✯8 みんな少しは醜い。人はみんな醜いのかも


 衛幸えみゆ


 あたしのお姉ちゃん。


 隠し子がいた。


 夜祥よすがちゃん。略して、よるたん。


 女の子。八歳。


 産まれてすぐ、施設に預けられて、音信不通。絶縁。断絶。


 あたしの知らなかったこと。ついこないだまで、知らされていなかったこと。


 ずっとお姉ちゃんとふたりきりの家族で、でもきっと、四人だったこともあった。

 あたしは声も知らないお母さんと、それから――


 笑い合っていたのはいつも、三人の記憶だ。

 そう、うっすらと残る幼い記憶。


 懐かしい声。■■■■■の――


 いつの間にか、ひとりになってた。


 少しして、お姉ちゃんが帰ってきた。

 ふたりになった。


 なにもわからなかった。

 あたしだけなにもわかってなかった。


 夜祥ちゃんは、お姉ちゃんの娘。血のつながった親子。


 あたしは、夜祥ちゃんの、叔母さん。血のつながった、お姉ちゃんでお母さんの、妹。


 あたしたちは、■■■■■の、■■■。




 姪っ子ができた。


 五か月前、家族が三人に戻った。



          ✯



 チィース、迷子でぇーす。


 みたいなノリでね、交番に行けばね、暗くなるまでならおまわりさんも相手してくれると思ったわけですよ、銀ちゃんまだロリだから法的には、ロリで押し通せるから。


 日なたのマウスみたいに走り回るのも疲れたし、ひなっちも幼馴染みがいくら血迷ったからって自首しに行くなんて思いつくまい。

 へへーん、冗談でもあたしを被告人呼ばわりした罰だぜ。せーぜーお人よしをこじらせながら街灯の下で右往左往してなこのマザ【ピ――――】


 けどね、聖職者気取りのボウヤより一枚上手のこのあたしでもね、さすがにマジモンのロリータがそこで待ち構えているとは思いもよりませんでしたよ、と。


「……なにしてんの、よるたん?」

「迷子」


 ヘェェェィ、キューツガール!

 マイゴ? マイーゴ?

 オーゥ、マイーゴ、ミーモマイーゴ!

 マイーゴトモダーチ、略シテマイ☆トーモ!

 マイーゴトマイーゴデア☆ミーゴ☆マイトーモ、イェェェーィ!


 意味不明すぎる……!

 あたしの頭の中がじゃなくて状況が意味不明すぎる!


 よるたんが迷子? なに、どういうこと?

 責任者は? 保護者は?


「いや、お姉ちゃんは?」

「はぐれた」


 はかなげなのに耳に残るいつものミステリアスなお声でよるたんはのたまう。デスクと向かい合わせのパイプ椅子にチョコパフェみたいなポンチョで自分を盛りつけたまま淡々としている。

 ツーサイドアップ変形のダブルシニョンからは両方カバーが外されていて、お団子がチョコチップみたいだ。


 交番にはほかに人がいない。おまわりさんはちょうど奥にいるのか出かけているのか、とにかくあたしとよるたんのふたりきり。

 ぐちゃぐちゃの頭を抱えてあの子と見つめ合う。


 姉はがさつで鈍感だ。

 けれど、大切なものからうかつに目を離すほど抜けてはいない。

 小さい頃からあたしもやんちゃだったけど、お姉ちゃんと出かけてひとりで迷子になることは一度もなかった。


 そんなお姉ちゃんが、おとなしいよるたんとはぐれるわけがない。

 よるたんのことを大事に思っているのなら、家族と思っているのなら。


 ほらね、ひなっち? これだもの。


 これでどうして不安にならないなんていえるの? どう見たって、これはもうだれかがなんとかしなくちゃって思うんだよ。

 ほかでもない、妹で叔母のあたしだからこそ、しっかりふたりを見てあげないとって。


 こんなのって家族じゃないよ。

 こんなんじゃ、いつまでたっても本物の家族になんかなれないよ。でしょ?


