第7話

 「ブレマー・ヒルに行って見ない?」


 次の日、会うないやな唐突に則麗が言った。「こんにちは」も無い。


「え?ブレマー・ヒル?」


「そう、こう言う字を書いて広東語でポウマーサンて言うの」


 則麗は私の手のひらに「寶馬山」とゆっくり書きながら言った。手はその後も握ったままだ。


 「どう言う所か知らないけど、則麗が行きたいなら勿論良いよ」


 則麗の説明によると、そこは香港島の北角と言う地区の近くで、私の宿泊先の宿で働いている上海出身の女が住んでいる所で、中国からの「難民」が多く住み着いてバラック小屋が密集している地区らしい。


「その上海の子ってスージーって言うんだってね」


 と私は言うと。


「あら、良く知っているわね。もうそんなに親しい間柄なの?」


 則麗はやや真顔で聞いた。


「いや、昨日帰ったら、彼女が則麗の事を僕のガールフレンドかとか聞いたりするからさ」


「へー、それだけ?それであなたなんて答えたの?」


「え?ひょっとしてヤキモチ焼いてる?」


「……」


 則麗は、アッと言う顔をして苦笑いで誤魔化した。


 則麗は、中国本土からの難民の生活環境の改善に興味を持っている様子で、「フォード司教食糧センター」と言う今で言うキリスト教系のボランティア団体に登録して、時折り支援活動しているとの事だ。


 寶馬山の麓に着いて見上げると、かなりの急斜面にいわゆる掘立て小屋がへばりつく様にして山の中腹まで連なっている。


 階段が有って無い様な大変に急な坂道を文字通り這う様にして登った。


 階段の途中で、歯がすっかり無くなってしまった高齢の男が、何やら口をモグモグさせながら鋭い視線を我々に投げ掛けていたり、破れたシャツに半ズボンの、7、8歳ほどの年恰好の少年数人が、慣れた風に上から駆け降りて来て勢いよく我々の横をすり抜けたりした。


 喘ぎながら登っていると、階段が大きく曲がる所で則麗が足を踏み外してしまって危うく転げ落ちそうになったが、私がかろうじて受け止めた。


 受け止めたままほんの暫く抱きしめてていたら、則麗も動かずに身を委ねていたが、ハッと気が付いた様子で「ありがとう」と言いながら私のほっぺたに軽くキスをして離れようとした。私は、一瞬離すまいと手に力を入れたが、人目が有ったので直ぐに離した。


 6、70メートルも登っただろうか、あまりの急坂で身の危険を感じたのか、気丈に振る舞っていた則麗も流石に根を上げたらしく、「そろそろ戻りましょうか」と言って立ち止まった。


 立ち止まった先の崖に曲芸の様に建っている小屋の扉が開けっぱなしなので、中を覗くと老婆が赤子をあやしていた。赤子の親はきっと私が泊まっているホテルにいる「スージー」の様に、下界に働きに行っているのであろう。部屋は横長で3畳ほどの広さだろうか。家具が溢れていた。


「この崖の……」


 則麗は一瞬言葉を切ってからまた続けた。


「台風で大雨が降ると、この崖の上から鉄砲水が出て家が流されてしまって何人も死んだりするの」


 息を切らしながら、呟く様な小さな声で則麗が言った。


「でもこの地区は1980年代前後から再開発が進んで、コンクリートの大規模なアパートが建ち始めて、いわゆる普通の住宅街になっているよ。恐らく雨水の排水設備も整備されたんじゃ無いかと思うよ」


 私は則麗の気休めにと思い、少なくとも10年数年後にはこう言う危なげな掘っ立て小屋群は無くなっていると伝えたかった。


「そう、それなら良かった。実は九龍サイドにもああ言った難民の集落がいくつか有るけど、香港政庁が「難民再定住計画」と言うのを作って、いわゆる「難民アパート」をドンドン建設してそちらへ移住させているのよ」


 則麗が難民に対する支援に関心を持ち始めたのは、2年前の1962年の「ワンダー(日本では台風16号)と言う台風が香港に大きな被害をもたらしたが、とりわけ難民達の被害が大きかった事が契機となったようだ。


「付き合ってくれてありがとう。今度はあなたの行きたい所に付き合うわ」


「いや、寶馬山なかなか興味深かったよ。行きたい所?うーん特に無いけど……」


「そう、じゃあ2019年ってどんななのか教えてちょうだい。香港は中国に返還されたりするのかしら?何処かでゆっくり聞かせてよ」


 いつのまにか手を取り合って、スターフェリーで九龍に戻り珈琲舘に入って2019年がどんなになっているか話し始めた。


 九龍と香港島の間は、スターフェリーは相変わらず走っているが、今や海底トンネルで自動車や地下鉄が走っている事。ビクトリア湾は埋め立てられて大分狭くなっている事、数十階建てのオフィスビルや高層マンションが林立している事、高速道路や地下鉄があちこち走っている事、ディズニーランドが香港にも出来ている事などを話して聞かせると、則麗はひとつひとつ興味深げに目を輝かせていた。


「で、Boundary Street(界限街)から北は中国に返還されたのされてないの?中国の政治体制はどうなってるの?」


「結局は予定の1997年に香港島も含めて全部返還されたよ。中国は共産党一党独裁のままだけど、香港の政治経済体制は50年間変えないと言う約束だったんだ。でも政治的には既にじわじわと中国化を進めている様だよ」


「え、それじゃあいずれ香港は共産化されてしまうって事?」


「遅かれ早かれそうなるよね」


「あらやだ!聞かなければ良かった……」


「しかし、中国は1970代の最後の辺りから政治体制はそのままで、経済はいわゆる『改革開放』政策で市場経済を取り入れたんだ。その後、海外から製造業を中心に投資を積極的に受け入れて飛躍的に経済発展したんだ。


 2010年に中国の経済規模はアメリカに次いで世界第二位になっているんだよ。日本は1969年に西ドイツを抜いて世界第二位なったんだけど、遂に中国に抜かれてしまったんだ」


「それは物凄い変化ね!中国がそんなになるなんてチャイニーズとしてはなんとなく誇らしい気はするけど、複雑だわね」


「そう言えば、一人当たりの国民所得は、中国は人口が多いからまだまだずっと下の方だけど、なんと2014年辺りに一人当たりでは香港が日本を抜かしてしまったんだ。多少為替レートの影響もあるけど、香港の経済発展は物凄いね。香港が日本より金持ちになるなんてね」


「そんなことってあるんだ。香港人が日本人より豊かになるなんて信じられないわ……」



 





























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