第5話
朝早く目が覚めた。昨日の「VIP」ルームのままだ。夢の中で寝て起きるなんて事が有るんだろうか?もし夢なら早く覚めて欲しいと思いつつ、朝食を食べに外に出た。
朝6時を回ったばかりなのに、すでに九龍の街は活気に満ちていた。横道のあちこちの屋台の鍋から、朝日を浴びた白い湯気が立ち昇っていた。数軒の屋台を覗き、美味そうなソバがあったので食べた。
さて、腹ごしらえも済んだしと思った所、昨夜の則麗の事を思い出し、また会って見たい思いに駆られた。電話番号をくれたと言う事は電話しても良いと言う事だ。ただ、なんか有ったらと言っていたので、何にも無いのに電話しにくいけどどうだろうと自問した。
今の自分にしてみれば、則麗が「この世」では唯一の命綱だし、ましてや亡くなってしまった妻の則子と生き写しだとなると、心細さも手伝って会いたくなるのは当然と言えば当然だろう。則麗に会いたいという気持ちが、無性に「則子」に会いたいと言う気持ちに変わっていた。
もう少ししたら取り敢えず電話してみよう。大学生の様なので既に出掛けていなければ、百美酒店に泊っているのでとホテルの電話番号を伝えておけばいい。くれた住所に直接訪ねて行っても良いが、やはりともかく電話が先だろう。
ただ、なんて言えば良いだろうか……?
「会いたい!」と言うだけじゃあね。そうだ、助けくれたお礼に食事を差し上げたいと言うのはどうだろうか。食事がダメならお茶でも……。
何となく、昔、妻に初めてデートを申し込む時の様に緊張して来た。
電話をしたら誰か女性が出たが、中国語で何か言った。切れた様子が無いので待っていると男の人が出た。瞬間、則麗の父親かなと思った。ちょっとたじろいだが、昨夜ミス・ジャスミンに助けてもらった日本人だと言うと。ちょっと待たされたが、則麗が出て来た。
「ハロー、ケン!大丈夫?なんかあったの?」
開口一番則麗が心配そうに聞いた。大丈夫だと伝えると。朝ご飯は食べたか、どこに泊ったのかと矢継ぎ早に聞いて来た。
ご飯は食べた。で、これこれこう言う所に泊まったと言うと、善世大廈と言うビルの場所は知っているけど、怪しげな所じゃ無いのと聞くので、ちょっと怪しいけど安いからと言うと、則麗はクスクス笑った。
「昨日はありがとう、大変助かりました。で、良ければ今日でも明日でも夕方に食事を差し上げたいのですが、時間はありますか?」
少し改まって聞いた。
「あはは、お礼なんて良いのに、でも授業が3時に終わるので、3時半過ぎにその善世大廈の前で会いましょうよ」
やはり電話して正解だった。彼女は救いの神だ!
彼女に会わなければどうなっていたことやら。何となくこの巡り合わせは、妻の則子の「差配」なのではと言う気がしてならなかった。
善世大厦の前で待っていると、則麗が息を切らして来たと思ったら、早速、「ねえ、その百美酒店に行って見たいんだけどと言うではないか。
別にやましい事は無いが、「ああした女性」がいる所に連れて行くのは如何なものかと逡巡していると、則麗はさっさとエレベーターの方に歩いて行ってしまった。
宿の入り口ロビーに入ると、5、6人の若い女性が一斉に則麗の方を見てざわついた。則麗は全く臆する事なく、どこの部屋か目で私に聞いた。
則麗は、キョロキョロと廊下左右の部屋を興味深そうに観察しながら、私の部屋に入り、無言で念入りにチェックしていた。最後に大きく息を吸って吐き、ありがとうと言った。
私が、「それでどう?」と聞くと、思ったよりは悪く無いわねとニコッとした。
ロビーに戻り、則麗はやおらそこにいる女達と話し始めた。ロビーと言っても小さなクリニックの待合室程度の広さで、今日も5人ほどの女が座っていた。
女達と何を話しているのか皆目見当がつかなかったが、則麗が何か色々彼女らに質問している様だ。
この光景、昔に則子とオランダのアムステルダムの「飾り窓」を見学に行った時となんか似ている。則子は飾り窓の女性と親しげに話していた。私はその話しの輪に入らなかった。何となく気恥ずかしかったからだ。
今回は言葉がわからないので会話に加わりようが無かった。女達も則麗に興味を持ったらしく質問をし返していた。
帰り間際に則麗が顎で私を指しながら女達に何か聞くと、女達は一斉に笑いながら首を振った。
「僕が誰かを部屋に呼んだか聞いたんでしょう?」
ホテルを出てから私がニヤニヤしながら聞くと、「あ、分かった?」と平然と答えた。
「あそこの女性達、大体中国本土の広東省辺りから難民でこっちに流れてきた人達なの。1人背が高そうでちょっと可愛い子がいたけど、その子は上海からだと言っていたわ。共産党政権が嫌でと言うのもあるけど、大体が生活が苦しくて香港に来れば何とか食べて行けるだろうと言うので、ブローカーみたいなのになけなしのお金をふんだくられたりしながら、苦労して来たんだって」
私の宿泊所見学の後に近くの珈琲舘で、ああ言う所があると言うのは知っていたけど行ったのは初めてだったわと言いながら、彼女たちの身の上を説明してくれた。
「で、女の子、部屋に呼ばなかったの?」
則麗が唐突に聞いてきた。
「え?それどころじゃなかったし、お金も無いしね」
「じゃあお金が有ったら呼んだの?」
興味津々の顔で聞くので、街のポスターに舞庁(ダンスホール)とかに行くと「ろうそく病」になって指が溶けるとか書いてあったし、ああ言う所はもっと危ないので……、と言うと、あっさり「そうね」と言ってそれ以上の追及は無かった。
私は、正直それどころでは無かったし、体はともかく、何せ76歳だ。
後で気付いたが、恐らく彼女は、私がそう言う事をする男かどうかを確かめたかったのだろう。
ともかくこのままと言う訳は行かない。かと言って日本の領事館に行って2019年からタイムスリップして来たと言っても信じてくれるだろうか。今日は金曜日で領事館はもう直ぐ閉まる時間なので月曜日に行ってみようかと思っている。
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