「ひとり?」

「ほえ?」


 ありえない迷子があたしを見て首を傾げる。


 それがあたし自身のことをたずねているのだと気づくのに、たっぷり数秒を要した。


「ぎんも、ひとり?」

「あ……あぁあああぁぁえぇぇっとぉーぉぉ、うぅっ、うんっ、そうなの! そうそうそう! いやぁ、ついさっきカレシに振られちってさー。あーいやいやいや、もちろんこっちから振らせてやったんだけどねー? これがマザコンの上にロリコンの上にコンクラベーコンってもうどーしょーもないやつでさァー」

「そう」


 後半なにいってるかさっぱりだったと思うんだけど、あたしもそうなんだけど、よるたんはあいかわらずのマイマイペースで淡泊に頷いてくれた。


 それからさらりと「じゃあ、きょうはいっしょ?」なんて訊いてくる。


「ぎんといっしょ、楽しい」

「おぉん、うれしいこといってくれるね姪御殿めいごどの。でも今日はうちのボンクラ姉御とらぶらぶデートじゃなかったんかぃ? せっかくふたりっきりのところをあちきなんかが邪魔しちゃいけねーや。また今度な、お嬢ちゃん」

「ぎんもいる方が、楽しい」

「いやいやいやいや、あたしとはよくいっしょにいるじゃん。ていうかだいたいいっつもあたしとばっか遊んでんじゃん。たまにはお母さんとさぁ、ほらぁ、ベタベタしたいときってあるでしょ? アツアツでちゅっちゅとかしたいでしょ? 空気読めないあたしなんかがいないときにさ。ね?」

「エミューはむり」

「む、むりってあんた……」

「ぎんはぎん。にぎやかなのは、ぎんの方」

「だ、だからさぁ……」

「三人が、楽しい」

「!?」


 温度がしなくなったんだ。


 よい川面かわもみたいな瞳が、こっちを見ていた。


 あの子の薄い唇が、再びさざめくのを聞いたとき、あたしはあたしの中にともった灯りが、それよりはるかに低い体温を冷たいものに思わせたんだと、ぼんやり理解した。


「わたしは、ぎん、好きよ」

「…………っ!?」


 あ、ダメだ。


 あたし、これ以上ここにいちゃいけないやつだ。


 いったい今日、何度目だろう、この銀ちゃんともあろうものが、いち早くその場から逃げ出したいなんて気持ちに襲われるのは。


 いやになる、本当に。

 自分のこのぎょしきれない気持ちがいやになる。


 だけど、この熱で走り出せたじゃないか、ついさっきは。

 まんまと逃げのびたじゃないか。(ざまぁみろ)

 足が地面に根を下ろしたわけじゃあるまいし、動かそうと思えば動かせる、(ざまぁみろ)動こうと思えば動ける、逃げ出せる。

 目の前の少女から。なにも知らずにあたしを好きといってのける姪っ子から。

 なにも知らないくせに。

 なにもわかってないくせに!

 何様のつもりで!


「なにが……三人よ……」


 間に合わなかった。


「なんにも、わかんないくせに……」


 いつも逃げおおせてきたのに、まるめ込んでしまっておけたのに、


「あたしが、――ってたのはッ……」


 しくじった。今日なんかに限って、しくじった!


 ざまぁみろ、あたし。ざまぁみろ。


 ざまぁみてよ。


「あんたじゃ、ないっ……待ってたのは、あたしがっ――あたしがずっと帰ってきてほしかったのはッ、あんたなんかじゃ!!」

「すとーっぷ」

「びやう!?」


 ワーッ、なんかピチャっていった! 首筋になにかピチャっていった! 冷てっ!

 なにっ、なんで濡れてんの!? だれ!?


「ハァイ、ジョージィ。ハッピーファーデルクリスマス?」

「うおおおお姉ちゃんん!?」


 振り返るよりも早く、微妙に間違った英語であいさつされてだれだか気がついた。

 ふんどしみたいなぶっといリボンが視界の端で揺れている。

 飾りっ気のないパンツジャケットとビジネスコートな装いで、濡れそぼった手をひらひらさせながら、その人は交番の間口に立っていた。


「いやー奇遇っすねーぎんちゃーん、デートじゃなかったんすかー? もう振られちゃったんすかー? 最短記録トプレコ更新っすかー?」

「なんで出会いがしらにケンカ売られてんのあたし!? ていうかなにが奇遇か! 今までどこにいたのさ!」

「どこって……」


 顔をきょとんとさせたわが愛しの馬鹿姉は、立てた親指で交番の向かいを指さした。

 あっちの地下駐車場入り口には、確か公衆のお手洗いがある。


んだお花を流しに」

「お花を摘みにでいいでしょうがそこはァ! 今ひとつぼかし切れてないどころかむしろお花出したみたいになっとるやんけ! ていうか手ぇ拭いてこいや! ハンカチぐらい持ってんでしょうが!」


