【短編】大晦日、除夜の鐘。それからたこ焼き。
タライ和治
大晦日、除夜の鐘。それからたこ焼き。
寒さに身を震わせて夜空を見上げた。東京から少し離れたこの場所では、星が綺麗に見える。
吐息が暗闇に混じって消えるその様は、世界の終わりのようにも感じられ、新年を迎えたばかりなのにも関わらず、僕はなんとなく空虚な気持ちに陥った。
除夜の鐘が辺りに響いて、我に返る。近年では騒音のクレームで除夜の鐘を自粛するところも多いらしいけれど、ここはそんなこともないようで少しだけ安心した。
視線を戻すと、寒さに身を震わせた由佳里が明かりの連なる夜店を眺めている。つらつらと人の群れを成すその光景は、新年を祝うにふさわしい賑わいで、見ているだけで十分に楽しい。
寒いと由佳里が言ったので、僕は頷いた。重ね着をして、ニットのマフラーを巻いて、ダウンコートの両ポケットに使い捨てカイロを入れていても、寒いものは寒い。
まっすぐ本殿へと延びる列は午前零時を過ぎたばかりであまり進まないから、身動きが取れず、余計に寒くなる。
「たこ焼きいいなあ……」
「初詣に来たんだろ? 新年の無事を願う前に、粉モノの誘惑に負けるなよ」
年末年始体重が増えるので、今回こそ! と、三時間前にダイエット宣言をしたばかりの彼女へ僕は言った。由佳里は一瞬ばつの悪そうな顔をした後、それでも諦めようとはせずに応じ返す。
「いいじゃない。人間だもの。神様へお願いする前に、誘惑へ駆られることだってあるでしょう」
「参拝が終わってからでもいいだろ?」
「急な空腹とソースの匂いに勝てないのが『女心』ってものなの」
キッパリと言い切って、少しずつ列から外へ抜け出そうとする。静かにそれを止めて、少しでも温かくなるようにと、僕は由佳里の手を握り、コートのポケットへ入れた。
未練の色をにじませる由香里に苦笑交じりのため息を吐きながら、除夜の鐘が鳴り響く境内で、僕はふと、昔のことを思い出した。
「そういえば、知ってる? 除夜の鐘ってさ、煩悩を消し去るんじゃなくて、願い事が叶うためにあるんだって」
「……? 何それ? 聞いたことない」
「そうだろ。『マリオのおじさん』の受け売りなんだけどさ」
「『マリオのおじさん』? 誰それ?」
参拝までの間、昔話で寒さを紛らわせるため、僕は鐘の音に併せるように遠い日の記憶を少しずつ辿っていった。
***
『マリオのおじさん』は僕が小学一年生の頃、幼なじみの加奈と遊んでいる時に出会ったおじさんである。
年の終わりが近付く頃、冬休みでも変わらず、いつものように加奈と遊びに出かけた僕は、どうしても行きたい場所があると言い出してきかない、加奈の後ろを付いて歩いていた。
ニコニコ顔を浮かべたままの加奈が連れてきた場所は、もふもふとした毛並みが立派な犬を飼っている近所のおばさんの家でも、ジャングルジムがある公園でもなく、大きな鐘があるお寺だった。
「あのね、コウちゃん。これを突くの。『じょや』っていうんだよ」
夜店の準備で賑わう通りを抜けて、嬉しそうに加奈が言う。テレビか何かで知ったのだろう。得意げに続けた。
「これを突くとね、悪いものが飛んでいって、いい子になれるんだって。ママがいってたの」
そう言って、鐘のある場所へ向かって走り出した加奈を慌てて追いかける。加奈には悪いけれど、『じょや』についてなら僕の方が詳しかったからだ。
「でも、加奈。鐘は三十一日の夜、『おおみそか』に突かないといけないんだよ」
「イヤなの。だって私起きていたいけど、寝ちゃうもん。だから、いま突くの」
「ダメだよ。お坊さんに怒られちゃうよ」
「もう、いま突かなきゃダメなの。コウちゃんは『おんなごころ』がわかってないんだから」
ませた口調はどこかしら駄々をこねるようにも感じられ、僕は僕で、決まり事をちゃんと守ろうと加奈に言い聞かせようとしていた。やがて加奈と「突く」「突かない」という言い争いが始まり、段々と加奈の顔が泣き顔へと変わっていく。
僕が「まずい」と思った時には遅く、ついには加奈が泣き出してしまった。
「なんとかしなきゃ」と思った僕は、それでも鐘は突いてはいけないと、加奈が好きな遊び場に誘った。砂場で一緒にお山を作ってトンネルを掘ろうとか、学校へ行って飼っているうさぎを見に行こうとか、一生懸命誘ったけれど、加奈は泣きながら首を振る。
