✯8.5 一人が“それでも平気だ”といえば、みんな歌って踊り、オナラをする


 急に患畜みたいにもだえだしたと思ったら、ぎんは交番を飛び出して便所に突っ走っていった。

 おもっくそ間違えて男子の方へ入ってったけど、まああっちにも個室はあるか。

 いやだね、どうにも刺激が強すぎたらしい。


「というわけで、やっぱりおれの役じゃなかったよ。――ああ、交番前だ。あとよろしくな」


 要件だけ電話のむこうに伝えて、通話を切る。


 交番からずっと遠目に便所を眺めているが、まだあの愚妹が出てくる気配はない。


 もっとうまいやり方があったんじゃないか。

 そんな感傷も、今ならアリかもしれなかった。


 おふくろがさっさと死んで、物心がつく頃から一応アレの親代わりをしてきたつもりだ。

 けれど、親がなにもかもしてしまうのだとしたら、子どもに隣人は不要となってしまう。箱入りとか手塩にかけてなんてことばには寒気がする。

 自分のケツは自分で拭け。

 紙がなかったらお人よしを待て。


 親のつとめとしては、やれやれ世話が焼ける、と肩をすくめておくくらいが適当かな、なんて、らしくもない溜め息をついたところで、「おかあ……」と、かぼそい声を聞いた。

 背中を振り返ると、チョコレートソフトのお化けみたいな小動物が、パイプ椅子の上でぐったりして寝息を立てている。


「いやいや、なんでこういうときばっか、いつもみたく『エミュー』とは呼ばんのかね、おまえさんは」

「おかぁ、さん……」

「おーおー、サービスいいねえ、よすがたん様よ。ったく」


 首のすわらない小さな肩に乾いた手をまわして、抱きあげる。

 はて、あの喫茶店のココアにはこんなにミルクのいい匂いがついてたっけな、なんて。

 この匂いを嗅ぐたび口元がゆるむのがなんだか悔しくて、毎度そんなふうにとぼけてみたくなる。いっそヤニの匂いでも染みついてくれた方が気楽だろうに。


「おまえさんや、自分が軽かったことなんて一度もなかったのを知ってるかい?」

「ぎん、おねぇ、ちゃ……」

「……今これ聞いたら失神するかな、あいつ」


 くだらないことを思いながら交番を出る。


 巣立ちのときに母親の品格を問われるいわれはなかった。

 目を覚ましたときに自分がいなくても、小鳥はきっと飛んでいける。


 窓ぐらいは開けておいた。

 念のため空模様も確認しておいて、街灯の明るい方へとまぎれていくことにした。



 つづく

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