「ハンカチなー」お姉ちゃんはなぜか得意げに笑う。「アイスでべとべとになっちまったからなあ」


「はああ!? ば、ば、ば、ば、ば、ばっっかじゃないの!! なに!? このクソ寒いのにアイス!? コタツで贅沢ぜいたくならともかく屋外で修業!? なにも考えずにそんなことしてるからおなか壊す羽目になるんだよっ!」

「壊してねえよ、快便だったぞ。多かったけど」

「結局ンーコかよ! いうぅぅぅなよ!!」

「朝重めだったからなー。夜祥はこっちで待ってて正解だったぜ」

「はぁ? ちょ、ちょっと、もしかして、よるたんの迷子って……」

「ちょうどだれもいなかったからよ、まあ迷子ってことにしとけばそんなに驚かれはしねえし。べつにおれの手帳持たしといてもよかったんだが、ここの巡査部長には顔が利くんだよ。しかしまだ戻ってきてねえとは、商店街のイヴ勤死ねるってマジっぽいな」


 カップルの喧嘩の仲裁は、精神的にも来るものがあるらしい。

 だから人間不信になる前にさっさと嫁さんもらえっていってんのに。お姉ちゃんは立て続けにブツブツとなにかいってるけれど、あたしにはよく聞こえない。


 よるたんは、たぶんお姉ちゃんにいわれて、かたくなに迷子のふりをしてただけ。

 それなのにあたしは、勝手にいきどおって、勝手に焦って、追い詰められたつもりになって、勝手に爆発しかけていた。

 あたしひとりが、勝手に。


「こら、銀霞」

「うぴっ!?」


 また首筋に水気。「姉の話は最後まで聞くもんだ」「ふざけんなコラァ! いいかげん手ぇ拭け手ぇッ、コートのすそで拭いちゃえよっ、このガサツ女!」


「おまえは夜祥にああいいかけたけどな」

「ああんッ!?」

「本気で夜祥がなにも知らないって、思ってるのか?」

「当たり前でしょ! なんッ………………で……」



 ……え?



 お姉ちゃんは、いつも飄々ひょうひょうとしている。

 昔から、なにごともなかったみたいに。


 でも今は、珍しくなにかあったみたいに、なにか、悲しい目をしていた。


 だれかを憐れんでいるようで、でももっとずっと寂しげな、どちらかといえば、申しわけなさそうなまなざしで。


 いいや、珍しくなんかない。いつも飄々としてなんていなかった。


 そのまなざしを、幾度も見たことがあった。


 ふたりきりになったばかりの頃、ことあるごとにお姉ちゃんがあたしに向けていた視線。

 不安に負けて泣きじゃくるあたしを前に、いつも途方に暮れてはその目をして。


 振り返る。


 そこにいる少女は、上品なネコのように丸い目をはっきりと開いて、なにも動じずにあたしたちを見つめていた。


 そうしていられるのは、自分で選んでここに来たから?


 しかたなく来たわけでも、だれかに勝手に選ばれて来たわけでもなく。


 納得していた。自分で納得して、この子はここにいる。

 あたしたちのそばにいることを選んだ、望んだ。

 あたしの前に現れることも、この子自身が選んだんだ。


 ――それじゃあ、あたしは?


 息がつまる。


 ――あたしは、なに?


 気圧され、おびえていた。


 ただ立っていることが、途方もない所業に思えてくる。


 本当はわかってた。いつも逃げ出したい衝動に駆られるどころか、ずっと逃げに逃げ続けてきたんだって。

 あの子のことを知ったときから、その失望からも後悔からも顔をそむけてきた。泣くことも怒ることもできずにいた。

 いつかきっととあれほど思っていた自分自身を、どうしたらいいのか皆目見当もつかなくて、なにかが始まったふりをし続けていた。

 なにも終わってないんだと、自分にいい聞かせ続けていたかったから――


「……夜祥」


 あの人が娘の名を呼ぶ。


「今日はこのまま銀の字おばたんを帰してもいいし、帰さなくてもいい。夜祥はどうしたい?」


 肩がこわばった。

 あたしの意見なんてお構いなし、よるたん次第。

 だけれど、あたしはなにもいい返せない。


、うれしい」


 答えを聞いた途端、喉の奥にすっぱいものがせりあがってきた。

 反射的に口を押さえて、でも頭の中は騒然となって、おかげでロケット花火みたいにあたしは交番から逃げおおせた。


 目の前がチカチカする。



つづく

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