しまいには、僕も泣きだしてしまいそうな気持ちになってくる。すると、後ろから「どうした?」という大人の声が聞こえるのがわかった。
お坊さんだと思った僕は一瞬身を固くした。鐘を突こうと思っていたと言ったら、どれだけ怒られるだろうか。些細なことなのだが、子供心にはものすごく悪いことをしているんじゃないかと感じられたのだ。
恐る恐る声がした方を振り向くと、そこに立っていたのはお坊さんではなく、スーパーマリオのような、立派な口ひげを蓄えた、見たことのないおじさんだった。
「鐘を突きたいのか?」
加奈まで近付いたマリオのおじさんは、その場にしゃがみこんで、なるべく優しく話しているようだった。すっかり怯えてしまった加奈は僕の後ろに隠れて、ただ静かに頷くのが精一杯に見える。
マリオのおじさんは「よし」と相槌を打ち、加奈の頭の上に手を置いて、ちょっと待ってなとお寺の方へ走っていく。もっとも走り姿はマリオのBダッシュには程遠いものだったけれど。
「マリオ走るの遅いなあ」
その姿を見た僕はすっかりおかしくなって笑った。先ほどまでの悲しい気分が嘘のように落ち着いたので、僕の服を掴んで離さない加奈に、いつも通り話しかけることができた。
「どうしても今日がいいの?」
加奈は黙って頷く。こうなってしまってはお手上げだ。大人しくマリオのおじさんを待つことにしようと考えていたのも束の間、遠くの方から手を振って、マリオのおじさんが走ってくるのが見えた。スポーツとは縁の無い、愉快な走り方だ。
走りながら、すっかり息の上がっているマリオのおじさんは、僕らの前に到着するなり「やったぞ」と声を上げる。
「お嬢ちゃん。鐘突いてもいいってさ」
マリオのおじさんは呼吸を整えながら、やっとという感じで口を開く。それを聞いた加奈が、僕の服を離し、それまでとは嘘のような笑顔に変わった。
「本当!?」
「おお。おじさんはな、ここの坊さんとは昔からの付き合いだからな。すぐにいいって言ってくれたよ」
加奈はすっかり舞い上がって、嬉しそうにはしゃいでいる。でも『じょや』は三十一日の夜と知っている僕はどうにも納得できない。
「本当にいいの?」
「何がだ、坊主?」
「『じょや』はまだだよ。鐘突いちゃいけないんじゃないの?」
それを聞いたマリオのおじさんは、大きな口を開けて愉快そうに笑った。
「はっはっは、坊主。小さいことにこだわっているようだと将来偉くなれないぞ」
「でも……」
「それにな」
僕らにだけ聞こえるよう、小さな声で話し続ける。
「坊主は小さいから知らないだろうけど、除夜の鐘は願い事を叶えてくれるんだぞ」
「ほんとっ?」
目を輝かせて、加奈が飛び跳ねた。
「本当だとも。百八つの悪いものが出ていって、そのお祝いに神様がひとつだけ願い事を叶えてくれるのさ」
「でも、まだ三十一日じゃないよ?」
「子供は夜に寝ちゃうから、神様もサービスしてくれるんだよ」
マリオのおじさんはそういってニカッと笑った。加奈はいてもたってもいられないといった様子で、すぐにでも鐘を突こうとしている。僕も自分が知らなかったその話を聞いて、鐘を突きたくなった。
「……じゃあ、僕もやる!」
「コウちゃん、一緒に突こう!」
そういう加奈と一緒に、鐘を一回突いた。大きな音は体中に響いて、静かに消えていく。満足そうな僕らを見て、マリオのおじさんは何度も頷いてから、加奈に尋ねた。
「願い事は何にした?」
「コウちゃんとけっこんするの!」
加奈が元気良く叫ぶ。僕はなんだか照れてしまって、すぐに返事ができなかったけれど、「ダメなの?」という悲しそうな加奈の顔を見て、断れるわけが無く、一回だけ「うん」と頷いた。
ぱあっと明るくなるその顔を見た時、加奈とずっと一緒にいられるのならそれもいいなと僕は思った。そして、加奈と同じことを神様へ願おうとしていた矢先、マリオのおじさんが、ズボンのポケットからキラキラ光るものを取り出して、「お祝いにやる」と僕の手のひらに乗せてくれた。
「男なら、惚れた女に指輪のひとつぐらいやらないと」
それはお母さんの持っているものとは違ったけれど、見たことの無いぐらい綺麗な指輪だった。マリオのおじさんいわく「百万円するんだぞ」といっていたけど、本当にそのぐらいしそうなぐらい、キラキラと輝いている。
