叔母さんがケンの面倒を見てくれたので、LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)で会計学と社会学を勉強したの。卒業後も香港に帰らずにずっとロンドンに残って、会計事務所のアシスタントを定年までしていたの」


「で結婚は?」


「ええしたわよ。日本人で私の勤め先の事務所の会計士だったの」


「だった?」


「そう。ケンが10歳の時に交通事故で亡くなったわ。結婚する時に既にケンがいたけどそれでも良いと言って。とても優しい人だった。彼との間には子供は出来なかった。その後はずっと独身。そうそう、あなた孫が二人もいるのよ。二人とも男の子でもう高校生と大学生よ」


「孫までいるんだ!それで息子のケンはどうしているの?」


「ケンはケンブリッジ大を出て弁護士になって、今は大手弁護士事務所のパートナーになっているわ。彼にあなたの話はしてあるけど、時空を超えて来たなんて話はしてないの。旅行に来た日本人とだけ言ってあるわ。私はその人の事をとても愛していたって事もね」


 則麗は握っている手にグッと力を入れた。


「あなたにとっては、全てがほんのここ数日の事だったんでしょうけど、私にとっては55年よ。長かったけど、今となってはアッという間だった様な気がするわ。なぜだろう、こうしてあなたに会える様な気がずうっとしていたの」


「ありがとう。嬉しいよ。子供や孫までいるなんて。いずれ会ってみたいな。僕の娘たちはびっくりするだろうけど」


「あら、私もお嬢さんたちに会ってみたいわ」



































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