第8話
昨日は、1964年から55年間の世の中の移り変わりを、お茶をした後も食事を交えながら則麗の熱心な問いに答えていたが、時計を見た則麗が急に「帰らなくちゃ、じゃあ明日11時に同じ所で」と言って慌ただしく帰って行った。
恐らく親が夜の帰宅時間に煩いんだろうと思った。昨日は帰りがけにニコリとした。
今日も、ホテルが入っているビルの前で待っていると、則麗が道路の反対側でタクシーを降りてこっちへ来る様に合図をした。行ってみると、降りたタクシーに乗り込んだ。
「今日は、サイクンに行きましょう」
則麗はまた私の手を取って「西貢」と手のひらに書いた。
「西貢には漁村が有って、安くて美味しい海鮮料理が食べられるのよ。タクシー代を払ってでも行く価値があるの」
手は握ったままだ。
「どのぐらい時間がかかるの?」
「途中から細い道を行くから、一時間ぐらいかしら。あ、お金のことは心配しないで、週一回だけど私、家庭教師して稼いでいるから」
懐が心許ない私の心中を察した様に則麗が答えた。
市街地を抜けて山間の細い道を抜けたり、海岸沿いを走ったりしながら「西貢」の漁村に着いた。途中に村が幾つか点在していたが、そうした村が集まって西貢市をなしている様だ。西貢市の中心街は、昔から結構栄えていた街並みの様に見えた。
先週の台風一過の好天が続いて、空は晴れ渡り、海は凪いで、絶好の行楽日和だ。今は先の事を心配しても始まらない。則麗の用意してくれた「いっとき」の休暇を、取り敢えず楽しもうと腹を括った。
港の隣に広がる美しい海岸に近い海鮮料理屋に入り、見晴らしの良いテーブルに陣取ると、メニューを持って来た女将さんの様な女性が何やら話し始めた。則麗が言うには、ここから50メートル程先に小さなバンガローが有ってそこのテラスでゆっくりと2人だけで食事が出来るらしい。
早速そちらでという事で、バンガローと言うと聞こえはいいが、掘っ建て小屋に毛の生えた様な建物に移動した。なる程仲の良い男女2人にはおあつらえ向きのプライベートなロケーションだ。食事はレストランから自分で運ばなくてはいけないらしいが、要は誰もバンガローには近づかないと言う事らしい。
都会の喧騒を離れ、妻そっくりな彼女とこうしてゆっくりとしていると、焦って元いた時代にどうしても戻らなくてはと言う気持ちが薄れていく様だ。それに、則麗は大変に魅力的な女性だ。テラスは丁度木陰になっていて、海から潮風が快く頬を撫でている。
「ねえ、2019年に戻りたい?」
「則麗といると、ここにいてもいいかなと思うけど……」
「けど……?」
則麗は私の顔をじっと見ながらそれ以上何も言わずに話題を変えた。
「そろそろ料理が出来た頃だからとりに行きましょう」
一回では運びきれず、2往復した。奮発したらしく、巨大な網焼きの海老があった。則麗は慣れた手つきで海老を殻から取り出し取り分けてくれたり、野菜を取り分けたりしてくれた。
しかし不思議だ。一昨々日会ったばかりでまるで「恋人同士」の様にしている。私自身は彼女が妻そっくりなので当然と言えば当然だし嬉しいが、則麗は、私は元より私に似た人と会った事も無い筈だ。
私が、若い頃に戻って則子とデートしている様な気分にフッとなったりしていたが、
「私はあなたのノリコでは無いわよ」
と突然、則麗が私の気持ちを読んでいるかの様に優しいが真顔で言った。
「ごめん……」
そう私が言うと、
なぜか嬉しそうに微笑んだ。
そう言えば、部屋がどうなっているんだろうという事で覗いてみると、外見から比べると思ったより綺麗に設えてあり、居心地が良さそうだ。ただ、あちこち隙間だらけでは有った。
潮風にあたりお腹も一杯になったから、少し横になろうかと私が言うと、則麗はいたずらっ子がする様な含み笑いで頷いた。
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