後押しをするマリオのおじさんに負けて、くすぐったい気持ちで加奈の指に指輪をはめる。
とても嬉しそうな加奈の顔を見て、この時間が永遠に続きますようにと、僕は心の底から神様に願った。
***
「いい話ね」
微笑みながら由佳里がいう。ポケットの中の手はすでに温まり、参拝の列も進んでいる。
「それから彼女とはどうなったの?」
「それが翌年の夏に引っ越した」
この話には続きがある。除夜の鐘が鳴り響く午前零時、加奈は寝てしまっていたようだけれど、僕は両親に連れられて初詣にきたのだった。
神社までは夜店の並びを抜けなければいけなかったけれど、その一角に見覚えのある口ひげのおじさんがいた。
「おう! 坊主、また会ったな!」
マリオのおじさんだった。どうやら夜店をやっているおじさんらしく、女の子向けのアクセサリー屋を開いていた。
今でこそ子供だましなんだろうけれど、当時にしては珍しいキラキラ光る石が付いた指輪などがいっぱい置いてあり、新年を祝うため、夜更かしを許された近所の女の子たちが、親にねだって買ってもらっていたのが印象に残っている。
そして、指輪を買った小さな女の子の親に、七百円のお釣りを渡しながら言った、マリオのおじさんの一言を僕は一生忘れないだろう。
「へい! お釣り七百万円ね!」
あの時、おじさんの言った「百万円もする指輪」とは、いわゆる下町における八百屋や魚屋と同じノリの冗談だったのだ。特にショックは受けなかったけれど、加奈がいなくて良かったと強く思った。
加奈は加奈で、そんなことは知らないまま、翌年の夏に北海道へと引っ越していった。
幼い頃の願いが叶うことは無いだろうけれど、最後の最後まで大事そうに持っていた、指輪の想いだけは消えてしまわぬようにと、子供心に願ったのを覚えている。
「百円でも百万円でも、想いの強さは一緒じゃない」
「まあ、そうなんだけどね」
笑いながら夜店を眺めた。加奈はいつまで指輪を持っていたのだろうか。想いはいつ消えてしまったのだろうか。昔は考えなかったことを、今になって振り返ってみる。
本人以外わからないことだろうが、せめて思い出話のひとつとして、記憶の片隅にしまっておいて欲しかった。
その時だった。ふと、記憶の片隅にあった指輪を、視界の片隅に捉えた。夜店の一角にあったのは、間違いなく子供の頃に見かけたアクセサリー屋だったのだ。
心臓が高鳴るのがわかる。「まさか」と思って、店をやっている人物を眺めたものの、物事はそう上手い事運ぶものではなく、店番をしていたのは、あのマリオのおじさんとは似ても似つかない、中年の女性だった。
アクセサリー屋は今でも物珍しいらしく、夜店の周りには小さな女の子がたくさんいる。その中でひとり、保護者にしては違和感のある若い女性を見つけた。
やがて女性は指輪をひとつ手に取り、そして、そっと指にはめてみせた。その仕草と、静かに微笑むその表情に、僕は思わず息をのんだ。
やがて、女性の隣へ、興味の色をたたえた男性がやってくる。
「それおもちゃだよ? 欲しいの?」
「おもちゃでも百万円の価値になる時があるのよ。それが『女心』ってモノなの」
会話のすべてを聞き取ることはできなかったけれど、男性への笑顔で僕は確信した。そして、とても嬉しくなった。
「どうしたの?」
夜店を眺めていた僕に由佳里が問いかける。なんでもないよと答えて、由佳里へ尋ねた。
「たこ焼き、食べに行く?」
ゆっくりとかぶりを振る由香里は、少しだけ僕に寄りかかる。
「たこ焼きを食べるより大事なことあるでしょう? ホント『女心』がわからないんだから」
いつの間にか鐘の音は終わりを迎え、辺りは新年を祝う声で溢れている。あれから十数年経ち、除夜の鐘は願い事など叶えないということがわかるぐらいに大きくなった。
相変わらず『女心』については、わからないことだらけだけれど。
それでも、過ぎ行く日々を彼女と一緒に過ごしていけるようにと願い、僕は由香里の手をしっかりと握りしめた。
【短編】大晦日、除夜の鐘。それからたこ焼き。 タライ和治 @TaraiKazuharu
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